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元阪神 福間納投手

Jul 13, 2020
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カテゴリ:元阪神 福間納投手
納兄ちゃん、誕生日おめでとう!!

ちなみに、1951年7月13日生まれで69歳とのことです。。。
でも、まだ体型も変わらないし、走るの速いし、投球もすごい球投げますよ。



プロ野球1980年代の名選手
福間納 85年阪神優勝“陰のMVP”と称された中継ぎ左腕/プロ野球1980年代の名選手

2019年6月15日(土) 16:01 4

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

ロッテのドラフト1位でプロへ



阪神・福間納


 現在でこそ一般的な投手の継投策。かつては当たり前だった先発完投が珍しいものとなった一方で、かつては“先発に失格となった投手”というイメージだったセットアッパーの地位も確立され、表彰もされるようになった。1980年代は、こうした潮流が動き始めた時代だった気がする。“猛虎フィーバー”に沸いた85年の阪神で、MVPに輝いたのは三冠王のバースだったが、“陰のMVP”と言われたのがセットアッパーとして投げまくった左腕の福間納だ。ただ、まだ当時はセットアッパーという表現はされていない。

 松下電器でプレーしていた78年の秋にドラフト1位で指名を受ける。ただ、指名したのは阪神ではなくロッテ。ちなみに、阪神が1位で指名したのは大騒動の末に巨人への入団を果たすことになる江川卓で、ロッテの1位も江川の“外れ1位”だった。だが、ロッテ入団後すぐに左ヒジを故障し、勝ち星のないまま81年シーズン途中に阪神へ。

「阪神はヒジを故障してるの、知らんかったんと違うかな」

 と振り返るが、移籍1年目からワンポイントを中心に35試合に登板。プロ初勝利は阪神2年目の82年で、投球回は既定の半分にも満たなかったが、63試合に投げまくった。懸垂などでヒジをのばしながら鍛えたことで痛みが消え、リリーバーとしての調整法を身につけたことが飛躍につながった。

 阪神で初めて先発のマウンドを踏んだ83年。リリーフからの中1日、5月5日の巨人戦(後楽園)で5回を投げ、また中1日でリリーフに戻ると、防御率は2点台から1点台に。1試合での投球回が多くないことで、

「中継ぎは1点を失うと取り返すのが大変」

 と振り返るように、一気に防御率が悪化することもあったが、そこから時間をかけて、じわじわと防御率を下げていく。ただ、数字は防御率トップの座より、規定投球回に到達するかどうかを争っているようにも見えた。防御率では9月には大洋の遠藤一彦に抜かれるも、10月は12試合で月間防御率0.77。本拠地最終戦となった10月22日の中日戦(甲子園)でシーズン規定投球回に到達して、防御率2.62で最優秀防御率に輝いた。

 翌84年も役割は変わらず。来る日も来る日もマウンドに上がって、8月には8連投もあった。阪神が105試合を消化した時点で68試合に登板。そのままのペースでいけばシーズン登板は84試合になるところだったが、なぜかペースダウン。最終的には2年連続でリーグ最多の77試合に登板してセ・リーグ記録は更新したが、稲尾和久(西鉄)のプロ野球記録78試合には届かず。これは「あの稲尾を中継ぎだけで抜くのはいかがなものか」という意見があったためだという。

左のリリーバーながら右打者に強かった秘密
 左のセットアッパーといえば左打者に特化したワンポイントということが多いが、

「僕の場合は変化球あってのストレート」

 と自信を持つ決め球のチェンジアップを駆使して、右打者を得意とした。マウンドに足が引っ掛かり抜け球になったときに空振りを奪えたことで研究を重ねたものだ。打席の左右にかかわらずファウルでカウントを稼ぎ、外角低目の変化球で打ち取るのが基本。右の強打者にはチェンジアップで追い込み、最後は速球で打ち取ることもあった。

 日本一イヤーの85年は序盤から不振。5月19日の巨人戦(後楽園)で原辰徳にサヨナラ2ランを浴びると、その翌20日の同カード、1点リードながら原に打席が回る可能性を残したタイミングで吉田義男監督に「ここで逃げたら、おマンマの食い上げやぞ」と起用されて、原を右飛に打ち取る。

