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「二宮尊徳(金冶郎)」 『二宮尊徳』さんは、天明7年(1787)に生まれた 農政家であり思想家でもあった人。 通称は、金冶郎。金次郎じゃなぐて、『冶』が正しいんだと。 ええと。実は『二宮尊徳』って、名前さ知ってるけど。 どんな人だったか、知らないな。 学校に銅像さあって、苦学の末、偉くなった、ってぐらいしか、わかんない。 んでな。ネットでちょこっと調べてみたら。 14~16歳のころ、両親が相次いで亡くなっっちまってな。 尊徳は伯父さんの家に、やっかいになってたんだと。 んで、農作業さしながら、勉学さ励み、 20歳んとき、生家さ再興したんだど。 お、銅像さなってんのは、 こんころのエピソードがもとになってんかな? その後、尊徳さんは、小田原さいって、名を上げていったんだ。 そんで、才能さ見込まれて、下野国桜町領(現・真岡市)に移転。 東郷陣屋(現・真岡市)で、真岡代官領の経営に、携わっていたらしいべ。 真岡代官領っつうと、『芳賀城』の辺りかな~。 あそこに、代官屋敷さあったっぺ、たしか。 んで、この碑さ繋がってくんだな。 『大前神社』の入口近くさあった、 『山内明府光徳の碑』だど。 尊徳さんの名前も載ってっから、 きっとこんときも、活躍したんだべな。 そんで、日光山領の仕法も行ってたとか、書いてある。 なんだか、大変な人物に思えてきたど。 今は大まかにしか、わかんないんで、 こんど、ちゃんと勉強してみよ。 で、これが『二宮尊徳』さんが手がけた『大前堰』 この辺りは当時、洪水などの水害も多かったらしいど。 現在の『大前堰』は、昭和38年に完成させたもんなんだと。 『大前堰』の側にゃ、『二宮尊徳』先生の遺跡さ示す、石碑さあったよ。 逆光で、よく写ってないけど。 実物は、もっといいもんだよ。 んで、奥に見える赤い扉みたいなもんが『穴川用水口』。 あそこから、田圃さ必要な水さ引き入れるんだど。 振り返ると、赤い鳥居と、変なもんが。 鳥居は屋根付きの、明神鳥居。 両脇さ固める変な生き物は、獏なんだと。 これは、栃木県内の何か所かに置かれている、 獏の神さま、みたいなもんでな。 全部回ると、願い事さ叶うとか・・・? 左側にも、いた! こっちは米俵さ、乗ってるど。 そういや~『白鷺神社(栃木県上三川市)』にも、いたな。 こんなの。 『白鷺神社』は、1体だったけど。 こっちは2体。『狛犬さま』に対抗してんだべか。 だども、どうみても。神さまっつうよりは、ゆるキャラみたいなんだどもな~。 一緒さしたら、怒られっちまうかな。 んで、見て貰いたいのは、こっち。 鳥居の真横にある、小さな神社。 『大前二宮神社』だど。 名前の通り『二宮尊徳』さんさ、お祀りした神社だど。 五穀豊穣と水・川の安全長久さ守ってくれるんだと。 この神社は『桜町二宮神社』から、勤請してきたもんなんだよ。 小さいけんど、しっかりした造りの神社でな。 木々に囲まれて、見えにくいとこにあんだけど。 ぜひ、忘れずに、参拝しにいっとこれね。 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~! にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013.07.12 00:35:44
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