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民話(伝説・昔話)

2012.07.13
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 再読。
 例によってすっかり内容を忘れている。
 入門書ではあるのだが、書き方は厳密。
 たとえば、
日本にも昔話や伝説にこの形式の話があるが、そのうち昔話ではなく伝説としては(p53)

 「昔話」と「伝説」を明確に区別している。学者としては当たり前のことなのだろう。
 あとがきにも、
ここっで取りあつかわれた説話の中には神話ばかりでなく、伝説や昔話も含まれている。

とある。

 全体としては、神話の構造という点に目を向け、その広がりが説明されている。
 道具立てなどに惑わされると、共通点を見落とすこともあるわけだ。
 孫悟空がプロメテウスと何らかの関係があるのではないか、という考えも説得力を持つ。(p124)


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Last updated  2012.07.14 22:13:00
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2012.04.24
 再読。いや、再々読ぐらいか。
 「日本の神話」は「古事記」。
 海幸山幸までを子供向けに書き直したものなのだが、今となっては、その子供向けの文体すらむずかしい。
 「こしらえる」「どうなすったでしょう」などという表現は、今の子供には理解できないだろう。
 「十大昔話」は、「桃太郎」「花咲かじじい」「かちかち山」「舌切りすずめ」「猿かに合戦」「くらげのお使い」「ねずみの嫁入り」「猫の草紙」「文福茶がま」「金太郎」。
 このうち「金太郎」は「昔話」と言うよりも「伝説」ではないかと思う。

 「猫の草紙」は話を忘れていた。結局は決着のつかない不思議な話。
  不思議な話と言えば「文福茶がま」もかなり不思議な話。タヌキの姿に戻って逃げれば良さそうなものなのだが、茶がまのままでいる。そして、茶がまとして今に残るというのだ。
 主人公は寺の和尚でもなく、くず払いでもない。タヌキでもない。茶がまの由来を語るだけ。
 これもまた「伝説」に分類されるべきものなのだろう。

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Last updated  2012.04.24 09:56:41
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2006.01.14
おとなもブルブルようかい話 医院の待合室で読んだ。
 内容は、「カラリンおばけ」「もちのすきなやまんば」「ようかいのおんがえし」「山おやじとよるのクモ」「ようかいのすみかへいったさむらい」「うしおにのでるはま」「『しゅのばん』のばけもの」「三つ目の大入道」「あだちがはらのおにばば」「かりうどとおばけ虫」「藤太のムカデたいじ」「ごはんをたべないおよめさん」「ちゅうにうかぶかんおけ」「ひとつ目のおに女」「しゅてんどうのくび」。
 妖怪の出てくる民話・伝説を、子ども向けに書いたものだが、内容の改変はしていないようだ。
 このうち、「あだちがはらのおにばば」は妖怪とは言えまい。
 「しゅてんどうのくび」を」読んで、始めて、酒呑童子がもとは人間だったことを知った。
 モテモテの色男だったのに、女たちの思いが凝縮されたものの力で鬼になってしまったのだそうだ。
  もし、もてない男だったら鬼にならずに済んだのだろう。

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Last updated  2006.01.14 13:16:25
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2005.12.18
 岩波文庫。1976年12月16日・第1刷。1993年5月17日・第10刷
  「こども風土記」は、「鹿・鹿・角・何本」からはじめて、連想ゲームのように、主に子供の遊びに関するさまざまな事柄について考証していく。
 その姿勢は、「私がこんな小さなことに力を入れるのも、目的はもっと自分の中にある「日本」を見つけ出してもらおうがためである。」(p38)という文にあらわれている。
 読み始めてすぐに気づいたのは、「妖怪は零落した神だ」というのと同じ、本来は高尚なものであったのが、たっとばれない存在になってしまったという考え方。
 たとえば、「おもちゃの起り」に「あんなオシャブリのような小さな玩具でも、やはり最初は、御宮笥《おみやげ》であり、すなわち日本人の信仰から生まれて、発達したものだったということである。」(p33)というところにもそれが見られるし、「猿ちご問答」では、はっきりと、「百年も以前に行われていたものならば、古来の風習だろうと即断する人がないとは言えぬが、私には一つの零落《れいらく》の姿とした思われない。」(p58)と述べている。
 いつものことながら、知らないことばかり。
 「左義長と正月小屋」の「左義長」は聞き覚えのある言葉だが、何だったかなと、辞書を引いたら「どんど焼き」のことだった。