「あの一言は大きかった」

 と、以降は復調。自己最多の8勝を挙げてリーグ優勝に貢献し、西武との日本シリーズでも第5戦(甲子園)の勝利投手になっている。その後はヒジ痛で失速も、87年は48試合、88年には42試合に登板。稲尾の記録更新は阻まれたが、“鉄腕”といえる左腕だった。






Last updated  Jul 13, 2020 11:51:13 AM
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Dec 18, 2019
カテゴリ:元阪神 福間納投手
12月18日 20:38
買いました。。。
中西のとこでの、福間納投手の字が間違ってます。。。収は、野村投手です。











Last updated  Dec 23, 2019 11:51:54 AM
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Jun 11, 2019
カテゴリ:元阪神 福間納投手
私の叔父、福間納投手が紹介されていました。

ジョンソン!早く復活してくれ!!!

福間も早めに自信回復 阪神ジョンソンも早期復帰鍵
[2019年6月11日6時58分]




阪神福間納(1985年5月26日撮影)




ガッツポーズする阪神ジョンソン

<井坂善行氏の猛虎知新:第3回 中継ぎ>

ジョンソン、謎の登録抹消-。プロ野球は15年目を迎えた交流戦に突入した。4差の2位。昨年と同じ戦績で交流戦に入った阪神に衝撃が走った。ドリスとの逃げ切りパターンを確立したはずのジョンソンが、リフレッシュという不可解な理由での登録抹消となった。

85年を支えた中継ぎはいつでも投げられ、使い減りしないタフガイ・福間。当時を知る「猛虎知新」の筆者・井坂善行氏はジョンソンについて「早期戦列復帰が、今季の最大のポイントになる」と断言する。

   ◇   ◇   ◇

スポーツ各紙のスミからスミまで目を通したが、どこにも「リフレッシュ」としか書かれていなかった。つまずいた開幕戦線、立て直して迎えた交流戦。ここまでの立役者ジョンソンが、理由にならない理由で1軍登録を抹消されたのは7日のこと。休養を必要とするポジションは理解できるが、登録抹消とはただごとではないのだろう。6、7回以降の逃げ切りがジョンソンを欠いたままでは、他の投手陣への負担も含め、その影響は計り知れない。

さて、34年前である。山本、中西の左右のダブルストッパーへのつなぎ役には、81年のシーズン中にロッテから移籍した福間が充てられた。優れた身体能力に、持って生まれた器用さ。さらには、10球も投げれば肩は出来上がり、連投にも耐えるスタミナ自慢。理想的な中継ぎ投手だった。

そんな福間にも試練があった。いや、福間だけの試練ではなかった。監督に復帰した吉田にとっても、大きな賭けを必要とした起用は5月に訪れた。首位阪神と2位巨人の後楽園での3連戦。初戦を勝った阪神だが、2戦目は同点の延長10回裏、福間が原にサヨナラホームランを打たれた。

翌20日に行われた3戦目。乱打戦の試合は阪神1点リードで7回。この回から登板した福間は、2死2塁で原を打席に迎える。ベンチから吉田が出た。誰もが、投手交代と信じて疑わない場面である。しかし吉田は「ここで抑えんと飯食えんぞ」と言い残し、ベンチに戻った。福間は「リベンジのチャンスに燃えた」。結果はフルカウントから左飛に仕留めたのである。

前日にサヨナラホームランを打たれた打者、しかも左の福間に右の原、さらには一塁が空いているのに、福間は、いや吉田阪神は原と勝負し、あだを取った。

数学の方程式は崩れないが、野球における勝利の方程式は生き物のように動く。その動きを不動にした福間。果たして、ジョンソンは-。

◆85年の福間 中継ぎのエースとして、中西63試合、鹿取(巨人)60試合に次ぐリーグ3位の58試合に登板。工藤や佐藤秀とともにブルペンを支えた。西武との日本シリーズでも3試合に登板。第4戦の9回に西岡に決勝2ランを浴びたが、翌日の第5戦4回1死満塁ではその西岡を遊ゴロ併殺打に取るなど好投し、勝利投手に。シーズン同様、汚名返上のチャンスを鮮やかに生かした。福間はロッテから81年途中トレードで阪神に移籍し、83年には最優秀防御率のタイトルを獲得(2・62)するなど活躍。85年はその集大成となるシーズンだった。

