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「きらりの旅日記」

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全4847件 (4847件中 1-10件目)

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2021.03.08
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カテゴリ:美術館・博物館
​​​​​​​​ゴーギャンは、​​​1888年2月ポン=タヴェンに赴き制作に専念「クロワゾニスム」を知る。「総合主義」を確立。10月には、ゴッホに招かれ南仏アルルへ向かいます歩く人ダッシュ

緑ハート​​第二次ブルターニュ時代​​緑ハート


​​Perros corriendo en prado,1888
​​

​Dogs Running in a Meadow​

【第二次ブルターニュ時代】

マドリッド「ティッセン=ボルネミッサ美術館」所蔵。


ポール・ゴーギャン(ゴーガン )
​Paul Gauguin​

1848年6月7日〜1903年5月8日(54歳没)


1888年2月(40歳)ゴーギャンは、​


再びポン=タヴェンに赴いた。


晴れ夏に​​​​​​​は・・・​​

『説教のあとの幻影』​​1888年

油彩 カンヴァス 73.0cmx92.0cm

エジンバラ「スコットランド国立美術館」所蔵。


ブルターニュの女性たちは、


素朴な心ゆえに教会の説教で聞いた話


(天使とヤコブ)の幻影を見る。


画面を横切る大きな樹木。


その手前は現実の世界であり、


樹の向こうは幻、すなわち眼に見えない世界である。


二つの世界は樹によって隔てられる一方、


平坦に振られる一方、


平坦に塗られた赤い大地で結ばれている。


​​この作品により「総合主義」の絵画を確立するオーケー


この絵には、印象派の細かな筆触は見られない!!


形態は輪郭線で囲まれて単純化され、


色彩も平坦な面として扱われているのだ。


印象主義の分析的な傾向とは異なる、


形態と色彩の総合主義を見ることができる。


このような絵画を形成する上で、


彼が日本の浮世絵から示唆を得たことは間違いない。


また若いベルナールが、同じ特徴を持った


絵画を描いていたことも重要な契機となった。


一方、ブルターニュ地方では・・・


古くから「パルドン祭り」と呼ばれる


宗教儀礼が続けられてきた。


この祭りは農耕生活と結びつき、


この地に生きる人々の拠り所となっていた。


またソバを栽培する地域が多かったが、


夏にソバが実り茎が赤く染まると、


人々は、収穫を前に感謝の祈りを捧げる。


ゴーギャンは信仰に根ざした当地の人々の営みに惹かれ、


素朴な心を描こうという眼に見えない世界は、


眼に見えるものを通して描かれている。


ゴーギャンのいう「総合」とは・・・


形態と色彩の総合であるだけではなく、


現実世界と内なる世界の総合だったのである。


緑ハート​​ゴーギャンの手紙緑ハート

「私の​​最近の作品は好調だ。

 君はそこに独特の傾向、

 むしろ、

 これまで私が探求してきたことの確立と、

 形態と色彩の総合を見出すだろう。」

 (1888年8月 ポン=タヴェンシュネッケル宛て)



「私は人物に、素朴で、

 迷信を信じるような、

 偉大な単純さを表現できたように思う。

 全体は極めて厳しい。

 私にとって、

 この絵に描かれている風景と

(ヤコブの天使の)闘いは、

 説教のあとで祈る人々の

 想像の中にだけ存在する。」


(1888年9〜10月頃 ポン=タヴェン ファン・ゴッホ宛て)


緑ハート​​総合主義・・・とは?緑ハート
​(サンテティスム)​​​


ゴーギャンが1888年に確立した絵画。


翌年には、ゴーギャンたちによって


「印象主義者と総合主義者」の展覧会が開かれ、
(実際は総合主義のみ)

この語が掲げられる。


1880年代後半から、


芸術全体の主流となってゆく


象徴主義の一翼を担うものだった。


象徴主義とゴーギャンの絵画を最初に結びつけたのは、


詩人:アルベール・オーリエの批評下向き矢印

「人間の野生の楽園的な幸福の中に


 〈詩〉の謎を明らかにする。

 またこの作品は〈夢〉や〈神秘〉、

 素朴なものたちの手によってのみ

 掲げられる象徴的な帆の魅力を解き明かす。」


緑ハート​​​象徴主義・・・とは?​​​緑ハート
(サンボリスム)

1880年代​後半に台頭した芸術全般に及ぶ動きで、


眼に見えない内的な世界(神秘や観念など)を


表現することを目指した。


本来は、文学の運動であり、


モレアスの「象徴主義宣言」


1886年『フィガロ』に始まり、


マラルメらによって推し進められる。


美術では、ゴーギャンとその周辺、


文学的な主題を好んだモローやシャヴァンヌ 、


さらにルドンなど、多様な広がりの中に展開。


象徴主義に対するゴーギャンの考えは、


晩年の手紙に示される下向き矢印

「ピュヴィが絵に〈純潔〉という題をつける場合、

 彼はそれを説明するために、

 手に百合を持ったひとりの処女を描くに違いない。

 ありふれた象徴だから、

 誰にでもわかるのだ。

 ゴーギャンが〈純潔〉という題名で描くとすると、

 清らかな水の流れのある風景と、

 文明の汚れのないひとりの人物を描くだろう」

  ​(1901年7月 モーリス宛ての手紙)​

(参考資料:東京美術もっと知りたいゴーギャンより)
(写真撮影:ほしのきらり。)

