HIRO.F's Scrawl

2021/10/25(月)21:47

余部鉄橋跡地、大乗寺 #GSXR #GK71B #昭和のバイクといつまでも #自分のバイクのルーツを巡ろう

GSX-R(1424)

12:32 当時は鉄橋でした 慰霊碑しかなかった ここまで走って、喫茶店でビール飲んで帰るのが定番だったなあ。。。 当時も慰霊碑の前でお祈りしてました。。。 喫茶店!!ここですよ。バイクなのに、ビール飲んだりしてたなあ。。。時代です。。。 もちろん、そのあと、たっぷり休憩して、冷ましてから帰りましたけどね。。。 当時は鉄橋でした慰霊碑しかなかったここまで走って、喫茶店でビール飲んで帰るのが定番だったなあ。。。#GSXR#GK71B#昭和のバイクといつまでも#自分のバイクのルーツを巡ろう pic.twitter.com/2Z6gB1gVD9— HIRO.F (@HIRO_HKAGES) July 18, 2021 ほんとに、よく走りに来ました 1990/04餘部ツーリング GSX-Rを買って、初めての春かな。 前の年は、サークルやってて、その合宿で、須藤のMVXとハッシーのFZRを見て、むらむら来てた。 俺らの年がみんな辞めることになって、しょうがなくバイト生活になったときの目標のGSX-Rを手に入れて、初めての春!! 楢原とは、原付の時にもアドチューンと、JOGで、200kmツーリングやって、ガス欠と寒さと戦ったり、色々走りにいったなぁ~ とにかく、このころは、みんなバイクの話ばかり、みんな女いなかったから、それしか話がなかったね。。。 その楢原が、友達から5万でΓを譲ってもらって、桜を見に行ったのが、このツーリング いつものコースの浜坂を走り抜け、香住、桜が満開だったのは大乗寺だったかな 女を乗せて、行ったこともあったっけ。。。(?) 余部の鉄橋は、何度も行ったなぁ~。。。二人で行く前に、秋だったか春だったか、独りで余部まで来て、鉄橋の下の喫茶店でコーヒー飲んで、突風で列車が落ちて、下の工場の犠牲になった方々の慰霊碑に手を合わせて帰ったこともあった。 それから、なにか会ったら、時間が少しでも空いたら、昼でも夜でも、バイトの合間でも、浜坂からこのあたりまで、よく走ってた。 1990/11/24浜坂、日和山ツーリング いつものように、GSX-RとCBR、Γで日本海を走ります。 砂丘のほうから、浜坂、余部といつものコースを走り、いつもより足を伸ばして、魚見台のほうから、日和山遊園に。。。 CMでやってたけど、ショーとかは見るお金ないので、せっかくなので何か食べよう。。。 でも、サザエのつぼ焼きが600円だったかな??むちゃくちゃ高くて手が出ませんでした。。。 なので、みんなちっこいビールとイカ焼きでした。。。 皆いつも貧乏で、とにかく走りたくて、走ることだけで満足で。。。 走ることが目的で、観光とかまったく関係なかったなぁ 1986年の事故で、山陰では、大騒ぎでした。。 私が行ってたのは90年からなので、慰霊碑があるだけでしたね。今みたいに道の駅はないし、喫茶店があるだけでした。車掌さんと、工場で働いてた5名が死亡されて、機関士さんと売り子さんは助かったんですね。 余部橋梁(あまるべきょうりょう)は、兵庫県美方郡香美町香住区(旧・城崎郡香住町)余部、西日本旅客鉄道(JR西日本)山陰本線鎧駅 - 餘部駅間にある橋梁(単線鉄道橋)である。 余部橋梁は2代存在し、初代の旧橋梁は鋼製トレッスル橋で「余部鉄橋」の通称でも知られ、1912年(明治45年)3月1日に開通し、2010年(平成22年)7月16日夜に運用を終了した。2代目の現橋梁はエクストラドーズドPC橋で、2007年3月からの架け替え工事を経て、2010年8月12日に供用が始まった。 新・旧両時代ともに、橋梁下には長谷川と国道178号が通じている。 新旧架け替え工事中からライブカメラが設置されており、新旧両橋梁工事の様子や列車通過の状況、余部地区の季節感がわかるようになっている。 最寄駅である餘部駅の裏山には展望所が設けられており、同駅ホームより小高い位置で日本海を背景に余部橋梁が一望可能なスポットであり、撮影ポイントとしても定番化していた。展望所は橋梁の架け替え工事に伴って2008年(平成20年)4月11日以降一時閉鎖されていたが、橋梁切替時期から供用再開を望む声が多く寄せられ、香美町の定例議会で提案が2010年9月に可決され、補修工事後2010年11月3日に供用が再開された。 余部鉄橋列車転落事故 鉄橋下の慰霊碑 (2006年3月7日) 鉄橋下の慰霊碑 (2006年3月7日) 発生日 1986年(昭和61年)12月28日 発生時刻 13時25分頃 (JST) 国 日本の旗 日本 場所 兵庫県美方郡香美町香住区余部 路線 山陰本線 運行者 日本国有鉄道 事故種類 脱線転落事故 原因 強風・風速計故障による指令の判断ミス 統計 列車数 7両大破 死者 6人(車掌1名・民間人5名) 負傷者 6人 テンプレートを表示 1986年(昭和61年)12月28日13時25分頃、香住駅より浜坂駅へ回送中の客車列車(DD51形1187号機とお座敷列車「みやび」7両の計8両編成)が日本海からの最大風速約 33 m/s の突風[注釈 6]にあおられ、客車の全車両が台車の一部を残して、橋梁中央部付近より転落した。