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みんみんのざる碁日記

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神戸大学囲碁部史

2007.01.27
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カテゴリ:神戸大学囲碁部史
nipparatさんによる囲碁ボケは下記のテーマで投稿募集中であります。
「囲碁の名門、昨年度大学選手権日本一に輝いたW大学囲碁部が2007年度、突然廃部になりました。その意外な理由とは?」
むろんW大学囲碁部が廃部になるわけないんですけど、それがシャレでない大学があるんです。(笑)

「実は、私の入学した頃は、囲碁同好会は学生部の公認団体ではなかったのだ。そうなった理由は、二つあったと言われている。・・・

詳しくは、神戸大学囲碁部再建の物語をお読み下さい。






最終更新日  2007.01.28 02:02:04
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2006.08.29
カテゴリ:神戸大学囲碁部史
(1)では、私自身の入学の経緯と寮に住む事等の経済的メリットについて書きました。が、肝心の話を書いておりません。そこで住吉寮について以下の事を書いてゆきます。
○場所・由来等
○入寮時の驚き
○寮に住んでいた囲碁部員の話と私の入部
について書きます。
また住吉寮は、女子寮・職員寮・教育学部付属施設と隣接しておりました。それらに関係したオモロイ話もありますが、それはまたの機会に書くとしましょう。寮の話をなぜ「ざる碁日記」に書くのかと言えば、私の囲碁部員として主な活動の場でもあったからです。
○場所・由来等
住所は、神戸市東灘区住吉山手7丁目3-1。阪急御影駅より北へ2km・徒歩25分。市バス「赤塚山」下車すぐ、です。山の高台に位置していますから、寮生はバイクが必需品でした。昭和30年代に繊維メーカーの従業員寮だったのを国が買い上げたそうです。鉄筋コンクリート4階立て。昭和20年代後半に立てられた物らしく、私が入学した時点で既に老朽化しておりました。私が自治会役員だった頃も「文部省が立替ようとしている」事についていろんな議論がなされておりました。昭和47年までは教育学部校舎が、南に隣接していました。私が入学した頃には教育学部(現在は、人間発達科学部と改名している)は鶴甲に移転した後で、その校舎は、神戸市立赤塚山高校になっていました。さらにその南には人間発達科学部付属小学校・中学校がありました。
由来。神戸大学は戦後、総合大学になりましたが、戦前の神戸高等商業学校・神戸高等工業学校・兵庫県立師範学校・神戸医学校などを統合した寄せ集め大学なのでした。住吉寮には「白陵寮歌」というのがありました。戦前の師範学校は、御影と姫路にあったらしく、姫路にあった師範学校は通称「白陵」と呼ばれていたそうです。
(まとめ)住吉寮は、かつて繊維メーカーの従業員寮だった。もともと教育学部に隣接していたため戦前の師範学校の伝統が残っていた。hatさんがおられた京大の熊野寮ほどではないが学生運動の巣窟だった。

○入寮時の驚き
入寮した時、寮の敷地には桜の花が満開で、なんと美しい所だろう、と感激しました。が、門を入るとと学生運動(いわいるサヨク)のポスターや落書きだらけ。壁の塗装は剥げまくり、床のPタイルも欠けまくりで、なんと汚い所だろう、と落胆しました。寮内には野良猫が徘徊してました。寮生が子猫にエサを与えて後、放置していまうからでした。本田の期間工の寮より、ずっと汚いので呆れました。

○寮に住んでいた囲碁部員の話と私の入部
寮内には4人の囲碁部の先輩が住んでいました。寮は原則として寮生の自治するものとされており、1年生は何らかの自治会活動に参加する事が義務とされていました。その活動の一つが「炊事部」で寮食堂の運営だったのです。料理が得意な私は、それに参加しました。そこに二人の囲碁部員がいたのです。M島さんとF本さんです。まずM島さんと一局打ちました。手合は忘れましたがボロ負けした事は確かです。M島さんから「五段の先輩がいるよ」と言われてO野さんの部屋に連れてゆかれました。O野さんは出雲高校が全国優勝した時の主将であり、卒業後に千葉県の代表になった人で当時の囲碁部の主将&部長でした。私は五子で惨敗しました。
私は落語研究会にいましたが、授業やバイトとの兼ね合いで練習に参加できず退部しました。囲碁部の練習にも参加しませんでしたが寮内で夜、先輩たちに教えてもらううちに自然に囲碁部員になっていったのでした。
私の同級生や後輩の寮生にも囲碁部員がいたし、寮を夜に襲撃して碁を打ちに来る囲碁部員も多かったのです。このため住吉寮が囲碁部の活動拠点だったのでした。