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最終更新日  2021.03.08 00:10:08
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2021.03.07
カテゴリ:美術館・博物館
​​​​​​​ポール・ゴーギャンは、ブルターニュから中米パナマへ行って人足として稼いだあと、マルティニーク島(マルチニック島?)で制作活動を行いますスマイル


緑ハート​​MARTINQUE!​​緑ハート


Idas y venidas,Martinica .1887

​​​Allees et Venues,Martinque

『行ったり、来たり』1887年​

油彩 カンヴァス 72.5cmx92.ocm

【第一次ブルターニュ時代】マルティニーク島


​​スペイン・
マドリッド「ティッセン=ボルネミッサ美術館」所蔵。


ポール・ゴーギャン(ゴーガン )
​Paul Gauguin​

1848年6月7日〜1903年5月8日(54歳没)


熱帯の世界に憧れるポール・ゴーギャンは・・・


1887年4月(39歳)​


画家:ラヴァルとともに中米パナマに旅立つ。


姉のマリーが住んでおり、


義兄の会社で働いて嫁ぐつもりだったようだ。


しかし、協力が得られず、


二人はパナマに運河を建設する現場で


人足として働くことになるスマイルスマイル


緑ハート​​​ゴーギャンの手紙​​​緑ハート

「明日から、

 月150ピアストルで雇われて、

 運河建設のために地峡を掘りにゆく。」

  (1887年5月 パナマ メット宛て)



「今、私たちは黒人たちの住む

 小屋で暮らしている。

 パナマに比べたら、天国だ。

 町から25分のところで、

 眼下にはあらゆる種類の果樹の向こうに、

 ココナツヤシに縁どられた海が見える。

 黒人の男も女も、

 クレオール語の唄をうたったり、

 きりのないおしゃべりをしながら、

 一日中歩き回っている。」

  (1887年8月 マルチニック島 メット宛て)


その後、​6月​、マルチニック島に移って、


ようやく制作に取り組めるようになった。


ゴーギャンはかつて、


ペルーで幼少期を過ごしたのち、


船員として南米の各地を航行したことがあった。


今回の旅は、


画家となったゴーギャンの中で


熱帯への思いが膨らみ始めていたのだ。



彼は、熱帯地方の鮮やかな色彩の植物、


そして暑い気候に暮らす人々や動物たちを描いてゆく。


前年にブルターニュの地で


​「素朴」​を見出したゴーギャンにとって、


熱帯の旅は、


​「野生」​を模索することでもあっただろう手書きハート



(参考資料:東京美術もっと知りたいゴーギャンより)
(写真撮影:ほしのきらり。)

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最終更新日  2021.03.07 00:10:08
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2021.03.06
カテゴリ:美術館・博物館
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​ゴーギャン38歳頃、1886年7月から3度にわたってブルターニュ地方ポン=タヴェンへ赴き、印象派以後の「綜合主義」を確立しますスマイル


緑ハート​​​ブルターニュ時代​​​緑ハート


Hoguera junto a una ria,1886

The Fire at the River Bank

【ブルターニュ第一次時代】

スペイン・マドリッド「ティッセン=ボルネミッサ美術館」所蔵。


ポール・ゴーギャン(ゴーガン )
​Paul Gauguin​

1848年6月7日〜1903年5月8日(54歳没)


1886年(38歳)​ゴーギャンは、


最後の印象派展となる第8回​『印象派展』​に出品する。


ここには、当時の主要なメンバーだった

モネたちは参加ぜず、


ジョルジュ・スーラ

(1859年12月2日〜1891年3月29日)らの


若い画家が初めて出品した​『新印象主義』​と名付けられる。


この展覧会は、印象派が絵画の変革を導いた時代が終わり、


それ以後の時代、つまり


​​「印象派以後(Post-Impressionists)」​​


(「後期印象派」は誤訳)の始まりを示すものとなった。

​1886年7月​ ゴーギャンは初めて、


ブルターニュ地方のポン=タヴェンに赴く。

【第一次ブルターニュ時代】


ゴーギャン もまた「印象主義」の吸収を終え、


彼独自の絵画を作ろうと考え始めたのだった。


​1887年6月​​(39歳)​ 西インド諸島のマルチニック島に滞在。


1888年2月(40歳)​再び、ポン=タヴェンで製作する。

【第二次ブルターニュ時代】


彼は、この地の人々の信仰に根ざした営みに接するうちに、


眼に見える素朴さではなく、素朴な心の内をこそ


描かねばならないと考え始めた。この模索の末に


​『説教のあとの幻影』​が制作され

ゴーギャン 独自の絵画「綜合主義」​が確立される。


ゴーギャンは、ブルターニュについて・・・


「私はここに野生と、プリミティヴ(原始的)なものを見出す」


と記している。


緑ハート​​ゴーギャンの手紙緑ハート

「君はパリ好き​​だが、


 私は田舎がいい。

 ブルターニュが好きだ。

 私はここに野生と、

 プリミティヴなものを見出す。

 私の木靴が花崗岩の大地に

 音を立てるとき、

 絵画の中に探し求めている鈍い、

 こもった、力強い響き聞く。」

 (1888年2月 ポン=タヴェン シュフネッケル宛て)