 「母の手毬歌」は「母の手毬歌」「千駄焚き」「親棄山」「マハツブの話」「三角は飛ぶ」「三度の食事」「棒の歴史」と項目を立て、考察している。
 なるほど、と思ったのは、「信心深い」の変化。
 一つの神を深く信仰するのではなく、「迷いの多い者、大小さまざまの村の神々にも、また神にも仏にも、そちこち、わずかずつ祈願をかけてあるくような者を信心深い人ということになったのは、考えて見るとへんな話である。」(p157)というのは、言われてみればその通り。信心が深くないから、あちこちの神仏に頼るのだ。
 また、「親棄山」は『大和物語』にもある古い話だが、各地の口碑を紹介し、それに基づいて、「本に出ているからそれが最初の話だったと、言うことのできない証拠にもなるのである。」(p177)という。確かにその通りだ。書物が先にあってそれが広まるのではなく、話が先にあってそれが採録されたはずなのだから。
 柳田国男がいかに広く調査し、自分の頭で考えたか、ということがわかる。
 「三度の食事」では「食」の読みがいろいろ出てくる。
 まず「二食主義《にじきしゅぎ》」とあり、まもなく「朝晩の二食《しょく》にしようと決めた人も」というのが出てくる。
 読みが異なる理由はわからない。
 音読みについては、「食をシーまたはスイーと読むのは呉音《ごおん》というもので、仏教を学んだ人はみな呉音を使っていた。」(p251)の「シー」「スイー」は何か。
 音読みで「ー」という記号を用いることはないので、現代漢語の音のことをいっているのだろう。ピンインなら「shi」「si」に相当するものだ。
 しかし、これを「呉音」ということはできないのではないか。
 「棒の歴史」では、「ボウ」という語について、「ボウも、ことによるとホコという日本語から、わかれて出た言葉かも知れぬのである。」(p291)と言っている。
 これはどうか。
 辞書を引いたら、「棒」は音読みでも訓読みでも「ぼう」と読むのだった。音読みでは「ボウ」は呉音、漢音は「ほう」。「奉」が音符。
 現代漢語のピンインでは「bang」。
 呉音が日本語化したもののように思われるが、確信はない。

 子供の遊びを中心に語っているので「こども風土記」なのだろう、「母の手毬歌」も、身近なものを題材に、研究成果をまとめたものなのだろう、なるほど民俗学というのはこのようにものを見るのか、勉強になるなあ、と思ったのだが、巻末の付録「『村と学童』(朝日新聞社版)はしがき」を読んで驚いた。(『村と学童』は「母の手毬歌」の母体)
 戦争中に、疎開している子供のための読み物として書かれたものだったのだ。
 「この本の読者を、もっぱら五年六年の大きな生徒の中に、求めようと私はしている。」(p302)ということだ。私は戦争中の小学生以下だったわけだ。
 その文の中に、「弟妹たちとおもやいに」というのが出てきたのだが、その「おもやい」の意味がわからなかった。
 手元の国語辞典や広辞苑には載っていない。
 インターネットで検索したら、九州の方言で「共有する」ということだった。
 柳田国男は兵庫で十二歳まで兵庫で暮らしていた。そのときに覚えた言葉だろうか。
 解説では、「独り利害の念に絆され」の「絆され」が読めなかった。「ほだされ」だった。

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Last updated  2005.12.18 21:04:54
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2005.11.25
 角川書店。1974.1.25 初版
(日本の民話(12) 文庫版