転落した客車は橋梁の真下にあった水産加工工場と民家を直撃し、工場が全壊、民家が半壊した。回送列車であったため乗客はいなかったが、工場の従業員の女性5名と列車に乗務中の車掌1名の計6名が死亡、客車内にいた日本食堂の車内販売員3名と工場の従業員3名の計6名が重傷を負った。なお、重量のある機関車が転落を免れたことと、民家の住民が留守だったことで機関士と民家の住民は無事だった。しかし、事故後に機関士の上司が自殺した。 この橋梁からの列車の転落は、橋の完成以来初めての惨事だった。国鉄の記録では、風による脱線は全国で当時16件あり、そのうち鉄橋からの転落による事故は3件あり、そのうち死傷者が発生したのは1899年(明治32年)10月7日に日本鉄道(現在の東北本線)矢板駅 - 野崎駅間箒川橋梁からの客車の転落で20人が死亡・45人が負傷した箒川鉄橋列車転落事故以来87年ぶりのことであった。 風速 25 m/s 以上を示す警報装置が事前に2回作動していたが、1回目の警報では指令室が香住駅に問い合わせたところ、風速 20 m/s 前後で異常なしと報告を受けたため、その時間帯に列車がなかったこともあり様子を見ることにした。2回目の警報が作動した際には、列車に停止を指示する特殊信号機を作動させてももう列車を止めるためには間に合わないという理由で、列車を停止させなかった。こうした理由により、強風の吹く鉄橋に列車が進入する結果となった。 事故後、のべ344人の作業員を投入して枕木220本とレール 175 m の取り替えを行い、事故の遺族からの運転再開容認を12月31日10時30分に取り付けて、15時9分に事故後の最初の列車が鉄橋を通過した。 1987年(昭和62年)2月9日に松本嘉司東京大学教授を委員長として「余部事故技術調査委員会」が発足し、国鉄分割民営化後の1988年(昭和63年)2月5日に調査報告書がまとめられた。調査では、橋に取り付けられていた2台の風速計のうち1台が故障しており、もう1台も精度が落ちていたことが判明した。また風速計による警報が出た後に、指令員の判断を介して列車に停止の指示をする仕組みであったことも問題視され、自動的に停止の指示を出せる仕組みにするべきであるとした。報告書では当時の最大瞬間風速を 35 - 45 m/s と推定し、車両の転覆限界風速は約 32 m/s であったと推定している。これらにより、車両転覆の直接の原因は転覆限界風速を超える横風によるものと結論づけられた。 一方、当時吹いていた風速 33 m/s では計算上客車が転覆することはなく、また橋の上のレールが風の向きとは逆に海側に曲がっていたことを指摘して、事故の本当の原因は客車に対する直接の風圧ではないとの主張もある。それによれば、昭和40年代の補強工事で縦横の剛性比の考慮を欠いたまま水平方向の部材のみを強化してバランスを崩し、また橋脚の基礎をコンクリートで巻き立てたために主塔の撓み量が減少して、風によるフラッター現象を起こしやすくなっていたとする。そして、当時の強風によりフラッター現象を起こしていた橋に列車が進入した結果、機関車が蛇行動を起こしてレールの歪みを生じ、両端の客車に比べて軽かった中央付近の客車が脱線して、両端の客車を引きずるように転落に至ったのが本当の事故原因であるとしている。この主張は他の書籍などでも紹介されることがあるが、指令員の責任を追及した刑事裁判でも、事故の調査報告書でも一切触れられていない。 1988年(昭和63年)5月から運行基準が見直され、風速 20 m/s 以上で香住駅 - 浜坂駅間の列車運行を停止し、バス代行とするよう規制を強化することになった。列車を停止させなかった責任を問われた福知山指令室の指令長および指令員計3名に対しては、1993年(平成5年)に禁錮2年から2年6か月の執行猶予付き有罪判決が出され確定した。 1988年(昭和63年)10月23日に事故現場に慰霊碑が建立された。また、事故後の毎年12月28日には法要が営まれてきたが、2010年(平成22年)が25回忌の節目となったことと、新橋への切り替えが行われたことから同年12月28日に遺族会により行われた合同法要が最後となった。 そして、余部まで来ると、なぜか、こちらにも 13:21 当時はカニなんて食べれるはずもなく、香住に来たら、何故か大乗寺さんに来てた #GSXR #GK71B #昭和のバイクといつまでも #自分のバイクのルーツを巡ろう 当時はカニなんて食べれるはずもなく、香住に来たら、何故か大乗寺さんに来てた#GSXR#GK71B#昭和のバイクといつまでも#自分のバイクのルーツを巡ろう pic.twitter.com/wUZ57zQWF5— HIRO.F (@HIRO_HKAGES) July 18, 2021 1990/04餘部ツーリング

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