2018/11/30(金)00:39
菩提和讃、、、。(保福院深沢宗仁の世界)
一切皆苦→涅槃寂静。苦しみ前提の今→開放する為には、、。
仏、目覚めた人、
の説いた教え、仏教(宗教)の実践、、。
禅を世界に、、、。
Engaku-ji
圓覺寺
無學祖元禅師
北條時宗公
円覚寺の「いま」を伝える。
居士林だより | 円覚寺
座禅するなら円覚寺、、
色々なえらべる、座禅会あります。
※座 禅 に 興 味 あ る 方、オ ス ス メ シ マ ス 。
円覚寺では、
参加や見学もできる様々な行事や法要が、
年間を通して行われています。
ニュース一覧
1に参拝。
2に座禅。
3に法話。
○に、写経、等。
延命十句観音経
むじょうじばく【無縄自縛】
〘仏〙 縄もないのに、自らをしばること。
悟りを誤って外に求めたためにかえって
迷いにとらわれてしまうことのたとえ。
○○老師のお話抜粋。
仏教経典というものは、
もう読み尽くせないほどたくさんあります。
そして、
その素晴らしい仏教を方便でもって
説く宗派というのも、
又限りなくあるわけです。
日本の仏教
ところがこの仏教の根幹というか、大本、
それが何であるかということは非常に今、
把握しにくいんです。
中略
宗教体験としての回心
と言うものがなかったならば、
真の宗教的な生活は始まらない。
いかに仏教の書物を読んで、
仏教の知恵が身に付いたとしても
、それは単なる知識であって
仏道はそこから起こってこない。
仏法を行ずると言う事は、生まれてこない。
回心とはいったいどう言う事か、
今の言葉でわかりやすく申しましたならば、
Uターンすると言う事です。
これはいったいどう言う事か、
いっぺん壁にぶつかって、どうにもならない壁にぶつかって、
初めて回心と言う事ができるんです。
すんなり前に進めたら、
いつまでたってもUターンは必要ない。
禅の修行はどんどん壁を作ってやるんです。
そこで、ぶつかってUターンせざるお得なくなる、
そう言うUターンの体験と言う事が大切なんです。
中 略
壁にぶつかって
猛烈な座禅して
生きるか死ぬかと言う坂を越えて
ああ、ここにい生かされていたわわいと、
気づかなければいけない。
中 略
Uターンと言う事申しましたけれども、私たちは、
自分で生きている、俺が生きている。
こういう考えばかり持っているんです。
後略
足立大進老師、、、。(保福院深沢宗仁の世界)
臨 済 宗
臨済宗円覚寺派本山円覚寺
臨済宗大本山 円覚寺(公式サイト)
臨済禅、黄檗禅、ケイタイサイト。
一切皆苦→涅槃寂静。
苦しみ前提の今 → 開放する為には、、。
仏、目覚めた人、
の説いた教え、
仏教(宗教)の実践、、。
仏 教
仏教(ぶっきょう)は、
インドの釈迦(ゴータマ・シッダッタ、
もしくは
ガウタマ・シッダールタ、ゴータマ・シッダールタ)を
開祖とする宗教である。
キリスト教・イスラム教と並んで、
日本では出版点数の多い宗教の一つに数えられる。
仏陀(仏、目覚めた人)の説いた教えである。その教義は、
苦しみの輪廻から
解脱することを目指している。
原因と結果の理解に基づいており、
諸々の現象が縁起するとされる。仏教は仏、
その教えである法、その実践者である僧からなる
三宝を中心に組織されている。
実践における戒定慧の三学は、戒律、心を集中する禅定、
ものごとの縁起を観察する智慧であり、
後ろ二つは併せて止観とも呼ばれる仏教の瞑想法である。