◆井坂善行(いさか・よしゆき)1955年(昭30)2月22日生まれ。PL学園(硬式野球部)、追手門学院大を経て、77年日刊スポーツ新聞社入社。阪急、阪神、近鉄、パ・リーグキャップ、遊軍を経て、プロ野球デスク。「近鉄監督に仰木彬氏就任」などスクープ多数。92年大阪・和泉市議選出馬のため退社。市議在任中は市議会議長、近畿市議会議長会会長などを歴任し、05年和泉市長に初当選。1期4年務めた。現在は不動産、経営コンサルタント業。PL学園硬式野球部OB会幹事。






Last updated  Jun 18, 2019 11:05:18 PM
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Oct 21, 2017
カテゴリ:元阪神 福間納投手
豊中市の施設に、ボランティアで行ってきました。

1時半に待ち合わせして、施設のほうに。。。







7人兄弟の末っ子で、長男が肇、自分で納めるってことで、自分の名前が嫌いだったが、福を間に納めるという話を聞いてから好きになったことや
兄、姉がみんな運動が得意だったが、貧乏で中学校までいけず
みんなが納だけはと、働いて、高校に行かせてもらえた
そんな、兄姉も、この前、また一人亡くなり四人になってしまった。。。

高校の時に、伝統校であったが、数年前に試合放棄を起して処分されて、弱くなっていた
監督が代わって、部も変わるんですね、福間納を鍛えたら甲子園行けるかもと鍛えられた
先輩のキャッチャーにものすごく鍛えられた。。。しごかれた。。。
自分は、それに負けずに力をつけた自信があった。先輩も自分に力をつけさせた自信があった

ベスト8までしかいけなかったが、優勝したチームと延長まで行ったことが評価され3チームの中に選ばれて春の選抜に出場した。
一回戦で負けてしまったが。。。

松下に入ってから、野球をやめたことがある
左肩に穴が開いて、それが広がったら左腕を肩から切断。。。
野球どころか、普段の生活にも支障がでるようになった
1年間マネージャーをやった
そのおかげで、周りで支えてる方の大事さがよくわかった

奇跡的に穴が小さくなり、1年で戻れたが、阪急に行った山口がエースで、センターをやった
2年間投手を離れたが、山口がプロに行ったので投手に戻り、日本選抜に選ばれてニカラグアに行った
食中毒にもなった
当時アマチュア最強で、まったく負けなかったキューバ打線を、たまたま足が滑ったことでチェンジアップになり、それを振ってくれた
その後も、これでいいのかって思いながらチェンジアップを多投、キューバに勝利した
日本でキューバに買ったのは初めてだと
次の大会でもキューバを抑えたが8回までいったが、すごい広い球場だったがチェンジアップ前のストレートを打たれて、入るわけないと思ってたのが、むちゃくちゃでかい当りで同点ツーランホームランになった
その後の投手が打たれて負けて二位になったが、キューバをこれだけ押さえた投手は自分だけだったので、ちょっと自慢なんです。。。と

そのあと、吉田監督や星野監督の話などをして

美空ひばりさんの愛燦燦を
























山田先生も、私のユニフォームを着て、進行など




公演終わって、阪神ファンの方と写真撮影したり
生きてて良かったと。。大変喜んでおられました

控え室にも写真撮ってくださいってのも何度か

集合写真も撮って。。。


私も身内ですけど、最近は不幸の時ばかりだったので、なかなかもらえなかったサインを。。。
甲子園行く時のユニフォームに







そのあと。。。

3時半ごろ、駅に送ってもらいました

ここで、買ってあった日本酒やビールを、私だけのみまくって。。。北新地に移動

松下のOB会に、参加させていただき










私も何曲か歌わされて、、、


山田先生とは、ここで別れ、先輩方と、2軒ハシゴ。。。





その後、池田に行って、元宝塚の方がおられる店に行って

四軒ハシゴして、叔父の家にいき、奥様と3時半ゴロまで飲んでました。。。






Last updated  Oct 2, 2019 07:27:44 AM
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Aug 26, 2017
カテゴリ:元阪神 福間納投手
だいぶ前の記事ですが、たまたま検索してひっかかって、おもしろい内容だったので、掲載させていただきます。
大田高校で昭和44年、春の選抜に出場
大田高校は、いまだに、春夏ともに甲子園で勝利したことはありません。。。

