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「馬出と畠山重忠」 坂の下に、なんかある。 小山? 近づいてみたら、 横に『堀』があった。 お、これも『菅谷城』の遺構なんだ。 横矢かな? でも、そったらもんあるって話、聞いてないな。 なんだべな? まわり込んでみた。 道の近くは藪だったんで、ちょこっと背伸びさしてな。 覗きこんでみたら、 おお~。こっちの『堀』は、深いど~。 それに水が溜まってる。 『水掘』みたいだなぁ。 ここっていったい、なんなんだ? 奥のほうにも、『堀』が続いてるよ。 直角に曲がってるな。 なんかすごいもんに、当たったようだど。 でも、全体像がぜんぜん、浮かんでこないんだけど。 なんなんだい? これは? 近くにあった案内版によると、これは『馬出』というもんらしい。 あ、本でも紹介されてたな。 『菅谷城のみどころ』なんで、絶対に見逃さないように、 って強調されてたよ。 なんか、ちょっと『変わった馬出』なんだって。 と、いわれても。よくわかんないな。 たしかに『想像してた馬出』と、ちがうみたいだけんどな。 『馬出』といえば、『虎口』さ守る防壁みたいなもの。 広い空間さあって、武士が隠れて待ち伏せできるように、 『土塁』で囲ってあったり、『堀』さ作って 入れなくすんだよね。 ここは『堀』で囲まれてっけど、『馬出』って感じじゃないなぁ。 見る方向が悪いんかな? 上から全体さみたら、『馬出』ってわかるかな。 土塁の上は、登れないんかな? うろうろ。うろうろ。 周囲を探索していたら、 階段、めっけ。 『馬出』から、ちょっと『二ノ廓』へ入り込んだところに、 『登れる土塁』さ、めっけたよ。 さっそく、登る。 と、上に人がいた。 あ、違った。銅像だった。 もうっ。びっくりしたど。 ええとこの人は 『畠山重忠(はたけやま しげただ)』っつってな。 平安時代の末期から、 鎌倉時代の初期ごろに活躍した、御家人なんだと。 『菅谷城』をこしゃった人って、言われてんだ。 だから、土塁の上に銅像があったんだね。 ウィキペディアによると、 埼玉県の深谷市あたりを、治めていたらしいど。 あ、『畠山』の名前も地名で残ってんだね。 武勇の誉高く、清廉潔白な人柄で『坂東武士の鏡』 と呼ばれていたんだとか。 経歴もたくさん、残ってんだね。 あ、下野国の武士の名前が出てくるエピソードがあるよ。 文治3年(1187)に『畠山重忠』が地頭を務めていた伊勢でな。 代官が狼藉を働いたんだと。 だもんで、『畠山重忠』は身柄を『千葉胤正』に 預けられちまったんだって。 『源頼朝』は『畠山重忠』の武功を惜しんで、ゆるしたんだけんどな。 『畠山重忠』が武蔵国の菅谷館に帰ったとたん、 謀反を働いてるって騒ぎだしたやつがいた。 侍所所司の『梶原景時』って人だって。 そこで『源頼朝』は重臣を集めて『畠山重忠』を 討つべきかどうか、審議したんだ。 そんときな。『小山朝政』が『畠山重忠』を弁護したんだと。 で、ひとます『下河辺行平』を使者にたてて、事情さ聞いたんだと。 最後は身の潔白を示し、『畠山重忠』は許される。 というお話。 小山氏とか下河辺氏とか、知ってる人が出て来たど。 あと『源頼朝』。 そうか、あの時代の人なんだ。 大物がかかわってくると、 時代とかイメージしやすくて、覚えやすいな。 よし。これで『畠山重忠』の名前は忘れないど。 《参考》 『嵐山史跡のガイドブック2 菅谷館跡 埼玉県立嵐山史跡の博物館』 (史跡博物館で 購入しました。パンフレットみたいな冊子です。)
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