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hongming漫筆

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民俗学・社会風俗・地誌・歴史・博物学

2018.03.17
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テーマ:読書の記録(152)
 邪馬台国論争を整理し、それぞれの主張の根拠をまとめている。
 これを呼んでも大和説が有利に思えるが、九州説の「邪馬台国は国際性が豊かでなくてはならない」というのも説得力がある。
 この本で最も印象に残ったのは、冒頭の森浩一「これから邪馬台国を学ぶ人へ」。
 日本の考古学はどのように発展してきたか、いかにあるべきかということがよくわかる。






Last updated  2018.03.18 16:46:47
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2011.11.29
 「宮本常一を歩く」を再読したのをきっかけに、読み直してみようと思った。
 ところが、我が家のどこかにあるはずなのだが、見つからず、図書館から借りてきて読んだ。

 古老の話は、明治になって世相がずいぶん変わったことを思わせる。

 「書く」ということについて。

いままで農村について書かれたものは、上層部の現象や下層の中の特異例に関するものが多かった。そして、読む方の側ははじめから矛盾や非痛感がでていないと承知しなかったものである。(p209)

 書くときに、読者の要求に無意識のうちに迎合してしまっていることはないだろうか、という内省もあるのだろう。

 「世間師(2)」に、狐を捕まえようと、鼠を油揚げにする話がある。
 「利根川図志」にも、巌谷小波の小説「黄金丸」にも、全国共通であったらしい。

 福島県の民間研究者を取り上げた「文字をもつ伝承者(二)」に、その人の写真が載っている。
 文章には「家の軒には串柿《くしがき》が見事であった。」(p2985)とあるが、移っているのは「吊し柿」だ。
 西の方では干し柿は皆「串柿」なのだろうか。

 さて、「土佐源氏」だが、網野善彦の解説によると、創作と疑った人に対して、著者が憤ったという逸話があるという。
 本人が創作ではないと主張している以上、「文学」なのだから許されるという弁護は通用しないだろう。

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Last updated  2011.11.29 09:38:09
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2011.10.28

 再読。前回の感想はここ
 前回は宮本常一に対する興味で読んだが、今回は、著者が、「白土三平伝」を書いた人だ、ということで、どのように対象に接する人なのか知りたいと思って読み直した。

 宮本常一の訪れた土地を訪れ、自分の足で歩き、土地の人の話を聞く。できれば、宮本常一を記憶している人に会い、その逸話を聞き出そうとする。
 自分の中の宮本常一像の再確認である。
 読者に、宮本常一の業績やその人となりを紹介しようというのではなく、自分にとってはどうか、ということが中心になっている。宮本常一を語っているようでいて、自分自身について語っているのだが、そういう書き方ではなく、はっきり、自分自身についても語らなくてはならなくなり、下巻の終わりの方で書いている。

 自分の中の宮本常一を探し、宮本常一の中に自分を見つけようとしている。
 それを象徴するのが、「土佐源氏」にまつわるところだ。
 「土佐源氏」は文学だと主張しているのだが、書かれた側にとっては、そんな主張には何の意味もない。
 そして、最後に、モデルと言われている人の孫に向かってこう言う。
「宮本常一を許してもらえませんか?」(下巻。p80)

 自分が宮本常一に同化してしまっているのだ。当然相手は困った顔で黙ってしまう。
 なぜこの人にそんなことを言われるのか理解できないだろう。

 今回新たに印象に残ったこと。
 「福島県下郷町大内でみつかった江戸時代の宿場跡の家並み」(上巻。P234)は会津の大内宿。今ではすっかり観光地だ。
 猿回しの「村崎修二」(下巻。p187)は、「反省」で知られる村崎太郎の伯父。

 さて、「宮本常一」の「常一」を何と読むか。
 わたしはこの人を知って以来長いこと「じょういち」だと思っていたが、「つねいち」なのだ。こういうことはもっとはっきり書いておいて欲しかった。もっとも、そういうことを知らない人はこの本は読まないのかもしれない。

