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1999.10.15
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カテゴリ:近代文学

鴎外闘う家長(著者:山崎正和|出版社:新潮文庫)


 森鴎外の評伝。力作であることは分かるのだが、所々引っかかる。
 「ひと言でいって明治時代は政治的国家の猛烈な拡張期であり、国民の私生活がぎりぎりまで政治に吸収された時代であることはいうまでもない。」(p46)
 私生活が政治に吸収されるとはどういうことなのか。この後、政治によって作られた風俗の例などがあり、私生活も影響は受けていたこととは思うのだが、「吸収」とはどういうことなのか。「「文化」は実質的に政策の及ぶ文化の表層に過ぎず、その内実をかたちづくる私生活の層では、開明派も国粋派もともにまだ同じ風俗伝統の中に暮らしていたのである。」(p47)ともある。
 「鴎外にとって、文学は個人の密室の産物ではなく、最初から、「家」という均質な感情と教養の世界に対して開かれていたといっても過言ではあるまい。」(p82)
 一般的に、文学が「個人の密室の産物」であることの方が少ないのではないか。小説であれ詩歌であれ、最初から人の眼に触れることを意識して作られるわけだし、明治には、自分の書いたものを他人に音読して聞かせたりすることは普通のことだったはずだが。むしろ、ここで書かれている鴎外の著作態度は、「家」というものに開かれている、というよりも、「家」そのものが「個人の密室」であったようにも思われる。
 「女性の筆というものはときに残酷に真実を洩らすものだが」(p86)
 と、これだけ書かれても困る。これが一般的事実だというのなら、その実例をいくつか挙げて貰いたい。
 ほかにも、「次男坊らしく剽軽(ひょうきん)なところもあり」(p101)などという、一般論何だか個人の見解なんだかわからない表現が目に付く。
 また、うちに閉じこもることを「自閉症」と表現しているのは(p183・p186)明らかな誤り。
 もちろん、「なるほど」と思わせるところもある。例えば、「「近代的自我」というこの呪文(じゅもん)に似た言葉が顔を出すと、近代の日本人は、たいていの残酷さや神経の粗笨(そほん)さにひそかに目をつぶる習慣を養ってきたのである。」など。
 表記の面では、「たいしょてき」と読みたくなる「対蹠的」には繰り返し「たいせきてき」とルビを振っているのに、「憧憬」には「しょうけい」ではなく「どうけい」とルビを振っているのはどうしてなのだろう。

 こうして表現にあれこれ引っかかりながら読んでいったが、読み進めることはできる。内容の面では比較が目立つ。漱石との比較、荷風との比較など、他者との比較によって鴎外像を明らかにするのが目的なのかと思ってしまったが、そうではない。「あとがき」で疑問が解けた。著者は常に自分と鴎外を比較しているのである。「戦う家長」というのは鴎外のことでもあり、父を失った自分自身のことでもあるようだ。





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Last updated  2005.04.01 20:45:46
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