ヘムルたちと山羊座の話・4(ムーミン谷の星うらないシリーズ)
2015年最初のごきげんよう、当番です。今年も三角テントをよろしくお願いいたします。さて、本日はムーミン谷の星うらないをお届けします。2014年中にシリーズ完結を目指しておりましたが予定が遅れております。大変申し訳ないです。もうしばらく、おつきあいくださいませ。今回は山羊座・ヘムル族編の第4回。ヘムル族をみっつのグループに大別したうちの最後のグループ「仕切り屋のヘムルたち」を取り上げます。仕切り屋ヘムルのグループには以下の5名(6名?)が属します。★ムーミンパパを拾った孤児院長のヘムルとヘムレンおばさん(『ムーミンパパの思い出』)★公園番のヘムル夫妻(『ムーミン谷の夏まつり』)★おまわりさんのヘムル(『ムーミン谷の夏まつり』)★ヨット持ちのヘムル(『ムーミン谷の十一月』)このうち、ヨット持ちのヘムルはヘムル族全体から見てもとても重要なキャラクターなので、記事ひとつぶんを宛てる予定です。彼のことは、次回の記事で扱いましょう。今回扱うのは孤児院長のヘムル、公園番のヘムル夫妻、おまわりさんのヘムルです。まずはシリーズ内で最初に登場した仕切り屋ヘムルである孤児院長と、それと同一ヘムルなのかそうでないのかいまひとつ判然としないヘムレンおばさんからご紹介します。『ムーミンパパの思い出』に登場する孤児院長のヘムル。ムーミンパパは、ある八月の夕方このヘムルが経営する「ムーミン捨て子ホーム」の入り口の階段に、紙の買物袋に入れて捨てられていたのです。さて、そのころ捨て子ホーム(※当番註:これは旧版での表記。新装版では「みなしごホーム」)を経営していたヘムレンさんは、星うらないがすきで、これをありふれたことにまでつかっていましたから、わたしがこの世に生まれてきたときには、いったいどんな星が支配していたかを、しらべました。(中略)星の位置というのは、たいせつなものですね。わたしがもし、もう二、三時間はやく生まれていたとすれば、よたもののばくち打ちになっていたんですって。それから、わたしより二十分あとに生まれたものは、みんな、ヘムル自由楽団に入りたい気持ちにかきたてられたんですってさ。(『ムーミンパパの思い出』より 小野寺百合子・訳)なんと、このヘムレンさんは占星術を嗜んでいたようです。しかも、ムーミンパパの記述を信用するなら、単純な太陽星座占いではない、出生時刻まで考慮する本式の占星術です。しかし、紙袋に入れて置き去りにされていたパパの出生時刻と出生地を、ヘムレンおばさんはどのように特定したのでしょうね?それとも、孤児院を出生地に、拾った時刻を仮の出生時刻にしたのでしょうか。ところで、彼女についてはパパ自身の手による「序章」(『ムーミンパパの思い出』はパパが綴る「思い出の記」を子供たちに読み聞かせる体裁になっています)に、ちょっとややこしいことが書かれておりまして―まだ生きている人たちのおもわくを考えて、わたしは、ところどころ、わざと名まえをとりかえたところがあります。たとえば、フィリフヨンカをヘムレンにしたり、また、ガフサをやまあらしにかえたことなどです。けれどもかしこい読者のみなさんには、ほんとうはどうだったのか、ちゃんとおわかりになるはずです。(『ムーミンパパの思い出』より「序章」 小野寺百合子・訳)ヘムレンおばさんは、実はフィリフヨンカである―?『ムーミン童話の百科事典』という、日本有数のムーミンファンのグループによるとても充実したムーミン世界の事典が講談社から出版されているのですが、そこでもこの「序章」の記述を根拠に「この人物はほんとうはフィリフヨンカなのだが、まだ生きている人なのでめいわくがかからないように、パパがヘムレンということにしている」と説明されています。はたして彼女は、フィリフヨンカなのか?当番は個人的に、彼女はやはりヘムルである、と思っています。理由はみっつ。第一に、性格があまりフィリフヨンカらしくないから。確かに彼女はフィリフヨンカと同じく綺麗好きで細かいことにこだわるのですが、ほかのフィリフヨンカ族と違い、他人の目を気にしてクヨクヨ自分のことを思い悩むという面がありません。むしろヘムル的な自信に溢れてひとを仕切りたがるところがあります。第二に、ムーミンパパの手になる「序章」自体がミスリードなのではないか、と当番が疑っているからです。本当に「まだ生きている人たちのおもわくを考えて」名を伏せたのであれば、なぜビフォーとアフターを両方書いてしまうのか?「フィリフヨンカをヘムレンにしたり、ガフサをやまあらしにかえたり」では、伏せた意味がないではありませんか。これは当番個人の意見ではありますが、この箇所は「仮名にしたよ」という記述自体がフェイクなのではないでしょうか。第三に「スーパーヘムル」あるいは「スーパーヘムレン」という言葉の存在。ムーミンパパは、出身孤児院の朝のマーチであったという「この世のスーパー=ヘムレン」という歌を口ずさみ、孤児院長のヘムルは「このスーパーヘムルな世の中」と発言します。物語の後の方で登場する「ヘムレンおばさん」は「これはスーパー=ヘムレンである私の義務なのです」と宣言します。スウェーデン語(トーベ・ヤンソンはスウェーデン語を話すフィンランド人です。ムーミンの原作はスウェーデン語で書かれています)でhemulは「正当である」を意味する形容詞です。「スーパーヘムル」は英訳版からの流用で、原書ではoverhemul(oはウムラウト付)です。直訳すると「とても正当な」というところでしょうか。また、ohemulという派生語も存在し、こちらは「正当な」の反対語、「不当な」です。