最終更新日  2006.08.29 10:47:41
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2006.08.27
カテゴリ:神戸大学囲碁部史
昭和56年、私は入学した。最初は落語研究会に入部したが、夜間部の授業と合同練習の時間が重なっていて退部せざるを得なかった。大学生協の食堂で働いたり、寮自治会の役員になったりした。囲碁部に入ったのは寮自治会で知り合った先輩が、囲碁同好会のメンバーだったのがきっかけだ。当時の囲碁同好会は員数の減少と部員の高齢化に直面していた。強い先輩が二人いたが後の三人が一部リーグでは勝てないので、二部と一部をエレベータしていたのだ。当時、大学では留年の御三家と陰口を叩かれている団体があった。自治会、囲碁・将棋、オーケストラ、である。原理研など悪質な宗教団体や左翼過激派などカルト的組織に入ったら卒業はできないので、これらはもはや留年の・・どころではなかった。

私は入部当時、代表級の先輩に七子だった。それが四子を卒業した所で団体戦の補欠になった。昭和58年3月に、留年を重ねていた先輩や主将などがごそっと卒業してしまった。新たに3回生になった部員は、たった二人。三段前後が3人、初段前後が2人しかいなくなってしまった。新部長・新主将にならざるを得なかった私は、栄光ある歴史を持つ神戸大学囲碁部を再建しようとして、バイトをやめて一年間は囲碁部のために活動したのだった。

私には以下の課題があった。
○囲碁同好会を学生部公認団体にすること
○部員を増やし、部員の棋力を向上させて、リーグ戦を戦えるようにする事

実は、私の入学した頃は、囲碁同好会は学生部の公認団体ではなかったのだ。そうなった理由は、二つあったと言われている。昭和30年代、西村御大の頃に、神戸外大に赤松さんという強い人がいた。後に読売新聞の観戦記者として活躍された。西村さんは神戸大の団体戦に赤松さんを入れて試合に出たらしい。赤松さんは学生本因坊2回取った人だから即バレた。当り前だ。このため神戸大学囲碁部は、関西学生囲碁連盟から懲罰として一年間試合に出れなかった。さらに六甲台グラウンドに隣接して囲碁部の部室があったらしいがこれを火事で燃やしてしまった、と言われている。昭和30年代の不祥事によって、神戸大学では、囲碁部は学生部公認団体の資格を抹消されていたのだ。
私はまず学生部に加盟申請をして準公認団体になった。しかる後に私は新野経済学部長に顧問就任を依頼した。翌年、囲碁部は公認団体になって、大学から年間5万円の活動費をもらえるようになったのだ。かくて課題その一はクリアした。

昭和57年入学で残った部員はS田君一人。昭和58年に入部した部員は6人いたが全員5級以下だったのである。これらを鍛えて試合に出れる体制を作らねばならない。不可能だと思った。まず関西学生囲碁連盟には、準加盟団体になる申請をした。つまり昭和58年度は団体戦を欠場し、連盟費2万4千円を節約した。準加盟で個人予選に出る権利を確保し、来年は本加盟に戻ると約束した。それまでは強い部員がいたために、初心者を育てる必要なんかなかった。しかし初心者を戦力化する必要に迫られたのだ。最初、私に8~9子だったY本君・S垣君が急激に強くなり半年で初段になってしまった。それ以外の部員もどんどん強くなって、翌年春期は3部で完全優勝。秋は2部でも2位で入れ替え戦に出場するという快進撃を見せた。昭和59年はS田君が部長・主将になって、私は税理士受験のために一線を引いていたが、後輩たちと練習対局を多くこなしていた。
昭和60年に行松君が入り主将となる。その前後に相次いで強力新人が入部し、黄金時代が始まった。奇跡は起こった。一部リーグの優勝を狙えるチームになったのだから。