彼が、この地で共鳴した「素朴」は・・・


「野生」と「原始」の探求につながってゆく手書きハート


そして素朴な心の内、


すなわち眼に見えない内的な世界に向けられた眼差しは、


人間の根源を問うことへと展開する。



1888年10月から ゴーギャンは、​


フィンセント・ファン・ゴッホ

(1853年3月30日〜1890年7月29日)と


南仏:アルルで共同生活を送った。


​12月​ 諍いのため、二ヶ月余りで破綻。


1889年(41歳)​パリ「万国博覧会」に合わせて、


「印象派と綜合主義」の展覧会を開催。


​6月​【第三次ブルターニュ時代】


ポン=タヴェンから、同じブルターニュのル・プルデュに移る。


実に目まぐるしい歩みだが、この足跡に伴って、


「西洋」と「野生」の対立が次第に明確になる。



さらにこの時期には・・・


ゴーギャンにとって重要な自画像と自刻像が相次いで制作された。


人間の根源を問おうとすることは、


まず自分自身を探ることに他ならなかったのである。



ゴーギャンは、1886年の夏晴れ


初めてブルターニュ地方のポン=タヴェンに赴いた。


ブルターニュ地方は・・・


ケルトの伝統に由来する独特な文化を受け継いできた地で、


近代化の波もほとんど及んでいなかった。


特徴ある衣装や宗教儀礼。


十九世紀中頃にはまずロマン主義の文学者たちが


このような風土に惹かれ、


さらに画家たちも制作に出かけるようになった。


ポン=タヴェンのグロアネックの宿屋には・・・


すでに多くの画家が集まっていた。


ゴーギャンは、彼らと交友し、


この地の風景とそこに生きる人々の素朴な生活を描いてゆく。


妻:メット宛ての手紙に


「私の体は鰊のように痩せているが、その分、若返った」


と語っており、制作に励む様子がうかがわれる。


ブルターニュが彼の絵画に啓示をもたらす予感が・・・手書きハート

(参考資料:東京美術もっと知りたいゴーガン より)
(写真撮影:ほしのきらり。)

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最終更新日  2021.03.06 00:10:12
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2021.03.05
カテゴリ:美術館・博物館
​​​​​​​​​​​​ゴーギャンの画家としての出発は、株取引仲買人で高収入を得て印象派と出会い絵画を購入することから始まりますスマイル


​1871年〜1886年【ゴーギャン初期の作品】​

Entrance to the Village of Osny,1882-83

『オスニー村の入り口』1882年〜1883年


油彩 カンヴァス 60.0cmx72.7cm

【初期の作品】

ボストン「ボストン美術館」所蔵。


ポール・ゴーギャン
​Paul Gauguin​

1848年6月7日〜1903年5月8日(54歳没)


アマチュア画家として『印象派展』に参加。


勤めの傍ら、画塾で学び始めたゴーギャンは、


印象派の「カミーユ・ピサロ」

(1830年7月10日〜1903年11月13日)を知る。


1894年「画家、彫刻家、版画家等の芸術家の共同出資会社」の


第一回展(いわゆる第一回『印象派展』)が開催される。


これは、芸術家たちが協力して


新しい購買層を獲得しようとしたもので、


ピサロは、設立に大きな役割を果たした。


彼との交友に伴って、他の画家たちとも親しくなり、


「エドガー・ドガ」

(1834年7月19日〜1917年9月27日)には、


尊敬の念を抱いていた。


そして彼らの勧めもあって、


印象派展に参加するようになる。


ゴーギャンにとって、


光が色彩の源泉だとする印象主義の考え方


(広義の「色彩分割」)は重要だった。


色彩は、対象の側にあるのではなく、


色彩自体が自律的な体系をもつとされた。


彼は、のちに内面や観念を表現する力を色彩に求めるが、


その基礎は印象主義との出会いにあった。


こうして前衛画家たちとの交友は、


ゴーギャンの絵画と人生を大きく変えてゆく。


ポール・ゴーギャン

『イーゼルに向かう自画像』1885年​

油彩 カンヴァス 65.0cmx54.0cm

「個人蔵・スイス」

【初期の作品】

この自画像は・・・


コペンハーゲンで借りた家の屋根裏部屋で描かれた。


ゴーギャンの表情は険しく、


明暗のコントラストが際立つ。


背後の斜めの梁は、のしかかるようであり、


見知らぬ町での苦難を暗示する。


緑ハート​​ゴーギャンの手紙​​緑ハート

「見知らぬ町でこの惨めさ。

 信用もなければ金もありません。

 私などは屋根裏部屋で

 首をくくったほうがよいのでは、

 と毎日のように考えます。

 絵画がつまずきの石であり、

 それこそが私を踏みとどまらせるのです。

 妻も家族も、

 ついには誰も彼もが、

 私がこんな状態であるのは、

 あのおぞましい絵のせいだと言い、

 自分の生活費も稼げないのは

 恥そのものだと言い募ります。」

 (1885年5月コペンハーゲン ピサロ宛て)