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Last updated  2011.10.28 09:48:50
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2011.09.28
 新編木馬と石牛

 時々地震が起こる。
 そして、時々ものが床に落ちる。
 この本は、それで見つけた。
 自分で古本屋で買った本であるらしいのだが、全く覚えていない。
 著者名も初めて見た。

 ところが読んでびっくり。なぜこの人をしらなかったのだろう。
 人類学者であるらしいが、南方熊楠のように古今の古典に通じ、民話にも通し、この本では主に民話に属するものを中心に語っている。
 恐ろしい人がいたものだ。

 それにしてもどうしてこの本を買ったのだろう。
 「大林太良編」というのに惹かれたのかもしれない。

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Last updated  2011.09.29 19:50:10
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2011.06.19
 再読なのだが、例によって何も覚えていない。
 「異界」の住民にされてしまった歴史上の人物を取り上げて紹介する本、ということだと思って読んでいると「ねずみ男」「アキラとナウシカ」という項目もあったりして驚く。
 「異界」のキャラクターを語ることは、実は、「異界」を作り上げてきた我々を語ることなのだ。
 巻末の座談の中で、鎌田東二は、
子どもの頃からあちこちに鬼がみえ、家族は誰も相手にしてくれない

と語っている。
 異界はこの世界と重なって存在しているのだ。

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Last updated  2011.06.19 18:40:23
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2007.09.20
 平凡社。1976.3.26初版。1976.5.20初版第2刷。

 日本民俗学の生みの親と育ての親の往復書簡集。
 明治33年3月から、大正15年の絶信までにやりとりされた膨大な書簡の一部。
 頻繁に、やりとりしており、こんにちの電子メール感覚である。
 特に南方のは長い。また、手紙を出して、それに対する返事がないうちにまた手紙を出したりするので、やりとりに食い違いが生じたりしている。
 最初のうちは、同じ道に志す者として近しい感情があり、徐々に離反していったのかと思っていたが、南方は終始一貫して、学問上のことに関しては非常に厳しい。
 たとえば、この本の3分の一ぐらいのところの、明治44年9月13日付けの手紙)p85)で、すでに、
小生、貴下の土俗学研究方法の大体について言辞のみを大本として、故事、古俗を談ずるの不可を述ぶるはずなり。

と、かなり厳しいことを書いている。

 それに対して、柳田は、「だいたいこんな感じ」という漠然としたイメージで民俗学をとらえていたように見えて、熊楠の厳しい意見にとまどううちに、「こんなのとはつきあっていられない」と思うようになったのではないだろうか。
 わたし自身は、いつも、「こんなのでいいんじゃない」という曖昧な考えしか持たないので、柳田の気持ちがいくらかわかる。

 なお、柳田にも不注意なところがあり、明治44年10月14日付の手紙(P150)で、南方に対して、
「無鳥郷里にのみ住まれ候」

と書いたのは、鶏群の一鶴とでもいうような、南方がだけが飛び抜けた才の持ち主だとほめているつもりなのだが、受け取った南方は「鳥なき里の蝙蝠」と言われたように感じている。
 柳田も後で気づいて、同年10月27日付けの手紙(p193)で、
「貴下を蝙蝠に例えしがごとき嫌いあり」

と謝っている。

 二人の交流がたたれることになるのは、自然の流れではあったのだろうが、南方が、いつまでも柳田に悪感情を持ち続けたのは残念だ。

 (現在絶版。1994年に平凡社ライブラリーとして、「柳田国男・南方熊楠往復書簡集(上)」「柳田国男・南方熊楠往復書簡集(下)」が出たがこれも絶版)


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Last updated  2007.09.20 08:22:12
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2007.08.05
 南方熊楠というのは、一体何をした人か、というのは説明できない。
 もちろん、どんな人だって、その人が何をした人か、ということを簡単に説明できることはほとんどいないだろう。
 粘菌の生態を観察するばかりでなく、東西の古典を読み、仏典を読み、文章を書き図をえがき、自分の好きなことだけに情熱を注いで生きた人である。
 どんな人生を送ったのか知りたい、という人は、この本を読めばいい。
 以下、「おやっ」と気になったところを羅列する。