 明治以降の民話。
 「明治のむかし」「世間話の流行」「戦争の民話」「戦後の民話」に分類されている。
 民話と言っても古い話ばかりとは限らないし、現在でも新しい民話が生まれつつあるわけだ。
 瀬川拓男の解説「現代は民話によって再現できるか」によると、「公害の空の下で」「日本は二十四時間」は創作であって民話ではないという。
 しかし、民話も最初は創作だったわけで、これらの話が民話科していく可能性があるのだ。
 私の知る範囲で言えば、広く知られるようになったからと言って民話化して定着するというわけではない。
 「口裂け女」が、三人姉妹の末娘というように民話の設定に近づいていったことはあったが、民話として定着してはいない。
 「人面犬」というのもあったが、忘れられてしまった。

 なお、「タクシーの怪談」は、料金を踏み倒されたことにして水揚げをごまかす手段として使われていた、というのは目から鱗だった。

「秋田のどぶろく」
 話の中身よりも、「ここらでは冬のしみるとき、石塔が割れるもの、どこの家でもこもをかぶせておいたわけだ。」というのが印象に残った。
 それだけ寒い中で生活しているのだ。どぶろくぐらいつくりたくなるだろう。

「隣組八分」
 戦争中の話。
 「えずなという小さな狐を使って占いを立てたり」とある。
 「えずな」は「飯綱《いずな》」の転で、半七捕物帖「菊人形の昔」に出てくる、「管狐」だ。
 戦争中にもいたのだ。

「まちんと」
 被爆した少女が、もっとトマトを食べたくて「まちんと、まちんと」と言いながら死んでいき、鳥となって、今でも「まちんと、まちんと」と鳴いているという話。
 日本の民話には、人間が異類になる話は極端に少なく、あっても、鳥の鳴き声の由来を語るものが多い。これもその一つ。現代でも、鳥にはなれるようだ。

「たぬきと密航船」
 山形の民話。
 「電池が痛ましい」という表現があり、懐かしくなった。
 私の故郷の福島県でも使われていた。
 電池がかわいそうだ、というのではない。「痛ましい」(発音は「いだましい」)は、「もったいない」「惜しい」という意味。

「アメリカ大使館前」
 アメリカ軍のカンボジア出兵反対でもの話。
 「ニャロメとは、漫画雑誌の猫《ねこ》ちゃんのせりふだが」とあった。
 ああ、そうか。「ニャロメ」も民話の素材化しているのか。今「ニャロメ」って言ってもわからないものなあ。
 「もーれつア太郎」は子供が一人で八百屋を切り盛りして生きていく話だった。
 あのころは、子供だけで自立して生活する話が成立できた。子供は子供の世界で生きていたからだ。
 今では無理なのだろう。


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Last updated  2005.11.25 00:40:56
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2005.11.19
 角川書店。1973.12.25初版

 「生産者の笑い」「エロと笑い」「悲喜こもごも」「笑いの王者」に分類されている。
 笑話もあれば、怪異譚のようなのもある。
 「民話」として採録されたものであっても、もとは字で書かれたものもあるようだ。
 「切明の長者」は、鶴光の落語で聞いたことがある。同音異義語の話でもあるし、もとは文字で書かれたものだろう。
 「文盲時代」の「三人泣き」も、「古典落語」の「泣き塩」の枕に使われている。
 驚いたのが「とうか藤兵衛」。赤松宗旦「利根川図志」(柳田国男校訂・岩波文庫)にほとんど同じ話が載っている。この話は、講談社版松谷みよ子「日本の伝説・2」からの転載だそうだ。民間で語られていた話を「利根川図志」に収録したのではあろうが、語り継がれていたことに驚いた。


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Last updated  2005.11.19 09:14:42
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2005.11.01
ちくま文庫。1986.4.24第1刷。1991.6.10第13刷

 ケルト人と言っても広い範囲に住んでいるらしいが、これは、アイルランドのケルト人の妖精譚集である。
 正直なところ、異民族の考えることはわからない、というような話が多い。
 キリスト教が入ってきて、本来の形が崩れたものも多いのだろう。
 妖精の分類法も日本とは違う。
 その能力や住んでいる場所ではなく、集団でいるか一人でいるかで分けるのである。
 ケルト人には意味のあることなのだろう。