一方、


画家が手にした絵筆は細いが、矢のようでもある。


鮮やかな赤褐色の署名は圧迫する梁に記されている。


ゴーギャンが、画家への道を歩み始めると生活は困窮したショック


裁判官の娘として育った妻:メットは、


保守的な価値観の女性であり、


夫の選択を受け入れることができなかった。


パリからルーアン、


メットの実家のあるコペンハーゲンへ。


ゴーギャンにとって厳しい日々が続いたが、


生活を一転させた絵画こそが、


生きる礎に他ならなかった。


この苦難の中で、「対比」の枠組みが形成されていく、


ゴーギャンの生い立ちには共和主義的な背景があった。


彼の視線は、まず社会における二つの階級、


富める者と貧しい者を見出す。


そして芸術の世界では、


権力を握るアカデミスムに対して、


変革を担う前衛画家という対比。


実際、彼はコペンハーゲンで


展覧会を中止させられたことがあった。


緑ハート​​​ゴーギャンの手紙​​​緑ハート


「私は、当地で展覧会をやった。

 だが、5日後にアカデミーの命令によって

 閉鎖させられた。(・・・)

 私たちが絵画の殉教者であることは、

 認めなければならない。」

 (1885年5月 コペンハーゲン シュフネッケル宛て)


「社会には、二つの階層がある。


 生まれつき財産があって、

 金利で生活できる人たちの階層と、

 会社か商店に雇われる人たちの階層だ。」

  (1882年2月 パリ メット宛て)


のちのこの「対比」の枠組みは、新たな相貌を帯び、


ゴーギャンの芸術を構成する軸となるのである。



(参考資料:東京美術もっと知りたいゴーガン2020年11月15日刷より)
(写真撮影:ほしのきらり。)​​​​​​​​​​
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最終更新日  2021.03.05 00:10:10
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2021.03.04
カテゴリ:美術館・博物館
​​​​​ゴーギャンのカラフルでとても面白い自画像ですね〜ゴーギャンの楽しい自画像を何点か見てみましょうスマイル


緑ハート​​ゴーギャンの楽しい自画像​​緑ハート


ゴーギャンの​一番、楽しい自画像はこれ下向き矢印


​​​Self-Portrait,1889

光輪のある自画像』

『戯画的自画像』
​​​
1889年 

油彩 版 79.2cmx51.3cm 38.0cmx46.0cm

【第三次パリ・ブルターニュ(クロアール=カルノエ)時代】

ワシントンD.C.「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」所蔵。


ポール・ゴーギャン 
​Paul Gauguin​

1848年6月7日〜1903年5月8日(54歳没)


一見してわかる通り、この絵は上向き矢印


ゴーギャンが、ふざけて描いた自画像です。


頭上に後光の輪を持つ・・・​聖ゴーギャン!?


​あるいは・・・​預言者ゴーギャン!?


​​​​顔の​​​​​表情といい・・・うっしっし


指にはさんでいる奇妙な鳥の頭のごときものといい、


全体の全く様式的構図や色彩といい、


ゴーギャンの作意がいわゆる普通の自画像とは


非常に異なっていたことは明らかである。


実はこの絵は、


ル・プールデュの彼の下宿先である


マリ・アンリ(通称:マリ・プペ)の家の


食堂の戸棚上部の鏡板に描かれたものである。


この下宿には、オランダの画家:マイエル・デ・ハーンもいて、


ゴーギャンの熱烈な信者だった。


デ・ハーンは、チビのせむしで、
(差別用語ですが昔の原文に忠実でご容赦)