 「百姓の子でありながら武士の倅《せがれ》を誤って死なせ、代わりに養子となって討入りで奮闘した神崎与五郎《かんざきよごろう》の話」(p7)
 わたしは忠臣蔵の話は好きで映画やドラマをいろいろ見ているが、この話は初耳。
 講談ではこうなっていたのだろうか。

 熊楠と漱石はほとんど入れ替わるようにしてロンドンにいた。
 帰国途中の熊楠の乗った船は、漱石の乗った船と行き違いになったのではないかという。
 熊楠は、「支那人」よばわりされることを嫌ったが、漱石は違う。
 「支那人は日本人よりもはるかに名誉ある国民なり、(中略)心ある人は日本人よ呼ばるるよりも支那人と言わるるを名誉とすべきなり」(p135)
と書いているそうだ。

 このように、同じ時代の人であっても、頭の中では別々に存在しているので、なかなか結びつけられない。
 熊楠の手紙に登場する「兵隊帰りの植芝なる豪傑」(p225)は合気道の植芝盛平であるという。
 この後、北海道に渡り、武田惣角に出会うのだ。

 ほかに、河東碧梧桐や金田一京助、折口信夫、三田村鳶魚らとも会っている。
 折口など、若山時代に合っていても良さそうなものだが、東京で会っている。
 三田村鳶魚は、どういうつながりで熊楠に興味を持ったのだろうか。

 以下に目次を引いておく。
はじめに
関係地図
南方家系図
第一章 和歌山時代
第二章 東京時代
第三章 アメリカ時代
第四章 イギリス時代
第五章 熊野の森に入る
第六章 神社合祀に反対
第七章 フォクロアの世界へ
第八章 植物研究所前後
第九章 大正から昭和へ
参考文献
おわりに
南方熊楠略年譜
人物・事項索引


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Last updated  2007.08.05 20:47:30
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2006.11.10
 11月8日の放送された、NHK「その時 歴史が動いた」を興味深く見た。
 タイトルは、『日本を発見した日本人 ~柳田国男・「遠野物語」誕生~』。
 宮崎県に、今でも残る、伝統的な焼き畑やしし狩りを、立松和平が訪ねていた。
 内容の一部は、公式サイトで紹介されている。
 山の斜面を切り開いて焼き払うと、毎年違う作物を4年作り、それからは放置して山に戻し、ほかの斜面を切り開く。
 こうして、地力を奪い尽くすことなく耕作を続けることができるのだという。
 しし(イノシシ)狩りも、「のさらん福は願い申さん」と、必要以上に殺すことを戒めている。
 伝統的、と言っても、鉄砲が庶民の手にはいるようになってからの伝統のはず。
 鉄砲という、それまでにはなかった大量捕獲を可能にした道具を手に入れてから生まれた考え方ではないだろうか。

 そして、「遠野物語」。
 この本によって日本民俗学のふるさとになった。
 遠野の存在によって民俗学に興味を持つ人が増えれば結構なことだが、遠野にばかり目を向けていては発展がない。
 自分で自分の遠野をいる研究者も多いことだろう。
 また、「遠野物語」は、遠野の民話をそのまま収録したわけではないはず。
 柳田国男の手によって改変がなされているという指摘は何度も目にしたことがある。
 インターネットでも、「遠野物語 柳田 改変」で検索すれば、実例を読むことができる。

 何で読んだか忘れてしまったが、ある研究者の話にこんなのがあった。
 遠野のタクシー運転手に聞いた話。
 遠来の客に、サービスとして、運転中、自分の知っている民話を話して聞かせていたという。しかし、学者が客の場合、その内容が「遠野物語」のものと異なっていると、「その話はそうではない、こうだ」と訂正を求められることがあるの、というもの。

 現地の話よりも、書物の中の話が正しいというのでは本末転倒だ。
 遠野でも、同じ事物について語る話が何種類もあるのかもしれないのに、「遠野物語」だけを絶対化してしまっている。

