いろいろ書いてみた・・・そんな、一日。
今日はなんかハイテンションなので色々綴ってみたいと思います。■『戯言』シリーズ、完結!『戯言』シリーズとは、小説家、西尾維新先生のデビュー作にして代表作である小説のシリーズことです。自分はとある同人誌からこの存在を知ったのですが、読んでみてあっという間に西尾先生の虜になりました。自分よりも年下の人がココまでの作品を世に送り出すなんて、ただただ感心するばかりです。人間、やはり年齢ではなく何処まで密度のある生き方をしてきたかなんだなぁ、と改めて思いました。ちなみに自分は才能という言葉を理由にするのは嫌いです。まだ読んでない人がいると思うので作品の詳しい内容は省きますが、登場人物が本当に『生きている』感じがしてとても好きです。以下、ちょこっとだけ内容に触れるので読みたくない人はスルーしてください。読んでも言いという人は↓の空白を選択反転してくださいませ。話の大まかな流れとしては、初めミステリ終わりは異人変人の集まるバトルものなんですが、その中に流れる本質は初志貫徹、といった感じです。いきなり変わるのではなく、徐々に徐々に変わっていく様から西尾先生が初めからこういう流れを意識していたのではないかと自分は思います。シリーズ完結話を読んだ後の感想は「期待はしていたけど予想はしていなかった」です。まさかこのシリーズがこんな風に終わってくれるなんて!・・・ってな感じです。とにかく皆様に読んでもらいたい作品です。■『デッサン』という言葉について専門学校で週一のデッサンの授業を受けていた頃、講師の先生に「デッサンとは見たものの形を忠実に描くことだ」と教わり、「見たものが歪んで見えたとしても、それはそのように存在するのだから歪んだままで描きなさい」と言われました。その言葉を聞いて自分は思いました。ならばよく漫画やイラストを描いている人の「デッサンがくるった」という言葉は不適切なんじゃないか、と。見たままをそのままに写し取るものが「デッサン」ならばこの世にありえないバランスで描かれている絵を対象にして「デッサンがくるった」というのはナンセンスなんじゃないかと。だって元々何処にもないものなんだもの。『歪んで見える=デッサンがくるってる』という式は当てはまらないんだと。この思いに対する答え?そんなもの未だに出ていません。■オーラ年齢論最近よく思うことは「自分はあの時が一番幸せだったんだなぁ」とか「あの時が実は一番充実していた時だったんだなぁ」とかいう後悔にも近いことです。両方とも自分から手放してしまったものなんですが。『一番の幸せ』の方は、多分もう手に入れられないんじゃないかと思ってますが、その時のことを思い出して幸せの残滓を感じることは出来るので、それでやっていける自信はあります。でも『一番の充実』はその頃を思い出すとだた後悔のみが押し寄せます。「人間30歳まではなにやってても取り返しはつく」と、自分が最も尊敬している友人は言ってくれましたが(つうか、その人30越えてるんですけどネ)30前の自分に色んなものを取り返すエネルギーはありません。で、行き着いた理論が『オーラ年齢論』。肉体年齢、精神年齢とありますが、この手の話に挙げられる年齢というのはその人が持っているオーラというか、やる気というか、物事に突っ込んでいけるエネルギーの量なのではないかと。オーラ年齢のピークはおそらく20代前半、ただこのオーラ年齢は年を重ねると自然と1歳ずつ老いていくのではなく、歳のとり方に個人差がかなりあるのではないかと思います。なので人によっては肉体年齢50歳でもオーラ年齢が20歳という人がいて夢に向かって猪突猛進できたり、肉体年齢20歳にしてオーラ年齢50歳であまりのギャップの差に引き篭もっちゃったりしちゃうんじゃないかと。自分オーラ年齢45歳ぐらいかなぁ・・・。この『オーラ年齢』、若返りも可能なんじゃないかとは思います。それには色々特定の条件が揃わなくてはいけなくて、その一番重要な条件が『本人のやる気』だと思います。しかして、『オーラ年齢』が高い人ほど物事に対する『やる気』が出にくいわけで・・・。しかし、あれだな・・・今日の日記後で絶対消したくなるんだろうな・・・(´・ω・`)