首は肩に落ち込み、鼻は獅子鼻だった。


彼は、当時下宿の女主人:マリ・アンリの情人でもあった。


ゴーギャンは、この自画像と一対になるもう一枚の鏡板に、


誇張的なデ・ハーンの肖像画を描いている。


二点とも初めは当然マリの所蔵だったわけである。



『パレットをもつ自画像』1891年​

油彩 カンヴァス 55.0cmx46.5cm


1890年〜1891年にかけての作と考えられる。


右肩にあるサインは上向き矢印


​「シャルル・モリスに、友P・ゴーギャンより」​


とある。ゴーギャンはこの年、


デンマークを訪れて妻子と会ったのち、


4月4日マルセイユをたって、


第一次タヒチへの旅へ向かう船


この絵は、出発にあたって、


旅費作りのための絵の売立に尽力してくれた


作家:モリスに与えたものと推定されている。


モリスは、ゴーギャンを彼の深い理解者となった


詩人:マラルメや、


作家:ミルボーに紹介してくれた人物でもあった。


この自画像は・・・
​​
1888年ころに撮影した


自分のカメラ写真を見ながら描いたものらしい。


ただし、口髭は1888年当時にはなく、


1890年当時にはやしていたものなので、


新たに付け加えて描いたもののようである。


『レ・ミゼラブル』


『黄色いキリストのある自画像』に比べると、


表情全体にようやく疲労の色が濃く、


とくに目の下のたるみに、


タヒチ渡航前のゴーギャンの暗さが滲み出ている。


​​​​​​​
『自画像(通称:レ・ミゼラブル)』1888年​


油彩 カンヴァス 45.0cmx56.0cm


アムステルダム「ファン・ゴッホ美術館」所蔵。


ゴッホに所望されて描き、アルルへ出かける直前に完成、


ゴッホに送った自画像である。


右下署名の上に、


​「レ・ミゼラブル、友人ヴィンセントに」​


という献辞がある。


ユーゴの小説の

題名を記した理由を、


10月8日シェフネッケル宛の手紙で彼自身書いている。


「僕の最良の絵の一つだと思う・・・

 まず第一に、山賊のような顔、

 これは、ジャン・ヴァルジャン

 (レ・ミゼラブル)だ、

 世間からつまはじきされ、

 常にこの世のために鎖を背負っている

 一人の印象派画家だよ。

 デッサンも全く独特で、

 完全な抽象さ。

 眼、口、鼻はペルシア絨毯の花といったところで、

 一面象徴性を帯びている。

 色は自然色からは遠い。

 そうだ、

 猛火でねじれ曲がる陶器を

 できたら思い出してくれ!・・・。」


一方、ゴッホはこれを受け取って異常な感銘をうけ、


弟:テオに手紙を書く。


「まずもって、

 囚人以外の何ものでもない。

 ・・・陽気さのかけらもない。

 彼はこのやり方を続けてはいけない。

 自分をいたわるべきだ・・・。」



『「黄色いキリスト」のある自画像』1889年〜1890年​

油彩 38.0cmx46.0cm

【第三次パリ・ブルターニュ時代】パリ

パリ「オルセー美術館」所蔵。


3回目のブルターニュ時代の代表作の一つであり、


この時期のゴーギャンの内面を深くうかがわれる作。


憑かれたような鋭い目にも、


こけた頬から顎にかけての線にも、


自分の芸術の大きな結実を確信しながらも


窮迫に追われ、南海への夢に焦慮する自己を


ひたひたと見つめて、


​「お前は真実何者なのか?」​


問い詰めていく、暗い気迫がこもっている。


背後には、同じ時期の傑作

​​​​『黄色いキリスト』が、かかっているが、



左右逆になっているのは、


鏡に写しているためである。


背後右側には、人面をそなえた壺が棚に置かれている。


ゴーギャンの自作の把手つきの陶器で、


このグロテスクな人面は、自分の顔を写したものだといわれている。


もしそうだとすれば、そこには、


別の自画像に「レ・ミゼラブル」と題したのと同じ


心境のゴーギャンがいたといえよう。


しかし、それらを配したこの絵自体は、


深い感情と堅固な構成をもって静かに自己を主張している。


(参考資料:中央公論社GAUGUIN1994年初版より)
(写真撮影:ほしのきらり。)
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最終更新日  2021.03.04 00:10:12
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2021.03.03
カテゴリ:美術館・博物館
​​​​​​​​​​ゴーギャンについてのお勉強を続けています〜象徴主義・綜合主義という2つの言葉が出てきましたがスマイル何ですか?


緑ハート​​​象徴主義と綜合主義・・・とは?​​​​緑ハート




ポール・ゴーギャン(ゴーガン )
​​​​Paul Gauguin​
​​​
1848年6月​7日〜1903年5月8日(54歳没)


ゴーギャンの​最初の絵画修業において、


大きな役割を果たしたのは、ピサロである。

ピサロは、彼を印象派の世界に導き、


1876年以降、グループ展にも出品させるようにした。


ゴーギャンのごく初期の作品が、


強く印象的な特色を示しているのも、


少しも不思議ではない。


だが、彼は、1883年、それまで勤めていた


ベルタン商会を辞めて、絵画に専念するようになってから、


次第に印象派とは違った方向に向かうようになった。


作品の上で、その変化が感じられるようになるのは、


1886年の最初のブルターニュ滞在のころであるが・・・


Hoguera junto a una ria,1886



Idas y venidas,Martinica .1887


考え方の上では、すでにそれ以前から、単なる外界の再現ではない、


より心理的な内容を持った絵画というものを、意識的に求めていた。


彼の探求が綜合主義としては、はっきりしたかたちで実を結ぶのが、


1888年の第二次ブルターニュ滞在の時期である。

​​​


緑ハート​『象徴主義と綜合主義』・・・とは?​​緑ハート  


1886年をいわば分水嶺として


クローズアップされるようになってきた


反印象主義的傾向というのは、


どのような特色を持っていたのだろうか!?


