★ぱそすき★

2006/03/17(金)23:39

大村直之■ミズノ・バッティンググローブ■近鉄バファローズ→福岡ソフトバンク

私事・プライベート(161)

タイトルの通りのオークション出品です。 大村直之■ミズノ・バッティング手袋■近鉄→福岡ソフトバンク 「Ohmura」とネームの入ったバッティンググローブ・革手袋です。 新品・未使用です。 大村選手が近鉄バファローズ当時の物です。 今では手に入らない貴重な物だと思います。 MIZUNO(ミズノ) 野球/競技手袋/バッティング手袋 プロモデル手袋(両手用) 素材 羊革 サイズ 24cm 重量 約70g 2003年に、近鉄の選手の品物を多数オークションに出品したのですが、まだ色々残っていますので出品します。 【参考データ】 大村 直之(おおむら なおゆき, 1976年2月13日 - )は、プロ野球福岡ソフトバンクホークスに所属するプロ野球選手(外野手)。 左投げ左打ち。 兵庫県西宮市出身。 愛称は「むっちん」、「宇宙人(顔立ちから)」、「ポップン(ポップフライが多いから)」、「モー村(近鉄時代に登場曲をモーニング娘。の恋愛レボリューション21にしたことから)」、「蛸(2ちゃんねるでの大村の顔文字から)」など多数。 盗塁王の経験こそないが、俊足を生かし1番バッターとして活躍する。 守備範囲は広く打球に対する反応も的確で、中堅手としては球界屈指の実力を持つ。 近鉄時代、1998年までは盗塁数を伸ばしていたが、その後2年間は盗塁も打率も伸び悩んだ。 2001年には一転して本塁打を量産し、打率.271・16本塁打・53打点という1番打者らしくないものの、当時近鉄の打撃コーチで、1985年の阪神タイガース優勝時の1番打者として打率.322・34本塁打・84打点の成績を残した真弓明信を髣髴とさせる核弾頭的な活躍で、12年ぶりのリーグ優勝に貢献した。 しかし、翌年は僅か1盗塁という信じ難い成績を残し、チームの盗塁数も落ち込んだため、大石大二郎コーチらの方針で盗塁を積極的に試みるようになり、ソフトバンク在籍1年目に至るまで3年連続で20盗塁以上を記録している。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ■経歴 野球を始めたのは小2から。「水泳を習いたかった」直之と、子供時代貧乏ゆえ用具が買えず野球を断念した父・一一(かずいち)とモメた末、父の言葉にしたがい競技生活が始まる。 1993年 育英高校(兵庫)からドラフト3位で近鉄バファローズに入団。 1995年 110試合に出場し、1番バッターに定着。 1998年 ベストナイン・ゴールデングラブ賞獲得。 1999年 背番号を60から7に変更。 2004年 近鉄球団消滅に伴い、フリーエージェントでソフトバンクホークスに移籍。 ■背番号 60 (1994年 - 1998年) 7  (1999年 - 2004年、2005年) ■通算成績(05年まで) 1340試合出場 4883打数1359安打 打率.278 69本塁打 425打点 158盗塁 ■タイトル ベストナイン1回(1998) ゴールデングラブ賞3回(1998,2003,2005) ■エピソード 妻は中学時代の同期で看護士をしていた。 一男一女があり、夫婦仲は良く大村の移籍に伴い一家で福岡に転居・同居。 1995年阪神大震災で実家が全壊。 大村は実家再建のために契約金や給料の多くを惜しまず実家に差し出した。 入団後数年間は本人談「当てるバッティング」で成績を残し、1998年に.310を記録した。 その後2年間伸び悩んだ彼は2001年に「当てて足で稼ぐバッティング」のままではダメだから「振り切って鋭い打球を打つバッティング」に変えることにしたと言っている。 結果として前年よりも成績は上がり、その後3年間、毎年彼の本塁打数が二桁台を記録しているのはバッティングスタイルを変えた影響が大きい。 大村はバッテリーの意表をつき、一塁方向のセーフティバントで内野安打を稼ぐことがあり、毎年コンスタントに犠打を記録するなど一見2番も打てるように見える。 しかし近鉄時代に本人は「考えて細かいことをする2番は苦手」と発言しており、実際2番打者での成績は芳しくない。 ポジションのライバルとなった柴原洋とは近鉄時代からかわらぬ仲良しである。

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