2004/11/15(月)14:03
ミゼット・プロレス
昨日の「たったひとつのたからもの」に関連して、障害者の社会的認知という面から。
私は一度だけミゼット・プロレスを生で見たことがある。全女の地方での興行で。東京ではやらないらしい。大田区体育館に見に行ったとき、ミゼット・レスラーは、スタッフとして働いていて、試合はなかった。
もう8年ぐらい前のことなので記憶はおぼろげだ。
基本的にはお笑いなのだが、掌打や膝十字など、流行の技も取り入れていて感心した。
試合後は、顔見知りらしい若い客に、後かたづけのアルバイトを依頼したりしていた。
もう30年ぐらい前のことだろうか。
一時期、テレビにミゼット・レスラーが出ていたことがある。お笑い番組で、いじられる役で笑いを取っていた。
正直なことを言うと、障害を笑うようでいやな気持ちがした。そう思ったのは私だけでなく、世の中からそういう声が挙がり、やがて出なくなってしまった。
大人になり、プロレスに興味を持って、関連する本や雑誌をいろいろ読んでいるうちに、ミゼット・レスラーのインタビュー記事に出会った。衝撃だった。
彼らは、テレビ出演に大きな期待を寄せていたのだ。自分たちが社会的に認知される機会だと思って、喜んで笑いを取っていたのだ。
それなのに、「良心的」な声がその機会をつぶしてしまった。私も、実際に投書したりしたわけではないが、同じことを思っていたのだから、機会をつぶした側の人間だ。
テレビから消えたからと言って障害がなくなるわけではない。むしろテレビは積極的に登場させて、ふつうの存在だという雰囲気を作り出して行くべきなのだ。
ことさら障害者を取り上げる必要はない。自然に画面に登場させてほしい。
ミゼット・プロレスのことを思うと、ジャイアント馬場さんのことが思い出される。人並みはずれて体が大きい、ということは、プロレスラーとしては大きな武器だった。
しかし、子供の頃から、体が大きいということでの苦労もあったはずだ。中学で、履けるスパイクがないからと野球をあきらめていた時期もある。好奇の目で見られることもあったろう。
雑誌のインタビューで、取材者と並んで立って、体の大きさを強調するような写真を撮りたいといわれると、断っていた。
馬場さんには馬場さんにしかわからない思いがあったことだろう。