1886年の第8回『印象派展』が、


その最初のマニフェストであったとすれば、


それに続く歴史的催しは、


新印象派の活躍の場となった「アンデパンダン展」を別とすれば


1889年、ゴーギャンとその仲間たちが集まって開催した


​『ポン=タヴェン派の展覧会』​であったと言える。


パリでの​​大がかりな万国博覧会とちょうど同じ時期に、


カフェ・ヴォルピニで開かれたこの展覧会は、


​『印象主義および総合主義のグループ展』​


と銘打たれていた。​


それから2年後、1891年には、


ゴーギャンの弟子たちの集まりである


​『ナビ派のグループの第一回の展覧会』​が開かれたが、​


これは、


​『象徴主義および印象主義のグループ展』​と名乗った。​


どちらの場合も、「印象主義」という名称が一役買っていたが、


その内容は、


少なくとも1874年のあのナダールの写真館での集まりとは、


大きく違っていた。


ゴーギャンおよびナビ派の仲間たちが


「印象主義」という名前を借りたのは、


公式のサロンに対抗する


最初のまとまった独立グループを作った先輩たちに対する敬意と、


そしておそらくは宣伝効果とのためで、


実質的には、「綜合主義」および「象徴主義」という名称が、


その本体をよく物語っていた。


​事実、「象徴」そして「綜合」という概念は、​


ゴーギャンを中心とする


新しい絵画の鍵となるものだったのであるグッド


​1886年​という年は・・・


この点においても重要な転換を記録した年であった。


この年の秋​​​​​葉9月18日『フィガロ』紙上に、


詩人:ジャン・モレアスが


有名な「象徴主義宣言」を発表して、


この詩以後、​「象徴主義」​という言葉が


正式に市民権を得ることになつたからである。


もちろん、この「象徴主義」は、


第一義的には、文学に関するものであったが、


モレアス自身、その宣言の中で、


「芸術における創造的精神の現在の傾向を

 正しく表わすことのできる唯一の名称」


と語っているように、


文学以外の領域の芸術にも通用するものであった。


特に絵画は・・・少なくとも最初のうちは・・・


文学におけるのと同じ目的、共通の意図を持っていたため、


象徴主義の運動においては、重要な役割を演じた。


モレアスの「宣言」に呼応するかのように、


1886年には・・・


『プレイヤード』『ヴォーグ』『デカダン』『サンボリスト』など、


一連の新しい雑誌が創刊され、新しい美学にもとづく評論、


創作活動を活発に示すようになったが、


そこでも絵画は、評論や挿絵において大きな部分を占めていた。


もともと、象徴主義の理論は、


人間の諸感覚の交感照応を前提としていたので、


音楽をも含めて、さまざまの芸術ジャンルの交錯が見られたのも


少しも不思議ではない。


象徴主義の本質は、モレアスの言葉を借りるならば


「理念に感覚的形態の衣装をまとわせること」であった。


絵画の世界で言うなら、描き出されたものは、


単に外面的な衣装であって、その奥に、


直接感覚では捉えることのできない「理念」が


隠されているということである。


逆に言えば、絵画とは、


単に眼に見える世界をそのまま再現するだけではなく、


眼に見えない世界、内面の世界、


魂の領域にまで探求の眼を向けるところに、


その本質的な役割があると言うのが、象徴主義の考え方であった。


なぜなら、そのような内部の世界は、


たとえ直接眼で見ることはできないとしても、


人間にとってたしかに厳として動かし難く存在するものであり、


しばしば、眼に見える自然の世界以上に重要なものだからである。


このような考え方は、もちろん、


象徴主義の登場以前にまったくなかったわけではない。


それどころか、最後にロマン主義詩人であり、


最初の近代的批評家であったボードレールは、


モレアスの「象徴派宣言」よりも30年も前に、


外部の世界と内面の世界の「交感照応」を歌い上げていたし、

​​​
​​​ドラクロワは、そのノートに、

「人間の魂には、

 現実の事物では

 決して満足させることのできない

 内面的感情というものがある。

 これらの感情に

 形と生命を与えることができるのは、

 画家が詩人の想像力だけだ」


と書きつけていた。この一節は、もともとは、


ドラクロワ自身の言葉ではなく、


スタール夫人の『ドイツ論』

のなかから、ドラクロワが書き写したものだが、


それだけに、それはロマン派のひとつの


基本的な信条であったということができるであろう。


そして、さらにゴーギャンが、


ドラクロワから自分のノートの中に同じ文章を書き写しているのだから、


そのかぎりでは、ゴーギャンも


ロマン派の落とし子だったということになる。


少なくとも、


人間の魂の深奥の世界に最初の冒険を試みたのは、


ロマン派だったのであるグッド


しかし、多くの神秘と驚きに満ちたこの内面の世界は、


写実主義から、印象派に至る「実証主義的」な動きにおいては、


しばらくのあいだ忘れられていた。

​​​​​​​​

クールベやモネの眼には・・・


何よりも外の自然の世界に向けられていたからである。


ゴーギャンやルドンが、印象派の色彩表現から多くのものを学びながら、