ヘムレンおばさんが実はフィリフヨンカなら、これら「ヘムルは『まっとうな(ヘムルな)』」一族である、というという言葉遊びが全て無意味になってしまいます。「スーパーフィリフヨンカ」「オフィリフヨンカ」という言葉はスウェーデン語にはありませんからね。そんな訳で、当シリーズではヘムレンおばさんをあくまでヘムル族として扱います。脱線が長くて申し訳ないです。幼いムーミンパパを拾って養育したヘムレンおばさんはムーミンパパによれば「みんなをだきあげてかわいがってやるよりも、あらってやるほうによけい手をかけ」るタイプでした。つまり、かなりの実際家であった、ということでしょう。彼女はパパを含めて13人のムーミンを養育していたので、実際「あらってやるだけで精一杯」であったのかもしれません。少なくとも、13人のみなしごを順に洗い、着替えさせ、食べさせ、寝かせ、その他基本的なしつけをひとりでしていたのでしょうから、ほとんど手一杯です。ムーミンパパ以外のみなしごムーミンは大変おとなしい性質で、このヘムレンおばさんの世話と躾に唯々諾々と従っていました。ところが13番目のこども、ムーミンパパはおばさんが経営するみなしごホームのありようから始まって、目に映る事柄にいちいち疑問を抱き、他の12人分を合わせたよりも沢山の「なぜ?どうして?」を彼女に浴びせかけたのでした。たとえば、わたしなら、ものごとについてヘムレンさんに、「なぜこうなっているのですか。なぜこの反対ではいけないのですか」とたずねることが、しょっちゅうでした。するとヘムレンさんは、いいました。「ちゃんとうまくいってるじゃないか。これではいけないとでもいうのかい」「なぜぼくはぼくで、他の誰でもないの?」「なぜおばさんはヘムルで、ムーミンではないの?」「ぼくの夢の中のムーミンの方が現実で、ヘムレンおばさんが見ているムーミンはおばさんの夢の中にいるムーミンじゃないって、どうして言えるの?」そんな質問を繰返し投げかけられて、ヘムレンおばさんはとうとう、こう言います。「わたしは、おまえとは、どうも性があわないらしいね。頭がいたくなるよ。このスーパーヘムルの世界で、おまえは、なにになるつもりなの」性が合わない。ヘムレンおばさんはいみじくも、ムーミンパパと自身の関係をそう評します。ここが彼女のちょっと面白いところです。彼女は自分の目に見える世界の現実・現状を重んじます。更に言えば自分の「現実を見る目」は確かだと思っています。だから、小さなムーミンパパが彼の想像や願望に基づいて「おばさんの目に映る現実だけがほんとうの現実なんだろうか?」と問いかけても、頑として自説を曲げません。しかし一方で、そういう質問をするムーミンパパに対して「おまえは何て面倒くさいこどもだろう」「おまえは何故、他のムーミンっ子のようではないのだろう」とは彼女は言わないんですね。「(性が合わなくて)あたまがいたくなるよ」とは言うのですが、ムーミンパパが「そういう性質の子である」ということそのものは、このひとは否定していないのです。ヘムレンおばさんはムーミンパパが望むような答えを返してはくれません。彼女は自身の、おとなであり、ヘムルであり、孤児院経営者であるような視点に基づいて、質問に答えます。それは幼いムーミンパパの目には「ぼくの質問の意図を理解してくれない。満足のいく答えをもらえない」と映ります。しかし、ヘムレンおばさんは子供の気持ちを汲んだ答えを返してくれることこそないものの、質問には逐一(彼女流に)答えてはいるのです。無視する、ということはしていないのですね。こどもに対して譲ったりはしない。しかし無視もしない。違う視点の存在、違う見方をする者の存在のことは、彼女も現実として認めます。ただし、自分の視点に照らして相容れないものは相容れない、性が合わないものは合わない、と言います。これはこれで、ドライではあるけれど率直な態度だと当番は思います。そしてまたそこがいかにも、山羊座的であるとも思います。孤児院長のヘムレンおばさんは問いかけます。「このスーパーヘムルの世界で、おまえはなにになるつもりなの」。ちいさなムーミンのこどもの願望や想像とはあまり関係なく、ちいさなムーミンっ子が生まれてくる前から、この世界は存在している。空想より前に、まず現状を現状として認めることが先だよ。からだはあらったのかい?この世界は、願うことが全部そのまま実現する世界ではないということや、誰にどんな質問をしても必ず望む形の答えが返ってくるとは限らないということを、おまえはちゃんとわかっているかい?こども相手に、意地悪に見えるかもしれません。ネガティブに感じられるかもしれません。しかし、山羊座とその支配星である土星の役目は「rule(線をひく・仕切る)」です。明確な一線を示して、譲らないこと。一個人の願望や、一時的なものかもしれない空想に迎合しないこと。ヘムレンおばさんは山羊座キャラクターとして、孤児院の管理者として、それをしているのです。おばさんは自分の管理下にあるこどもたちに、ほんの幼いうちから夢ではなく現実を―彼女の思う現実を、ですが―示そうとします。ムーミンパパに対しても同じです。おまえがどんなに望んでも、私が返してやれる答えはここまでだよ、と一線をひきます。ヘムレンおばさんと、彼女の経営する孤児院は、ムーミンパパの人生における最初の壁でした。それはパパが何をどう問いかけても小揺るぎもしませんでした。それでムーミンパパは、どうしたか?ヘムレンおばさんが評したとおり、自分とおばさんは性が合わないこと、孤児院生活とパパ自身の望む生活は相容れないのだいうことがわかって、その壁を乗り越えて脱走したのでした。ヘムルたちと山羊座の話・5に続きます。