その年もプロ入りの話もあったのですが、松下電器へ

その後、だいぶ経ってからですね。。。ロッテへドラフト1位で指名されたのは
江川事件の裏でのドラフト一位でした。。。
そのとき、すでに27歳で妻子ある状態で、子連れルーキーとかって呼ばれてました。

ロッテ時代は、忍者投法とかっていわれて、モーションの時に見える握りと、実際の球種が違うってのも言われましたが、故障もあり、一軍では活躍できず
阪神と深沢投手との交換トレードで阪神に来てからの大活躍となるわけです。。。


しゅりんぷ池田のカード春秋社会人野球のチームに9年間在籍した男:福間納(元阪神)

投稿者:しゅりんぷ池田 投稿日時:2007年09月05日 12:32

ベースボール・マガジン社のムック「シリーズ野球彩色」の第3弾、
「憧れの記憶」連続写真で見るスーパースター 投手編が発売となりました。
http://www.sportsclick.jp/magazine/baseball/mook500/index.html
(野手編も同時発売!)
http://www.sportsclick.jp/magazine/baseball/mook501/index.html

週刊ベースボールでず~うっと続いている、中カラーの選手のピッチングフォーム、
バッティングフォームを連続写真で紹介している、あのページをまとめたものですね。
写真ばかりで、そんなに読むところはないのかな? と思っていたら、
それぞれの選手の紹介文も相当量が載っていて、なかなか読み応えがあります。

で、何気なく読んでいたら、85年の阪神優勝時に中継ぎとして活躍した福間納投手の
ページで、「社会人野球の松下電器に進んでからは、投手を続ける傍ら、
外野手を務めることもあった」と書かれていて驚きました。
え! そんなことがあったの!? という感じです。

で、調べてみたら、福間さん、現在もマスターズリーグで活躍中なのですが、
登録はなんと「外野手」で、最多安打を記録したシーズンもあったのだとか!
http://www.89master.com/team/osaka_html/fukuma.html

この福間投手、実はプロ入りがすごく遅かったので印象に残っています。
69年の春のセンバツに島根・大田高のエースとして出場したあと、
翌70年に社会人野球の強豪、松下電器に入部。
その年のドラフトでも阪急から7位指名を受けたもののこれを拒否し、
78年秋のドラフトでロッテの1位指名を受けてようやく入団したのですから、
同社に実に9年の長きに渡って勤めていたわけです。

福間さんはあの太田幸司投手と同期で、高卒でプロ入りした同級生には
下記のようなメンバーがいるのですが、八重樫のように大器晩成型の選手を除けば
ほとんど70年代の選手というイメージで、80年代に活躍した福間さんとは
世代がズレているような感がありますね。

福間 納 阪神他。90年引退
太田幸司 近鉄他。84年引退
八重樫幸雄 ヤクルト。93年引退
西井哲夫 ヤクルト他。87年引退
井原慎一郎 ヤクルト。84年引退
柳田 豊 近鉄他。87年引退
間柴富裕 日本ハム他。90年引退
河埜和正 巨人。86年引退

太田さんは79年を最後に勝ち星が挙がらなくなり、
現役最後の84年には福間さんと同じ阪神に所属したのですが、
結局、一軍未登板のまま引退。一方の福間さんはこの年、当時の日本記録に
あと1試合と迫る77試合に登板してリーグ記録を樹立したのですから、
本当に好対照な結果となりました。