なお印象派に対して強い不満を感じないわけにはいかなかったのも、


そのためである。


ルドンは、印象派の「天井が低い」こと、


すなわちその世界が限られていることを強く非難したし、


ゴーギャンに至っては、もっと激しく、こう述べている。


「彼ら(印象派の画家たち)は、

 自分たちの眼の周囲ばかり探し廻っていて、

 思想の神秘的内部にまではいりこもうとはしない。

 それは完全に皮相的で、

 完全に物質的で、

 媚態だけからでき上がっているような芸術である。

 そこには思想は住んでいない。」


だが「思想の神秘」は感覚では捉えることができない。


そこで、「思想」に「感覚的形態の衣装をまとわせる」こと、


つまり、象徴的表現が必要となってくるのある。


印象派が自然を再現するために用いた武器が


綜合主義であったと言うことができる。


ゴーギャンの手紙をはじめ、当時の批評家においては、


「綜合」と言う言葉が、


「象徴」と並んで頻繁に登場してくるが、それは何よりも、


印象派の「分析」的な技法に対するアンチテーゼであり、


「分析」の結果、


多彩な色点のなかに解消してしまった形態を、


再び復活させようという試みであった。

​​​​​

そのため、ゴーギャンとその仲間たちは、対象の形態を、



故意に強調された太い輪郭線で単純化して捉え、


印象派の茫然たる世界とは正反対の明確な形態世界を提出する。


その輪郭線は・・・


中世のステンドグラスの構図の太い仕切りを思わせるので、


綜合主義絵画は、時に


「クロワニスム(仕切り派)」という名前で呼ばれていたほどである。


このような形態の「綜合」は、当然色彩の「綜合」をもたらす。


色彩は、こまかく分割されるのではなく、


ひとつひとつの「仕切り」のなかでは、


平坦で強烈な色面として捉えられる。


その結果、画面は、一方では


ステンドグラスのように装飾的になると同時に、


他方では、眼の前の現実を超えた「思想」の表現ともなる。


説教を聞いた後のブルターニュの女たちの姿と、

彼女たちの心に浮かんだ幻影とを強烈な赤のバックで結びつけて


同一の画面の上に表現した『説教のあとの幻影、ヤコブと天使の闘い』など、


そのゴーギャンの美学を典型的に示すものと言ってよいであろう。


この作品が、描かれたのは、1888年のことであるが、


絵画における象徴主義的綜合主義は、


ほぼこの時に成立したと言っても良い。


それから3年後、1891年には、


ちょうどかつて新印象主義において


フェネオンが果たしたのと同じような役割を


象徴主義絵画において演じた批評家アルベール・オーリエが、


『メルキユール・ド・フランス』誌上に


「絵画における象徴主義・・・ポール・ゴーギャン」と題する


評論を発表して、この新しい芸術観を明確に次のように規定した。


「芸術作品の必要条件は、

(1)理念的であること、何故ならば

  絵の唯一の理想は理念の表現であるから。

(2)象徴的であること、何故ならば

  絵画はその理念を形態において表現するから。

(3)綜合的であること、何故ならば

  絵画は、これらの形態、記号を一般的理解の方法にしたがって表わすから。

(4)主観的であること、何故ならば

  絵画においては、客観的事物は決して客観的事物として考えられず、

  主題によって知覚された理念の記号として考えられるから。

(5)(従って以上の結果)装飾的であること、何故ならば

  エジプト人、そしておそらくはギリシア人、および

  プリミティフ芸術家たちの考えていていたような

  いわゆるほんとうの意味での装飾絵画は、

  同時に主観的、綜合的、象徴的、理念的である芸術の

  表明に他ならないからである。」


絵画における「象徴主義宣言」とも言うべき


オーリエのこの定義になかに、外界の再現を


至上命令とした印象派とはまったく正反対の考え方が


大きくクローズアップされているのを、


われわれは読み取ることができるであろう。
 


緑ハートポール・ゴーギャン緑ハート



オーリエが、この歴史的に重要な評論を発表した時、


ゴーギャンはすでにフランスを去ってタヒチ島ににいた。


しかし、この評論のことを聞くと、


それを読む前に、早速妻:メットにメールする宛てて、


「僕は、

 そのオーリエという男を知っているし、


 おそらくその評論のなかでも、

 僕のことを書いているに違いない。

 この(象徴主義の)運動は、

 絵画においては僕が創始したもので、

 多くの若い人たちが

 それを利用したのだ・・・」


と書き送っている。


象徴主義絵画という定義を、


単にまとまったグループ活動としてだけではなく、


内面の世界の探求という観点から捉えるなら、


この1880年代には、ゴーギャンやマラルメ下向き矢印とも



親しかったルドンがいるし、

サロンの画家たちの間にも、


例えば

ピュヴィ・ド・シャヴァンヌや


ギュスターヴ・モローのような

特異な映像世界を持った優れた画家たちがいた。


しかし、ブルターニュ地方のポン=タヴェンに集まって


意識的に新しい美学を求めた一群の画家たち、


すなわち、一般に「ポン=タヴェン派」と呼ばれる


綜合主義のグループに焦点を絞ってみれば、


その中心となり、指導者的役割を果たしたのは、


