恩師 須山先生のこと
大学時代の恩師・須山名保子先生は、すばらしい先生で心から尊敬している。研究者としては、大野晋先生の共同研究者としていくつかの大野先生の本に名前を連ねていらっしゃる。また、指導者として、私達学部生の研究意欲をかきたてるような問題提起もしてくださった。私が前述の池上氏・間宮氏と仲良くなったのも、この須山先生の研究会「迷宮会」のおかげである。大学2年の演習で、須山先生は万葉集の国語学的研究の講座を担当された。私は、不勉強ながら、万葉集には興味があったので、必須演習の一つとしてこの講座を選択した。土曜日の午前中に開かれるこの講座では、毎回、一人が一つの和歌を担当し調べたことを発表する。100分間の授業の時間のうち、発表時間は30分。あとは、受講生からの質問や指摘に終始する。私が担当したとき、私は完全に人間サンドバッグだった。まともに調べもせずに、ちょっとした研究所をちょこちょこっとひぱってきて発表の準備にしたものだから、たまらない。まず、発表時間自体が10分もたなかった。そして、その後の質疑応答では、もう、答える事すらできない。演習なので、大学2年~4年までが参加している。質問・指摘のあまりの的確さ、鋭さに、ただただ、茫然としていた。そして、質問への回答や指摘に対する発表の修正に対して「調べておきます」としか答えられなかった。発表があまりにふがいないので、受講していたメンバーは私を抜きにして意見交換、討論を始めた。もちろん、受講される私以外の人はみんな、その回で発表される和歌について、十分予習し研究してくるから、内容も深く、指摘する根拠も的を射ているものばかりだった。私は、この意見交換、討論を必死でメモしながら、すごいなぁ、この人たち、とただただ感動していた。すると、ずっと静かに聞いていた須山先生が「長尾さん、そんなに簡単に『調べます』と答えると あとが苦しくなりますよ。」とおっしゃったのだ。「この人たちはとても研究熱心な人たちです。 あなたが一生懸命調べても、答えることはできません。 もう少し、調べることを絞っておきましょう」と。そして、たくさんの指摘事項から、2つ3つ、先生はとりあげられ、それについて解説をされた。私の担当したのは、恋しけば形見にせむと我がやどに植ゑし藤波今咲きにけり(万八・一四七一)この歌には、類歌(非常に似た歌)が万葉集中に存在する。こんなことは万葉集では非常に珍しい。類歌は、恋しくは形見にせよと我が背子が植ゑし秋萩花咲きにけり(万一〇・二一一九)先生は、万葉集にあるたくさんの歌から、一人一人に和歌を割り当ててくださるのだが、私には、1471番をあてた。つまり、本当に、少し注意深く調べると、類歌のある珍しい歌であることがすぐに見つけられる、と考えて私に担当させてくれたのだ。だが、その歌と解説しか見ていなかった私はこの珍しい類歌のことさえも気づかずにいた。もちろん、ほかの学生は予習ですぐにこのことに気づきこの類歌について準備万端で参加していた。だから、発表者である私が類歌に触れないのでその基本的な指摘から始まってしまったのだ。先生は、類歌についての解説と解釈を展開され、私のいい加減な準備を特にひどく注意することもなく、ただ、次回までに調べる点を絞ってくださったのだ。このとき、同じ講義を受けていたのが池上氏。同じ学年でありながら、しかも、かなり調べやすい和歌でありながら、あまりにも勉強をしない私を本気で心配してくれた。池上氏から見ると、勉強をしない、という状態自体が想像できないようだった。だから、何か、調べる方法が間違っているのか、調べるもの(研究書)が悪いのか、という判断しかなかったようだ。そして、そのあとしばらくして、須山先生が池上氏、間宮氏はじめ、私と同学年でやる気と能力のある学生を集めて自主研究会を立ち上げるとき池上氏が私にも声をかけてきたのだ。「長尾さんは頭は悪くない。だからもう少し 勉強の方法を知った方がいい」というのが池上氏の意見だった。私は、深く考えもせず、ただ、須山先生の、あのときの講座の雰囲気をまとめ、穏やかにし、しかも私には鋭い指摘を与えつつも、それが私を傷つけないように配慮されたものであった、あの雰囲気を私も身に着けたい、とそっちの理由で研究会に参加することにした。研究会の内容は、「上代特殊仮名遣いの研究」上代とは、古事記・日本書紀・万葉集の時代。特殊仮名遣い、とは、万葉仮名の中に、五母音では説明のつかない書き分けがあった、という説。もともと、上代は8母音だ、という説である。こんなことを須山先生と、20歳そこそこの若者数人が集まっては研究するのだ。私がついていけるわけがない。とりあえず、数年間在籍はしたが、あとは自然に辞めることになった。が、この迷宮会のおかげで、優秀な仲間と親しくなることができた。そして何よりも、須山先生ととても親しくなることができた。須山先生の物腰、言葉づかいは、本当に理想である。「わたくし、敬語にだけは自信があります」おだやかに、そうきっぱりとおっしゃった姿は大変神々しくさえ見えた。私より30歳ほど年上の先生は、研究者としての優秀さはもちろん、家庭人として、英文学者の夫を支え、母として優秀なお子さんを育て家もいつも片付き、客をもてなすときは手料理を準備する。私の憧れであり理想である。ときどき、受講生さんから相談事をうけることがある。そんなとき、私は須山先生のように答えられたかな、あんな風に、聞く側を安心させる態度で接することができたかな、と反省する。文学講座で、普通の解説書に書かれていないような解釈を思いついたら、必ず須山先生に電話で聞いている。先生は、上品で物静かに聞いて下さり「あら、そこによく気づかれましたね」と言ってくださる。それを聞くと安心して受講生に伝えることができるのだ。また、アホな話をして受話器の向こうの先生を笑わせるのがうれしい。最初はコロコロと笑われるが、そのうち、息ができないほどに笑い始め、最後にはゼーゼーという音が聞こえる。きっと、あの細い目から涙を流して笑ってらっしゃるのだろうな、と思うとこちらもうれしくなる。そして、また、くだらないネタを見つけたら電話をするのだ。最近、ネタ不足で電話が遠のいている。このブログを書いたことをネタに電話してみようと思う。きっと先生は、このブログを見つけ出してお読みになって、感想をお葉書でよこしてくださると思う。