話が前後しますが、福間さんが70年に松下入りした後、翌71年には
岡山・津山商から福井保夫、73年に関西大から山口高志が相次いで入部。
74年秋のドラフトで1番クジを引いた近鉄がその年の最大の目玉選手であった
山口をスルーして、同チームの準エース、福井を指名し、2番クジの阪急が
山口を獲得、山口が期待通りの活躍を見せて阪急の連覇に貢献したのに対して、
福井は実働5年で2勝3敗に終わるという、これまたドラフト史上に名高い大失敗の
例となったのですが、福間さんはこの2人に次ぐ3番手の投手だったそうなのです。

しかし、9年間も社会人でプレーを続けるというのはモチベーションが保ちにくかった
と思うんですね。「外野を守ることもあった」というのは、そういう野球に飽きかけた
福間さんのモチベーションを持続させる、ひとつの手立てだったような気がするのです。

福間さんはその後の78年ドラフトで1位指名を受け、ようやく入団したものの、
その当時は毎年のように「主な指名漏れ選手」という欄に名前が載っていたような
覚えがあります。社会人でもトップクラスの松下電器のエースですから、
入団すれば、それなりの活躍が見込めたのでしょうが、そこまでプロ入りが遅れると
「福間を指名するなら1位でないと…」みたいな微妙な空気が生じたのではないでしょうか?

そして、ようやく、福間投手を1位に据えたのが、当時、ドラフト指名候補選手から
もっとも忌避されていた不人気球団のロッテ。前々年76年秋のドラフトでは
1位の森繁和(駒澤大。のち西武)、2位の前川善裕(早稲田大-日本鋼管)に
相次いで拒否されたりしていたのですが、プロ入り待ったなしの年齢になった
福間を1位指名すれば、間違いなく入団してくれるだろうという計算もあったの
ではないでしょうか? なにしろ、この年も2位指名した、全日本の四番・菊地恭一
(東芝。のち大洋入り)、4位指名の武藤信二(我孫子高)にも拒否されていたのです。

1位で27歳の福間投手を指名したロッテは、3位でも間もなく25歳を迎える
高齢選手を指名したのですが、それが後の三冠王、落合博満(東芝府中)だったのです!
4名中2名しか入団してくれなかったものの、結果的に、
この年のロッテのドラフトは大成功だったと言えるでしょう。

ところが、当の福間投手はロッテでは芽が出ず、2年間在籍したのみで
(27試合で0勝1敗)、阪神にトレードされてしまいます。
ドラフト1位投手が2年で放出されるというのは珍しいケースですが、
これも高齢入団選手ならではの事情でしょうね。

しかし、このトレードを機会に福間投手は阪神の中継ぎ役にぴったりはまり、
82年からの4年間は毎年50試合以上に登板して83年には最優秀防御率の
タイトルも獲り、85年には日本一も経験。一方、交換相手の深沢恵雄投手も
それまでの不振(5年間で1勝3敗)を払拭して、2ケタ勝利を3度挙げる投手に
成長したのですから、双方が益を得る、大成功トレードとなりました。

この福間選手の社会人チームに9年在籍というのはすごいことなあ~と思っていた
のですが、現在のプロ野球には社会人に10年以上在籍した選手がいるのです!
その1人は日本ハムの立石尚行投手で、同選手は市立船橋高を出たあと、
NTT関東に加わり、10年在籍したあと日本ハムにドラフト3位指名を受けて入団。
また、楽天の草野大輔内野手は延岡学園卒業後にNTT東京、NTT九州、ホンダ
熊本と渡り歩いて、社会人在籍11年! その草野選手と同年生まれで同年入団の
山崎隆広外野手は大学中退後に社会人入り(NTT東海-NTT西日本)したため、
正確な在籍年数はわかりませんがやはり10年前後在籍していたのではないでしょうか?