 それでも、日本にもある話の類話は理解できる。
 「ノックグラフトンの伝説」(p94)は、背中にコブのある男が、妖精の歌声に調子を合わせてうまく歌い、コブをとってもらう。それを聞いた、これまたコブを持つ男が妖精の所へ出かけるが、こちらは失敗し、前の男のコブまでつけられてしまう。
 言うまでもなく「こぶとり爺さん」である。

 もう一つ。
 「糸紡ぎの競争相手」(p260)
 娘が、糸紡ぎ競争が終わるまでに妖精の名を知ることができれば、競争に勝てるが、それができなければすべてを失ってしまう、と言われる。もちろん、知ることができてめでたしめでたし。
 「大工と鬼六」である。
 もっとも、「大工と鬼六」はヨーロッパの民話の翻訳がもとになっている話なので、似ていても不思議はない。

 「ゴルラスの婦人」(p307)
 海の妖精の不思議な帽子を隠した男が、その妖精と結婚し、3年後に、娘は帽子を発見して子供に未練を残しながらも海に帰る。
 「天人女房」ならぬ「海人女房」とでもいうべきか。


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Last updated  2005.11.01 16:36:42
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2005.07.21
角川書店1973.6.15初版 1974.2.20再版
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 「貧しさの犠牲」「権力の残酷」「家をめぐる悲劇」「愛と性の残酷」に分類。
 分類といっても、内容に共通点があるものもある。
 「貧しさの犠牲」に分類されている「食いかけの梅の実」の中で簡単に語られる部分が、「権力の残酷」に分類されている「唖になった娘」として独立した話になっている。
 その「唖になった娘」は巻末の解説によると『全国的に分布する「人柱の悲劇」と「赤飯《あかまま》悲劇」の複合化した話』なのだそうだ。
 「人、人を食う」の隣家から死体の肉をわけてもらいにくる話は、何かの本で読んだ記憶がある。

 「魚洗郷の祈り」は、隠れキリシタンの話で、「魚ということばはキリスト教の象徴じゃとという」とある。実はその通りで、「クオ・バディス」にもそのことが出てくる。
 伝説に取り入れられていると言うことは、江戸初期ぐらいまでは広く知られていたのか、あるいは、最近できた話なのか。

 「米福・粟福」は日本版シンデレラ。これは東北地方の昔話だそうだ。類話として、関敬吾「日本の昔話」2(岩波文庫)があるが、それは浜松の話ということだ。

 「蛇橋」は東京の伝説。東京の伝説は珍しい。

 「錦木のおとめ」は分裂した不思議な話。
 美しい姫君が、大鷲に子供がさらわれるのを防ごうとして白鳥の毛を織り込んだ織物を織り始める、という始まりなのに、錦木を売る若者との悲恋で終わり、織物に効果があったのかどうかわからないまま。

 一つ、妙に現代風の話があった。「母の乳にかみつく」というもので、悪の限りを尽くした村の嫌われ者が、処刑される前に、母親の乳房をかみ切り、「自分がこうなったのは母親のせいだ。子供の時、ちょっとした盗みをしたら、しかるどころかほめられた。それ以来、盗みをはたらくようになった。どうしてしかってくれなかったのか」と恨み言を言うのである。
 「自分がこうなったのは人のせいだ」というのは新しい考え方なのではないだろうか。

 「私の民話論」はなんと沼正三の「アフリカ残酷物語――人種差別へのマゾヒストの視点」というものを天野哲夫という人が編集したもの。
 有色人種は、本能として白人への崇敬の念を持っている、という内容。
 これはこれで興味深いが、この本の内容とのかかわり、ということになると疑問。
 そりゃあ、残酷物語の中にはマゾヒストの琴線に触れるものがあるのだろうが、私には理解できない。


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Last updated  2005.07.21 21:58:09
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2005.07.14
 角川書店。1973年11月25日(古本で探す