実践にて重要となる能力は六波羅蜜や八正道のように、いくつかの方法でまとめらている。八正道 波 羅 蜜
懿徳山 保福院 臨済宗 円覚寺派
保福院本尊薬師如来。
有難いと思うから自然と手をアワセたくなる。
有難いの気持ちは、、個々の心のオキ場所によりカワル。
感謝の気持ちも、心のオキ場所によりカワル。
なんちり なんちり なんとり とまり ばんどり くらんで やとまち そわか
【お経を読んでみる】
般若心経
延命十句観音経
菩提とは
菩提心を起こすことを
発菩提心(ほつぼだいしん)という。
和讃とは
和讃(わさん)は、仏・菩薩、祖師・
先人の徳、経典・教義などに対して
和語を用いてほめたたえる讃歌である。
●菩提和讃(ぼだいわさん)
菩提和讃(ぼだいわさん)、
を(記載のお経本)使用しています。
若し人三世一切の
仏を知んと欲すれば、 法界性を観ずべし。
一切唯心造なりと、
衆生おのおの仏性を、 受けて生まれしものなれば
一念不生に至るとき、 忽ち仏性現前し、
老若男女もろともに、 その身が即ち仏なり。
しかるに一念迷い初め、本有の仏性見失い、
みずから凡夫となるゆえに貪り瞋り痴さの、
煩悩しげき三毒に、闇き迷いの日々となる。
また色声香味触と五欲の悦楽追い求め、
刹那の夢に酔いしれる
殺生偸盗邪淫慾、悪口両舌綺語妄語、破戒無懺の輩に、
いつか救いのありぬべき。
それ人間の身を受けて、
この世に生まれ来ることは、爪の上端に置ける土。
まして尊き仏法の、
教えに親しく遇うことは、まこと得がたき縁なり。
かかる時節を失わず、信心決定いたすべし。
人々賢き智慧あれば、春は万の種を蒔き、
秋の稔りを待つのみか、衣服家宅に至るまで、
遠き計画立てながら、今をも知れぬ後の世の、
永き冥路を打ち忘れ、空しく過ごすぞ愚なり。
無常の風に誘われて、忽ちこの世を終るとき、
何を頼みとなすべきや、あまた資産のあるとても、
冥途の用にはならぬもの。
家財重宝持つ人も、携え行くべき途ならず、
偕老比翼の契いもしばし浮世の夢ならん。
兄弟朋友ありとして、伴い行くことさらになし、
出入りの息の絶えぬれば、野辺の送りを営みて、
老いも若きも仇野の、空の煙と消え失せん。
朝夕撫でし黒髪も、蓬が根の塵となる。
かかる憂き目のあるゆえに、ひたすら菩提を願うべし。
弘誓の願を身につけて、忍辱精進怠らず、
布施や愛語にこころざし、十善の道歩みつつ、
他己をも自己と覚るならば、これぞ菩薩の浄土なり。
観世の慧眼明らかに、
弘く衆生に回向して、ともに濁世を渡るべし。
尚ぶらくは人間の、受くる形はそのままに
、仏の姿にかわらねば、本来より具えし霊明の
、一仏心に覚むとき、この身すなわち仏にて、
仏が仏を念ずれば、一声唱うる称名も、諸仏の浄土に通徹す。
日々仏に近づきて、礼拝供養も懇ろに、
香花燈燭とりささげ、粥飯茶果等供えつつ、
身口意三輪浄らかに、称名念仏経陀羅尼、
坐禅観法修すれば浄土はもとよりわが身にて、
心が即ち仏なり。
つらつらこの身を観ずるに、生生世世の父母や、
一切衆生にいたるまで、その恩愛の深きこと、
天の極り無きごとし。
されば誓願たてまつり、無明の眠りを覚しつつ、
行住坐臥に怠らず、一心勇猛に修業して、
無辺の衆生を慈しみ、
菩提の道に趣かせ、本有の仏性発露して、
不報の恩を報ぜんと、
般若の船に掉さして、涅槃の岸に到るべし。
四苦八苦とは。
煩悩とは。
四苦八苦と煩悩とトモニ日々の生活をおくる。
自分自身を見つめなおす。