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「皆川城落城」 (皆川城本丸近くの崖に咲いていた、『あざみ』だど。秋っぽいべ) 『皆川城』は、天正18年(1590)、 『小田原城攻め』の後で、廃城さなった。 理由は、まだ『皆川広照』が『小田原城』さ、こもってっときにな。 本城『皆川城』さ攻め込まれて、落とされた。 ってことに、なってんだけど。 これ、違うかもしんないんだと。 ええ~と。『皆川正中禄』や『栃木県史』によると、 『上杉景勝』『前田利家』『松平修理亮』らが『皆川城』さ、 攻め込んで落とした。 って、なってるらしいんだけどな。 専門家の話じゃ~、上の3人は、3月上旬~4月20日まで、 上野国『松井田城』あたりを、攻撃してたんだと。 『皆川城』が攻撃さ受けたのは、4月8日。 記録さ間違って、日付さ少しずれてたとしても、 上の3人が、『皆川城』周辺に攻め寄せる暇は、なかったんだと。 あと『石田三成』が攻め込んだ。 って話もあんだとw。 だども、これも、没。 当時『石田三成』は、『豊臣秀吉』と共に、 『小田原城』さ攻めてたかんな。 そうすっと、他には誰がいっかな? ・・・誰もいないや。 って、ことで。 豊臣側が『皆川城』を攻め落とした、って話は、 あやしいな~ って、言われるようになったんだと。 ちなみに『皆川正中禄』って書物は、物語っぽい本でな。 ちと、大げさに書かれた部分が多いんだと。 読み物としちゃ~、おもしろいんだどもな。 記録書としてみっと、信憑性が低いもんなんだって。 たとえば、『皆川城に5万人が篭城した』って書かれてるw。 実際に行ってみた感想じゃ~、 5万人、はいんね~ど。絶対に、な。 斜面ばっかしだし、ひらたい場所は、ほとんどねがったもんな。 それに、麓の里人がみんな『皆川城』さ、きちまったら、 守備の兵たちの居場所さ、ねぐなっちまうど。 そしたら、せっかくの法螺貝状の土塁や竪堀も、 意味さねぐなっちまうべな。 『皆川城』は、人が居られる場所が、少ないんだかんな。 んじゃ~、当時の『皆川城』周辺は、どんなだったか、っつうとな。 『平穏』 だったんだと。 5月ごろ、『結城晴朝』が『小山城』『榎本城』を落としたり。 『皆川城』の西隣。 『佐野氏』に、内部抗争があったらしいけど。 他には、一切、戦らしい動きはねがったらしいべ。 東隣の『壬生義雄』は、『小田原城内』に籠もってたんだけど。 『壬生氏』の城は、攻撃さえ受けなかった。 『小田原城』にいる『壬生氏』が攻撃さ、されてね~のに、 いち早く脱出(降伏)した『皆川氏』の城が、 攻撃されんのは、おかしい! 専門家は、そんなことさ、考えてな。 これも『皆川城』攻めがなかった、理由の一つになんてんだ。 じゃ~、『皆川城』は、落城しなかったんけ? そこは、ちと、わかんないんだけど。 この後、『皆川広照』は、『皆川城』を出て、 『栃木城』に移ってる。 これも、『皆川城』が落城したせいだ、って説が強いんだけど。 『皆川城』が攻撃されてない、としたら、 話は全然、変わっちまうど。 どうして移ったのか。 ほんとに『皆川城』は、攻め込まれたのか。 それとも、『皆川城攻め』は、なかったのか。 こっから先は、専門家の研究さ、任せるしかないんだけんど・・・。 どうも『皆川城攻め・落城』って話は、なかったんじゃ~ないかな。 って、思えてきたど~。 これからの研究成果が、たのしみだべな。 《参考》 下野戦国史~皆川広照の生涯~ 大森隆司・大阿久岩雄 下野新聞社 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012.12.07 00:23:21
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