 「太平の世相」「人情昔話」「にわか成金」「太平の悲劇」に分類。
 天下太平だからといって、人々がみな悩みも苦しみもなかったというわけではないのが、最後の「太平の悲劇」。世の中は太平でも一人一人を見ていけば悲劇はある。
 特に「鉱山物語」は、登場人物も多く話の筋も複雑でありながら、創作らしい、つじつまの合うところもなく、実話だったのではないかと思わせる悲劇である。
 鉱山という、近代社会の産業のいしずえとなるものをめぐる話で、新しい社会の出現によって、それまでの、職人芸に頼る産業は消えていく、ということを暗示している。
 今までは伝説と民話ばかりだったが、これには珍しく「伊予のたぬき」という世間話が収められている。
 「のどかな仙人」の「仙人の碁打ち」は「述異記」の爛柯《らんか》の類話だが、童子ではなく、老人の姿の仙人が碁を打つ。日本では童子が碁を打つよりは老人の方が自然に感じられる、ということか。

 「私の民話論」は野坂昭如の「人間の抱いている業」。
 「中途半端な童心主義は、民話の歴史を寸断するだけでなく、受け手の子供を混乱させてしまう」と、日本での昔話改変に異を唱える。
 初めて知ったが、「三匹のこぶた」の原話では、兄ブタ二匹は狼に食われてしまい、最後に、末のブタが狼を殺して食べてしまうのだそうだ。


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Last updated  2005.07.15 00:27:16
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2005.06.27
 角川書店。1973.2.10(古本で探す

 「東牟の人生」「乱世の悪党」「いくさ物語」「乱世の愛と死」に分類。
 分類の基準はよくわからない。
 冒頭の「うさぎとくま」はカチカチ山の類話で、うさぎがくまを沈めてしまって終わる。そういうところが「乱世」なのだろうか。
 そもそも「乱世」というのは、いわゆる戦国時代のことらしいのだが、時代がはっきりしている話の方が少ない。
 巻末の海音寺潮五郎「わたしの民話論 つくられた乱世」は、「乱世」の概念があとから作られたものだと、例を挙げて述べ、

「ここに集められている物語が、果たして乱世にあった話なのか疑わしく、わたくしに思われるからです。集められた話のほとんど全部が、実際の乱世を知らずに作られたもののように、わたしには見えます。」
「何にも智識も経験もない人が、乱世とはこんなものじゃろうぐらいの気持ちでつくった話のように、わたしには見えます。」

と言い切っている。
 もちろん、民話が乱世に作られたものである必要はないし、現実の乱世とは違っていても問題にする必要はない。
 民話と時代考証は重んじるところが違う。民話はいくら現実から離れていてもいいのだ。

 瀬川拓男の解説の中の「わが民話の主人公たちは実によく逃げたも逃げた、日本国じゅう逃げ回っている。」というのは面白かった。

 印象にのこった点。
 「妹は鬼」。
 日本の民話には珍しく虎が出てくる。沖縄の昔話なので、大陸伝来のものだろうか。

 「鬼の子 小綱」
 鬼にさらわれた娘を探しに行ったじいが、娘と再会し、その娘の子の小綱のくふうで鬼のもとから逃げる。
 その途中、川を渡り、鬼立ちが川の水を飲み干そうとした時、娘が、すそをまくってへらで尻をたたいてみせると、鬼立ちは笑って水をはき出してしまう。
 この構造は、「古事記」のイザナギ・イザナミの黄泉の国での話と同じだ。
 特に、尻を向ける、というのは、剣を後ろ手に振って逃げるのと共通する。
 物語そのものは哀れで、鬼の子の小綱は人間を見ると食いたくなってしまい、自ら命を絶つ。

 「生きるか死ぬか」
 これは理解不能の話である。
 駆け落ちした男女が、山中で、一夜の宿を借りる。その家の老婆に女が殺され、男は逃げだし、白壁塗りの家に転がり込んで助けられ、その家も人間の油をしぼりとる家だったのでそこの逃げだし、最後にはたまたま墓場で生き返った娘と出会い、その婿になって長者になる。
 男は民蔵、女はお千代と名前までありながら、女はあっと言う間に死んでしまう。
 不条理な物語で、「神州纐纈城」のようだ。

 「矢口長者」
 平穏に隠れ住んでいる落ち武者の部落を、村人たちが襲撃する話。
 後味の悪い話で、強い印象が残る。白戸三平の世界だ。

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Last updated  2005.06.28 00:46:00
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