最近では30歳を超えてプレーを続ける社会人野球の選手も増え、
今回の都市対抗でも72年生まれ(35歳!)の選手たちが活躍して話題となりました。
http://www.mainichi-msn.co.jp/sports/ama/shakaijin/archive/news/2007/09/02/20070902ddm035050151000c.html

科学的なトレーニングの発達でプロ野球選手の寿命の伸びが顕著になっていますが、
社会人野球にもその傾向があるんですかね?
ドラフト制施行以降の最高齢入団は83年、中日の市村則紀投手(1952年7月16日
生まれで、この年、31歳!)ですが、今後はこれを上回るケースも出てきそうです。




阪神タイガース70周年記念カードより






Last updated  Aug 26, 2017 12:57:36 PM
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Dec 14, 2015
カテゴリ:元阪神 福間納投手
うちの両親と、元阪神の福間納さん夫婦が通夜の席から到着されて、酒を買ってこいと。。。

もう買ってあるってことで部屋を移動

納にいちゃんは、なんでも氷を入れるってことで、ローソンに氷と大福を買って来て。。。
一人で大福五個を食べながら、ビールとウイスキーをロックで

私は、ビール 500 2本と、島根の地酒1本空けて。。。

うちの両親は先に就寝。。。そのあと2時くらい、阪神のこととか、うちのブログで紹介してるってことや
ま虎っちゃんや、虎やんけに行った話しとか

納兄ちゃんが子供のころの話とか。。。今回亡くなった姉との思い出、父親、母親、7人兄弟の話とか、ほんと、ずっと盛り上がってました。。。



2時に解散したんですが、私は、色々と考えてしまい、やっぱり寝れず。。。

1時間くらい、FBみたり、色々やって、やっと寝れたんですが

叔父が到着され、うちの部屋で休憩ということで5時くらいに起きて。。。

酒が抜け切らない状態で日があけました。。。






Last updated  Oct 2, 2019 07:28:35 AM
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Oct 24, 2015
カテゴリ:元阪神 福間納投手






Last updated  Oct 24, 2015 11:02:58 PM
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Oct 22, 2015
カテゴリ:元阪神 福間納投手
この前、とりあげた、「1985 猛虎がひとつになった年」とは、違うんですね。。。いままで、同じと思ってた。。。
あっちも買わないと。。。

Oct 15, 2015 福間納が語る1985年の阪神投手事情。 「リリーフに次はないと思っている」



猛虎大鑑1935-2015なる本を

本屋でみつけて、買ってみました。

福間納投手がカラー三ページ、そのあとのところに1ページ紹介されています。












【楽天ブックスならいつでも送料無料】猛虎大鑑(1935-2015)

【楽天ブックスならいつでも送料無料】1985猛虎がひとつになった年 [ 鷲田康 ]






Last updated  Oct 2, 2019 07:29:22 AM
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Oct 15, 2015
カテゴリ:元阪神 福間納投手
私の叔父、元阪神タイガース福間納投手が、良く言っていたのは

「打たれてもいいくらいの開き直った気持ちでマウンドにいかないとやられますからね。自分自身だって昨日打たれたとか、一昨日は抑えたとか、そういうことは全部切って、その場、その場、そのマウンド、そのマウンドに集中する。そうしないと毎日、マウンドに上がることなんかできないんですよ。切り替えです。あいつのためになんて思ったら、絶対にダメですね」

この開き直りが、背番号12を引き継ぎ今年引退した渡辺や、左のワンポイントとして活躍した高宮にあれば。。。

満塁からでも、打たれてもいいって開き直りが欲しかった。。。。






Number ExBACK NUMBER

福間納が語る1985年の阪神投手事情。
「リリーフに次はないと思っている」

posted2015/10/01 15:30


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1985年の優勝に中継ぎとして大きく貢献した福間氏。'83年には最優秀防御率のタイトルを獲得している。
text by

鷲田康
Yasushi Washida


阪神タイガースが球団史上初めて日本一になった年を描いた『1985 猛虎がひとつになった年』(鷲田康・著、好評発売中)の出版を機に始まった短期集中連載の4回目は、福間納氏のインタビューだ。あらゆる場面でマウンドに上り、シーズンを通して活躍した福間氏が、中継ぎ投手の心構えを語ってくれた。
 優勝するチームには馬車馬のようにフル回転する中継ぎ投手が必ずいる。

 球団史上ただ1度の日本一に輝いた1985年の阪神はランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布に真弓明信という“30発カルテット”に象徴されるように打線のチームと言われる。しかしこのチームにもその陰で馬車馬のごとくマウンドに上がってチームを支えた中継ぎ投手がいた。

