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テーマ:ふしぎなこと(10)
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母と祖母が30年近くも疎遠だった理由
成人し、伴侶も得、子の母となったとはいえ 想像がつかなかった ふるさと静岡浜岡町は母方のルーツでもあるが、のどかな幼少期の記憶が全てで 人生のほとんどは埼玉県で成長しているため、母とふるさととの関係は、私のそれとは違っていた 考えてみれば、母はふるさとの思い出話を自らいう人ではなかった、 ただ、俳優の 加藤 剛さんの幼い頃を見たとか、身内に大学教授がいる、有名歌手がいる という手合いのことばかりいう人で、正直 娘としては、好きになれない人種だった 親子特有の喧嘩もあったから一人暮らしの母を喜ばせて上げたかった。 母は、田舎に似合わぬ個性の強い派手な人だったから、 明治生まれの祖父母とは若い頃から衝突があったようだ、 若い時代の母は、欧米人の父 との恋愛の末私を産み、別れ、 結局、幼子と仕事を両立は成り立たず、こうなるのは目に見えているのだからと反対し続けた かつての面影無く生活に余裕のない状態の父母に頭をさげわが子を預けねばならなかった 母は長女で他に3人の弟妹が居たが、これらの事を通し 姉としての信用等を落として行きふるさとの敷居が高くなってしまっていたのだろう 末の妹は利発で要領も良く祖母は贔屓をしていたに違いない 文章を書いているうちに色々分ってきた気がする、 脳天気な母とづーッと思ってきたが、あの人なりの辛さが、 祖母に2度と会いたくないと母は言ったが、もう一度再会をする。2年後不思議な事が起きた 私は居間で幼い娘と過ごしていた、誰も居なかった台所で突然ボ-ーンッ!!と音がした 言ってみると棚の上に伏せてあった桶が飛んだという状態で落ちたのだ 私はすぐさま不吉を予感したが、家人の誰も気にはしてくれなかった 私はそれどころか笑われたのである。 翌日、髪を梳かすつもりでブラシを手にとると上部が割れてしまったので、 いよいよこれは、と思っていると電話が鳴った 叔母が、祖母危篤の知らせてきた 昭和59年初夏だった。 つづく ※私に応援のクリックしていただけると励みになります! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006.08.04 19:08:54
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