|
カテゴリ:カテゴリ未分類
「『佐野の城館跡~唐沢山城とその支城~』展 その2」
展示物はいろいろあったけど、一番興味深かったものは、 絵地図だな。 中でも『唐沢城山地形廻図の中央部』ってのと、 『唐沢城内地形図の中央部』ってやつが おもしろかった。 壁を覆うぐらい、大きな地図でな。 どちらも、唐沢山城の本丸を中心に、 石垣の配置とか、周囲の山などの地形が描かれてるんだ。 本丸を囲む『高石垣』は、見事だな~。 お、こりゃいいな。 『大手道』もちゃんと、赤い線で書きこまれてんど。 現在の唐澤山神社に通じる参道は、 南城側から、石段を上がるようになってんだけど。 ここは明治時代まで、石垣でふさがれてたんだと。 それが大雨で、崩れっちまったもんだからな。 石段をこしゃって、参道にしちゃったらしいど。 戦国時代の『大手道』は、石垣の手前で左のほうへまがり、 『高石垣』の前を、通過するようになってたんだと。 そして、二の丸側から本丸へ入る。 今は、神社の裏口みたいに思われちまってな。 参拝客は、見逃しちゃうらしいけど。 見事な『鏡岩』と『虎口の跡』が、あるんだど。 地図にゃ、『鏡岩』は描かれてないけど、 『虎口』はちゃんと、描いてあるよ。 すごいな~。 ちなみに、現在『三の丸』って呼ばれてる場所は、 戦国時代にゃ、『帯曲輪』または『御使者の間』 って呼ばれてたらしくてな。 『三の丸』って呼ばれるようになったのは、 明治時代になって、神社を創設したころからなんだって。 だもんで『三の丸』から『本丸』へ入るって説は、 弱くなっちまってるらしいど。 地図でみると、『二の丸』の下に 細長い道みたいな『帯曲輪』があるど。 ここが、今『三の丸』って言われてる場所なのかな? だいぶ、今と違うな。 地図の赤い線も、ここは通ってない。 どうやら『大手道』は、『二の丸通過説』が有力そうだど。 あれ? この2枚の地図。 そっくり同じにめ~たけど。 なんだかちょっと違うとこがあんど。 『唐沢城内地形図』のほうにゃ、井戸が描かれてないよ。 あれ? よくみると『高石垣の形』も、ちと違う。 『唐沢城内地形図』のほうは、ぴったりくっついてんのに、 『唐沢城地形廻図』のほうは、隙間があいてる。 それに、こっちにゃ 石垣に向かう途中に『馬場』があっけど、 もう一枚のほうにゃ、ない。 なんでだろ? また、謎が出来ちゃった。 だども、地図って、面白いね。 《参考》 図録『佐野の城館跡ー唐沢山城とその支城ー』 佐野市郷土博物館:発行 下野新聞の記事 『ようこそ唐沢山城へ』17回目と19回目。 《こんなの めっけた》
佐野市といえば、ラーメンだな。 最近寒くなってきたしな。 ラーメンであったまるのも、いいかも。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 最後まで読んでくれて、あんがと~♪ ぽちっと、押しとこれね。 にほんブログ村 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.07.14 00:32:16
コメント(0) | コメントを書く |