 福間納投手である。

 勝ち試合はもちろん、負け試合でもこの左腕が僅少差で持ちこたえている間に強力打線が爆発して試合をひっくり返すというのが、当時の阪神の“必勝パターン”。吉田義男監督の継投策でまさにジョーカー的存在だった中継ぎのスペシャリストにその極意を聞いた。

優勝前年には記録騒動から登板機会が減っていた。

――優勝前年の'84年は登板記録を巡って騒動がありました。福間さんが残り20試合で70登板を記録して元西鉄・稲尾和久投手(故人)の持つシーズン78登板(当時の日本記録)を破るんじゃないかという雰囲気になってきた。そのとき記録の神様と言われた報知新聞の宇佐美徹也さんが安藤統男監督に「稲尾の記録は400イニング以上投げた中身のある記録。中継ぎ登板だけで形だけの記録更新は考え直して欲しい」と手紙を送って、その後は急に登板機会が減ったという話ですね。

「記録は意識していましたよ。まだホールドなんて記録もなかったし、僕ら中継ぎピッチャーが狙えるものといったら登板記録くらいでしたから。ただ、あの一件からガクッと登板が減って、周りのみんなは『なんで投げさせてもらえんの?』と言ってくれたけど。110試合で70試合に投げているのに、その後は20試合で7試合しか登板せんかった。僕としてはタイ記録で良かったんです。(稲尾さんの記録を)抜かなくて良かった。でも、当時の中継ぎの評価というのは、そういうことだったんだと思いますね」

「福間の屍を乗り越えて、中継ぎ投手の価値は上がった」

――最終的には77試合登板で当時のセ・リーグ記録は塗り替えているんですね。

「のちに(藤川)球児に破られる訳ですけどね。まだあの頃は先発投手は勝ちに貢献するけど、中継ぎ投手というのは勝ちに、負けにのピッチャーや、という意識だったんですよ。ようやくこの10年、15年くらいで中継ぎの重要性というのが認識されてくるようになった。だから今は福間の屍を乗り越えて、中継ぎ投手の価値は上がったと思っています(笑)」

――'85年の阪神は“打線は超一流、投手陣は三流”と揶揄されるようなチームでした。特に先発陣は池田親興とリッチ・ゲイルの2人を軸にはしていましたが、結果的にシーズンを通してローテーションを守ったのはゲイル1人。あとは継投、継投の勝負でした。

「打線が投手陣を育てたというのはありました」

「確かに打線はすごかったからね。その打線が投手陣を育てたというのはありました。負け試合で僕がリリーフで出て行くと、掛布や岡田が『福さん、ちょっと2、3イニング辛抱しとって。その間に逆転するから』と言うんですわ。それで結果そうなる(笑)。2、3点先制されても必ず打線が盛り返して逆転してくれたから、投手陣は余裕を持って投げられるんですね。1点もやれないという感じじゃなくて、1点取られてもあと1、2点なら大丈夫やろ、という感じでしたからね。打線がピッチャーを育てたというのはありました。そうこうしているうちに、結果的にはシーズン後半の投手防御率はリーグ2位まで上がっているんですから」

――登板するときは勝ち試合も負け試合も、早い回も終盤も、回の頭からも走者を置いた場面もある。ありとあらゆるシチュエーションでマウンドに上がっています。まさにジョーカーでしたけど、やりにくさはなかったんですか?

「僕はリリーフに次はないと思っているんです。先発に次はあるけど、リリーフに次はない。5回のうち5回成功して当たり前。最低でも6回やって4回は抑えないといかん。だから常に切り替えですね。僕はマウンドに上がったときに、前に投げていたピッチャーのためとか思ったことがない。そんな過剰な気持ちを持ったら絶対に打たれるんです」

――自分は自分……。

「打たれてもいいくらいの開き直った気持ちでマウンドにいかないとやられますからね。自分自身だって昨日打たれたとか、一昨日は抑えたとか、そういうことは全部切って、その場、その場、そのマウンド、そのマウンドに集中する。そうしないと毎日、マウンドに上がることなんかできないんですよ。切り替えです。あいつのためになんて思ったら、絶対にダメですね」

バントされたらアウト2つ取りに行く。

――福間さん自身は中継ぎの適性というか、中継ぎ向きという感じはあったんですか?

