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偽善とは何か。
見せ掛けだけの善を偽善と言います。 しかし、はたしてそれだけでしょうか。 客観的に判断すればあるいは善が善でなくなるのと同じ様に、見せ掛けだけで無い善もまた偽善となりうるのではないのでしょうか。 例えば、テレビで貧困に喘ぐ人々を見た時。 心から、あるいはそうで無くても、ほんの少しでも心に触れて彼等を哀れむ事。これは偽善か否か。これは私から判断すれば善以外の何者でも無い。そういった心を持たなくなれば、人は知能ある、あるいは理性ある動物としての意味を失ってしまいます。 ですが、これは偽善であると言い切る事も出来ます。 何故ならば、貧困に喘ぐ人々からすれば、己を救ってくれない善など何の意味も持たないからです。そして、己の心が他人の心へと簡単に届かない以上、偽善である意味すらなくなる事が、それが偽善である事を証明しています。善とは一人では意味をなさないもの。誰かに渡って初めて善となりうるのです。故に、テレビの前で哀れみの善を持とうが、ブラウン管の向こうには全く届かないのですから、これは自己満足の善でしかない。誰にも届かない善が完全な善となりうる事が出来ない以上、偽善と罵られても仕様が無いことです。 昨日、学校の掲示板で一人の人間を表彰する文が載っていました。 外国で起こった災害のために心を痛めた子供達のケアをするために、その学生さんは一年間、おそらくは不便な環境で寝食を共にしたのだという事です。 私が行ったゴミ拾いのボランティアとは全く性質を異にする、真のボランティアです。 それが完全なる善であるとは言い切れない人生経験でありますが、素直に尊敬できる行いだと思いました。 思っても私が何か行動に移さない限り、そう思った善もまた完全なる善には程遠く、つまりはテレビの前で哀れみを覚えるのと同じなのであるなあと、若干虚しくなったりします。 アリシアさんです。たぶん。 髪をほどいたら特徴なくなりますね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Sep 4, 2007 12:30:28 AM
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