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トレンド日記

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等々力渓谷

等々力渓谷


〈等々力という地名〉

 等々力渓谷は、世田谷区に東京23区内唯一の渓谷として整備されている。ところで「等々力」という地名はなぜついたのであろうか。
地名の由来にはいくつか説があるようだが、渓谷内の不動の滝の音が響きわたり「轟いた」ところからついたとの言い伝えと、戦国時代に吉良氏の家臣が戦いの功績として北条氏よりこの土地をもらって築いた城「兎々呂城」(城は「き」と読む)を築いたなどがあるが、前者の説がもっとも有力とされている。
ただ、なぜ「等々力」という字に当てたかははっきりわからない。

〈等々力渓谷の地質〉

 等々力渓谷は東京23区内唯一の渓谷であるばかりでなく、都内では数少ない東京の地下の地質を見ることのできる場所である。
等々力渓谷は、武蔵野台地南端部に位置しており、台地面の崖端を浸食して形成された開析谷である。
この渓谷を流れる谷沢川の両岸の露頭には武蔵野台地に分布している地層を見ることができる。
その地層は、時代の古い順に上総層群(泥岩)、東京層(シルト岩)、武蔵野礫層、中台礫層、関東ローム層である。
等々力渓谷の地質概念図を図1に示した。
等々力渓谷の地質概念図
図1 等々力渓谷の地質概念図


 関東ローム層の中には東京軽石層(約6万年前の箱根火山の新期降下軽石層:略称TP)が見られる。
この東京軽石層は武蔵野面や中台面にも見られ、軽石層を含むローム層が階段状の地形を覆うように堆積したことがわかる。等々力渓谷では中台面には武蔵野礫層や、その下位の粘土が見られない。
このことはかつて(約5万年前)、古い多摩川が中台面を流れて浸食したもので、武蔵野面と中台面が階段状になっている原因である。
武蔵野礫層は褐色で、直径数cmの丸い礫を多く含み、礫種は砂岩やチャートである。この武蔵野礫層と下位の東京層(粘土層)の境界からは地下水が流れ出ている(不動の滝)。
渓谷上流部には上総層群の青灰色のシルト岩層が分布し、東京層(粘土層)に不整合に覆われている(写真1)

不動の滝
写真1 不動の滝


 渓谷をつくった谷沢川は、かつては呑川支流の九品仏川で、谷沢川の上流部は現在の流路ではなかった。
谷沢川は多摩川から北に向かって発達した支流で、谷頭を浸食していくうちに等々力付近で九品仏川とぶつかった。
そこで河川の争奪が起こり、争奪に勝った谷沢川は水量を増し、盛んな下方浸食により現在の等々力渓谷を形成している。
図2で、谷沢川と九品仏川の沖積面が一連の谷底であること、谷沢川が九品仏川上流を争奪したことがよくわかる。

九品仏川と谷沢川の河川の争奪
図2 九品仏川と谷沢川の河川の争奪


〈等々力渓谷の自然(植生、鳥類、昆虫)〉

 等々力渓谷は、その崖面の勾配が急峻で不安定な状態にあること等に起因して都市的な開発から免れてきた渓谷である。
さらに、人為的影響のおよびにくいことによって比較的高い自然性が保たれ、都市内に残る自然としては比較的多様性に富んだ環境である。

 渓谷内には、渓谷の中を流れる谷沢川の両岸に落葉広葉樹林、スギ・サワラ植林、セキショウ草地、草地、アズマネザサ草地、マント群落、植栽地が分布している。
落葉広葉樹は、ケヤキ、ムクノキ、ミズキ、イヌシデ、コナラが最も広く分布している。
等々力不動尊の石段付近を境に、北側のゴルフ橋側では、ケヤキ、ムクノキ、ミズキ等が主体をなし、南側の矢川橋側では、コナラ、イヌシデが主体をなし極めて自然に近い。

 草地は、渓流の縁や地下水の湧出する湿地等に見られる。
分布している多年生常緑草本は、セキショウ、ミズヒキ、ドクダミ、ツユクサ、ヤブショウガ等が主体である。気候的には年平均気温15.0゚C、年間降水量1500mm程度の表日本型気候を示し、森林帯の構成からすると照葉樹林帯に属している。現存植生の大部分を占める落葉広葉樹林の種組成、立地条件からすると自然植生としてのシラカシ林への遷移途上にある自然性の高い植生であるといえる(写真2)。

等々力渓谷の自然
写真2 等々力渓谷の自然


 等々力渓谷に生息している鳥類は12種程度で、大半は低山地・平地で普通に見られる種である。
樹林や林縁環境に結びついたヒヨドリ、キジバト、オナガ、シジュウカラ等、市街地性のムクドリ、スズメも多く生息している。
また、周辺が住宅地になっていること、渓谷内に草地が存在することなどにも対応して、ウグイス、モズ等も生息しているようである。

 昆虫類は14種程度生息しているが、蝶類、トンボ類がほとんどである。トンボ(オオシオカラトンボ、オニヤンマ等)は低山地に生息する普通の種類であるが、その生息の一時期は湿地等の水域であり、渓谷の崖からの湧水による水たまり、池等に依存していることが考えられる。

〈等々力渓谷周辺(寺社、遺跡)〉

 等々力渓谷の不動の滝の上には等々力不動尊がある。
等々力不動尊は満願寺の別院で、正しくは「竜轟山明王院」という名前で、本堂背後の渓谷にある不動の滝音が轟くところから付けられた名前だと言われているが、現在は細い滝が落下しているだけで、轟くという意味は感じられなくなっている。
創設は約八百年前に和歌山県根来寺の興教大師が神託によりこの地の霊場なるを悟って堂を建立したと伝えられ、現在は玉川八十八ヶ所第三十三番札所になっている。現在の本堂は村人の厚い信仰に支えられて昭和28年に新しく再建されたもので、山門は昭和43年に満願寺の旧山門を移転したものである。

 不動尊の行事は、元旦護摩供養に始まり、1月28日の初不動の大護摩、2月3日の節分会豆まき、4月8日は花まつり、10月28日~11月23日の期間は菊まつり等が行われ、この他にも毎月の護摩供養等があり賑わっている。

等々力渓谷3号横穴
写真3 等々力渓谷3号横穴(ガラス越しに内部が見える)


 遺跡は、等々力渓谷内の東側斜面に数個の横穴が確認されている(写真3)。
周辺には大塚古墳、御岳山古墳などの荏原古墳群に属する古墳が分布している。
横穴は谷沢川の河床面との比高9mの地点の、ローム層中に墓道が切り通され、ローム層中の東京軽石層近くに掘り込まれている。奥行きは4.9mで形態は半徳利状、床に高さ25cm程の小段が設けられている。
埋葬品は須恵器の平瓶、金銅製耳環、土器の杯等が出土している。
前面には斜面を切り通して造られた墓道が延び、土器が供えられたり火を焚いた跡があり、墓前祭が行われていた。
被葬者は、人骨などから推定される性別、年令などから有力な農民で、家族的な色彩が濃いと考えられる。
埋葬の年代は、副葬品の土器の形式等から判断して、7世紀後半~8世紀頃(古墳時代後期頃)と推定されている。

後記:
都会のオアシスの一つに挙げられ、公園として整備されております。
ぜひ一度訪れてはと思います。
交通手段等は世田谷区等々力公園のサイトで分ります。

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