「肩ができるのは早かった。それとピッチングのテンポがいいから、野手受けは良かったですね。守りやすかった。だから攻撃に結びついたというのもあったと思います」

――それで吉田監督はすぐに福間さんを使いたがった。

「それともう1つはフィールディングに自信がありました。中継ぎは走者を置いてマウンドに上がるケースも多いんですけど、走者一塁で送りバントしてきたときにはアウト1つだともったいなかったからね。必ず2つとりにいきました。足も速かったし(100m11秒0!)、それぐらいにフィールディングには自信があった。それもリリーフ向きということですかね」

――当時のチームメイトのお話を伺っていると、マウンドだけじゃなくて、ムードメーカーとしても大きな役割を果たしていたという方も多いです。

「アイツの手袋がものすごく臭い!」

「ハハッ! 『お前、悩みないんか?』ってよく言われましたけど、悩みは一杯あるんです。ただ顔に出ない。それが僕のいいとこ(笑)。これは持って生まれたものですね。あの年もバースがよくちょっかい出してきて、絡みました。あるときは僕がインタビュー受けていたら、靴ひもが燃えとるんですよ。バースがライターで火をつけるんですわ。それとアイツの手袋がものすごく臭い! それをいきなり僕の口の中に突っ込んできたりね。それを見てみんなで笑って……」

――福間さんは社会人時代に一度は投手を断念するほどの病気も経験された苦労人。それがあの優勝でようやく報われたわけですね。

「そうですね。松下電器でピッチャーやっていたときに肩の骨に穴があく病気になって、マウンドどころかグラウンドにも立てなくなりましたからね。23歳のときでした。そのときにマネジャーの手伝いや先乗りスコアラーみたいな仕事もやって裏方の大変さを身をもって体験しました。こういう人材があるから企業もチームも成立しているんだということが分かった。その経験も大きかった。だから当時はまだまだ評価は低かったですけど、中継ぎという仕事にもプライドを持って臨めました。それがあの優勝で本当に報われた気がしますね」

福間氏は、裏方仕事を経験していたからこそ、当時まだ評価の低かった中継ぎ投手という役割を全うできたのかもしれない。選手一人ひとりが自分の役割をきちんと果たすチーム。それが1985年のタイガースだった。次回は“浪速の春団治”こと川藤幸三氏のインタビュー前編をお届けする(10月9日配信予定)。
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バックスクリーン3連発だけではない、日本一への軌跡をたどる。
吉田義男はこう振り返る。
「あの年はとにかく打った、打ったという話になりますが、どんな状況でも個々の選手が自分の仕事をきちっとこなしてくれた。それがあの年の阪神の強さでした」

<本体1500円+税/鷲田康・著>






Last updated  Oct 15, 2015 05:58:29 PM
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May 4, 2014
カテゴリ:元阪神 福間納投手
うちの父親の、いとこ会がプラザホテル三瓶で開催されました。

7人兄弟ってことで、人数多く、さらに、祖母の実家からも

もちろん、元阪神タイガースの福間納元投手も、参加され、歌にスピーチに

うちの親戚は、芸達者な方が多いのですが、アマチュアなので、さすがに、こちらでは紹介できないのですが

納にいちゃんだけ

待ってる間、超能力って割り箸芸やったり。。。



で、わかさんは、裏方で、カラオケの入力とか、ビール注文したり

私は、特別ゲストってことで、最初と、途中で、LIVEやってました。。。。



歌も、むちゃくちゃうまいんですよね。




二度ほど歌って、祝儀なんてつつまれたりして。。。



その後、なぜか、二人で銀座の恋の物語を、男女パート交代しながら。。。



カラオケボックスでもないのに、その後何度も延長があり。。。



この後、さらに二次会に行こうって話だったのですが

まったく店がやってなく。。。


しょうがなく、ホテルで部屋のみすることに。。。


となりコンビニなので、納にいちゃんが、買い物行って

その後、3時くらいまで飲んでたかなぁ。。。






Last updated  Oct 2, 2019 07:30:09 AM
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