そぞろある記

2004/03/29(月)17:34

変わってしまった東京湾

veruchiさんが大森海岸で泳いだことがあるという。 私も本牧の海水浴場で泳いだことがある。 東京湾の砂浜はいつ頃から消えてしまったのだろうか。 先日本牧の従兄弟と話していて、本牧の海が埋め立てられてしまったのは昭和30年代後半から40年代初めだろうと記憶をたどった。 昭和33年生まれの家内が父親に連れられて、熊手とバケツを持って本牧に行き、埋め立てられた海を見て愕然としたのが小学校の低学年だという。 東京湾内でも有数の海水浴場だった横須賀の馬堀の海岸が埋め立てられたのも40年代初めだった。 以前の日記「30年ぶりに鳥を見に」でも書いたが、昭和47年頃は東西線行徳駅の海側は一面の蓮の田んぼだった。でも沖合では埋め立て工事が急ピッチで進んでいる様子だった。 神田の総合卸売市場を移転するために大井沖の埋め立てが行われていたのもこの頃だ。 浪人中に車の免許を取った私は、埋め立て中の大井に珍しい鳥が来るというので、慣れない運転で横羽線を飛ばし、立ち入り禁止の看板をどけてよく埋め立て地に入った。 大学在学中に立て続けに大井の埋め立て地に珍しい鳥が来たので、埋め立て地の一画に出来た潮だまりにもよく行った。この鳥たちのお陰かはわからないが、この池のようになった潮だまりの一画を保存しようとする運動が起きた。そうして出来たのが今の大井野鳥公園である。 MM21の為に桜木町駅の隣の三菱重工を移転させるべく、杉田沖を埋め立てていたのもこの頃だ。 杉田から金沢のシーパラダイスまでの埋め立て地にもよくもぐり込んだ。 干潟に来るシギやチドリを見るために、悲しいかな埋め立て工事中の地は絶好の観察ポイントだったのだ。 千葉の柏や我孫子に親戚のいる私は開通直後の東京湾海底トンネルや、部分開通の湾岸道路もよく利用した。 何故か埋め立て地の変容を知りたくて、埋め立て地に出来た新しい道路を利用することが多かった。 こうして振り返ってみると東京湾の埋め立てと、国道357号線、湾岸道路の建設とが非常によく結びついている。 過去を振り返れば世界的にも貴重だった渡り鳥の中継地、葛西三枚洲をもっと前に失っていた。 今は地名でしか残っていない天王洲、鮫洲なども貴重な干潟だったのだろう。 遠浅の海岸、干潟の自然界の中での役割が今見直されている。 高度成長期には世界に追いつけ追い越せだけで、自然の大切な役割など検討する余裕もなかったのだろう。 でもせめて多摩川と江戸川の間に自然の砂浜を残そうと発想する為政者が一人でも居てくれたら、東京湾はずいぶん違ったかたちになっていただろうと思うと、やるせない気持ちで胸が押しつぶされそうになる。

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