その頃から一芸入試が始まった。大阪市大や龍谷大が強い部員を集めたが、やがて立命館大学が強い部員を大量に集めるようになった。私たちの頃は、京大が常勝で阪大が対抗していた。関学・関大・同志社・大阪府立大・京産などが強かった。立命は一芸入試するまでは二部リーグに低迷していたのだ。

私が思うに囲碁に限らず何事も、上達する過程が楽しいのだ。5級で入学して五段で卒業する。これが理想だと思う。最初から六段の部員が集まっても濃密な人間関係が生まれるだろうか?






最終更新日  2006.08.27 04:31:22
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2006.06.27
カテゴリ:神戸大学囲碁部史
hide-wさんのお友達に出雲屋さん、という方がおられるようだ。多賀君といっしょに日韓対抗戦に出たというから、35才前後の方らしい。なぜ東北大学の方なのに出雲なのかなぁ・・と思った。

実は神戸大囲碁部には、島根県立出雲高校出身の先輩・後輩が多くおられた。まず私、松下の入学直後は落語研究会に所属していた。しかし落研の練習がハードでスケジュール的に続けられなかった。私は住吉寮に住んでいた。そこには大野さん松嶋さんが住んでいたのだ。夜間部の学生だった私は、夜に先輩の部屋へおじゃまして教えてもらっているうちに団体戦のメンバーになり、両先輩の後に部長・主将をやるはめになったのだ。

昭和53年、島根県立出雲高校は、高校選手権団体全国優勝している。その時の主将が大野さん(のちNEC、千葉代表)、副将が荒木さん(のち東大主将、三井物産)大野さんは私より2年先輩である。私の4年後輩に飯塚君がいる。この出雲人脈は、指導棋士だった故上田吉行氏の門下で、故吉田陽一九段やその門下の谷村八段や峰松六段にも連なっている。

島根県は西部の石見地方は道策先生や岩本九段などの名棋士を輩出しているが、出雲地方からは上田人脈の他にはあまり棋士が出ていないはずだ。

追記
先日、立命のOBで静岡の市川さんという方が亡くなった、と聞いた。私は面識がないのだが、神戸大囲碁部にも静岡出身の市川という選手がいた。私より3年後輩で行松君と同期である。高校選手権で活躍し、五段だと言って入ってきた。私とは互先。行松君とは三子の手合だった。選手としては大して活躍せずに終わった。






最終更新日  2007.03.03 23:07:02
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2006.06.26
カテゴリ:神戸大学囲碁部史
全国的に有名な先輩です。いろいろお世話にもなりました。
まずは敬意を表さないといけない方です。
西村さんを尊敬するという人も多いけれど、
西村さんを嫌いだぁ、という人も多いのでした。
神戸大学囲碁部史において、第一期黄金時代を築いた
尊敬すべき先輩、であると共に、負の遺産を残した
先輩でもあります。(爆)
功と罪の両方を書いてみたい、と思うのです。

私が実際に対局した感じでは、高林共平さんの方が
強いと思います。対局した数が少ないし、置碁なので
よくわかりませんけど。

私が在学中は、西村さんは明石に近い、JR朝霧駅の近くで
定期的に研究会をされていました。先輩の鈴木さん宮本さんは
参加されていましたが、私は行った事がありませんでした。

関学の主将だった長尾さん(後にGO-netの営業をされたり
兵庫代表にもなった)に誘われて、阪急伊丹駅前の安永先生の
所(のちに震災で倒壊した)へ行ったり、甲南大の出口さん宮本さん
に誘われて、本田満彦先生の春日野道の研究会にお邪魔したりして
いました。朝霧が遠かったからです。

私が大学2年の時、JR三宮駅北側に「加賀」という碁席ができました。
席主は、あの高林共平。全国から賭け碁打ちが集まり、熱い戦いが
繰り広げられていました。これを観戦するのがメチャ楽しかった。
高林マジックに翻弄されて授業料を巻き上げられました。
この棋譜を残しておいてコンテンツにすればよかった・・
と今でも悔やまれます。






最終更新日  2006.06.27 22:19:51
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