 もちろん、絶対化は困るが、柳田国男の業績は偉大である。
 柳田国男が民俗学の基礎を築いた時代は、明治政府によって、伝統を破壊され、生活が欧米化され、強引に、全国の画一化が推し進められていた。
 だからこそ、日本の姿を記録して置かなくてはならない、掘り起こさなくてはならないと考えたのだ。
 世が捨てて顧みないものに価値を見いだせる力の持ち主だったのだ。

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Last updated  2006.11.10 11:01:58
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2006.06.17
神隠しと日本人 角川ソフィア文庫。1998.7.25。

 第一章「事件としての神隠し」
 第二章「神隠しにみる約束事」
 第三章「さまざまな隠し神伝説」
 第四章「神隠しとしての異界訪問」
 第五章「神隠しとは何か」

 書き方に特徴がある。
 「幼い頃の私は、神隠しにあって日常世界の向こう側に行けた人びとをとてもうらやましく思った。」(p17)というように、「私」という主語で語られていくのかと思うと、そうではない。
 「そこで私たちが疑問に思うのは」(p28)というように、「私たち」が考察を進めていく。

 神隠しにあうのは人間である。子どもとは限らない。大人も神隠しにあう。
 そういった例を紹介するだけでなく、神隠しを行う側、「隠し神」にも目を向けているところで、「なるほど、研究者というのは違うものだ」と感心した。
 「鬼は天狗と「神隠しの犯人とされるべきはわれわれなのだ」と互いに主張しつつ勢力争いを繰り返しながら、あるある程度の役割分担をになうにいたったといえよう。」(p151)と言う。
 しかし、鬼や天狗がいるから神隠しが生まれたのではない。神隠しは、人間が、そういう怪異を必要としたので生まれたのである。それは第五章で述べられている。
 第四章で、浦島太郎の話をあげ、「村びとにとって、太郎の失踪《しっそう》は神隠し事件であったに違いない」(p181)という。
 神隠しとして解釈するのは、隠された者ではなく、残された者なのだ。
 また、場合によっては、神隠しだったことにしておいた方がいい場合もあるわけだ。
 ものを考えるとはこういうことか、という点でも勉強になった。


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Last updated  2006.06.17 11:04:23
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2006.04.19
 八坂書房。1987.7.31

 1639年の鎖国以前の、日本人と海の関わりを概観したもの。
 「海に背を向けた日本人」「日本へ来る道」「常世へのあこがれ」「遣唐使」「商船の発達」「倭寇と遣明貿易船」「南方進出」という章立て。
 このうち「商船の発達」の「高麗と日本」までを宮本常一、それ以後を田村善次郎が書いている。
 しかし、文体の違いなどは目立たず、最後にどちらかが全体に目を通して統一をはかったのかもしれない。
 歴史は歴史で興味深いが、「海に背を向けた日本人」の、最近まで残っていた習俗が印象に残った。
 漁業を生業としている地域で、農村などで養いきれない子どもをもらってきて家族同様に育て、労働力とするということが、各地で行われていたそうだ。(p14)
 珍しいことではなかったらしい。

 「海に背を向けた日本人」とはいっても、現実には、沿岸を航行して物資を運ぶことは行われていたのだが、造船や遠洋航海の技術の発達がなかったため、かえって多くの遭難者を出してしまったようだ。

 宣教師達の見た日本人は美しい。
「名誉を重んずることは非常なもので、侮りや怒りをふくんだ言葉にはたえることができない。だからもっとも下級な職人や農夫と話をする時でも我々は礼儀をつくさなければならない。そうしないと彼等は無礼を怒ってたとえそれが良い収入を得られる仕事であってもやめてしまうか、不利な別の職についてしまう。」(p199)
 日本人が清潔であること、礼節を重んじることは、幕末日本を訪れた外国人も指摘していることだ。
 明治維新以来だめになる一方らしい。


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Last updated  2006.04.19 10:11:49
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