彼自身誇らしげに語っている通り、ゴーギャンであった。


事実、1889年にカフェ・ヴォルピニで開かれたあの


「綜合主義グループ」の展覧会には、


エミール・ベルナール、シャルル・ラヴァル、アンクタンなどが


顔を揃えていたが、会場の中心となったのは、


疑いもなくゴーギャンであった。


そして、このポン=タヴェン派と、やはり


ゴーギャンの弟子でのちにナビ派のグループに結集する若者たちが、


当時オーリエなどの考えていた「象徴派」であったとすれば、


この運動におけるゴーギャンの重要性は、おのずから明らかと言える。


(参考資料:中央公論社GAUGUIN高階さま著より)
(写真撮影:ほしのきらり。)


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最終更新日  2021.03.03 00:10:09
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2021.03.02
カテゴリ:美術館・博物館
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​ゴーギャンは、どのグループの画家なのでしょうか?印象派の後のポスト印象派?後期印象派も含め「反印象派」に分類されているようです手書きハート


緑ハート​​​ゴーギャンは何派?反印象派!?​緑ハート



ポール・ゴーギャン(ゴーガン )
​Paul Gauguin​

1848年6月7日〜1903年5月8日(54歳没)


ゴーギャンの運動・動向は・・・


ポスト印象派・綜合主義・象徴主義・プリミティヴィスム。


スーラの新印象派を含めて、

1880年代の後半から、1890年代にかけて、


歴史の上で決定的な役割を演ずるようになった


ゴーギャン


ゴッホ


ルドンなどの新しい傾向は、


印象派の後に登場してきたという意味で、


一般に​「後期印象派」​という名称で一括されているグッド


たしかに彼らは、


多かれ少なかれ印象派の美学の影響のもとに育ち、


スーラ、ゴーギャン、ルドンは・・・


印象派のグループ展にも参加しているから、

その意味で『印象・日の出』の画家の


後継者であったと言えないことはないが、


しかし、


・・・多くの優れた後継者がしばしばそうであるように


80年代の後半以降明白になる彼らの芸術観は、


先輩たちのそれと真向うから対立するものであった。


事実に即して言うなら、


彼らは​「後期印象派」​という以上に、


むしろ​「反印象派」​だったのである!!


したがって、


スーラ、シニャック、ゴーギャン、ルドン、それに


新印象派に「転向」したピサロなどが顔を揃えた

1886年の第8回『印象派グループ展』は、


形式的には印象派の最後の展覧会であったが、


実質的には・・・


「反印象派」の最初のマニフェストであったと言ってよい!!


事実、この時以降、グループとしての印象派は、


完全に解体することとなる。


歴史は新しい頁を迎えるのであるグッド


もちろん、だからと言って、


印象派が歴史の上から姿を消してしまったわけではない。


モネはなお、

40年にも及ぶ実り豊かな晩年を残しているしグッド


シスレーでさえ、

なお盛んに活躍中であったグッド


むしろグループの解体は、


印象主義がもはや何人かの特殊な仲間うちの美学ではなく、


社会的に公認されたものとなったことを示すものと言うべきであろう。


事実、


モネやシスレーに対する世間の風当たりはなお強かったとしても、


印象派のもたらした明るい画法は、

サロンの画家たちにとってさえ無視できないものとなっていた。


ゴーギャンの弟子の一人で、

ナビ派の中心的な理論家であったモーリス・ドニは、


「印象派は、昨日のアカデミスムとは別の種類の、

 しかし同じように頑固な明日のアカデミスムである」


と語っているが、


ちょうど1886年にパリに渡った日本の黒田清輝が、


サロンの中心の画家の一人ラファエル・コランを通じて、


印象派アカデミスムを


わが国にもたらしたという事実が端的に示しているように、


すでに80年代の後半においては、


ドニの指摘は、


ある程度まで現実のものとなっていた。


いや、黒田清輝の場合だけに限らず、


ドイツや、スイスや、北欧など、フランス以外の国々でも


多かれ少なかれアカデミスムと結びついたかたちで


印象派を受け入れたのである。


かつてはサロンに対する反逆としてグループをも結成し、


アカデミスムの陣営から散々に罵倒された印象派が、


登場後20年足らずのうちに技法として


サロンの画家たちの間にまで受け入れられるようになったのは、


ひとつには、表面的な対立にも関わらず、


印象派の画家たちとサロンの画家たちとの間に、


芸術に対する考え方の上で共通するものがあったからである。


それは、広い意味で写実主義的、


ないしは自然主義的と規定してよい考え方である。


印象派の画家たちが・・・


何よりも眼の前の自然を正確に再現することを意図したことは、


​「私の絵は自然に向かって開かれた窓だ」​


というモネの言葉からも明らかな通りである。


彼らは、精神的には、


​「自分は眼に見えるもの以外何も描かない」​​


と豪語したクールベの落とし子であり、


近代生活の記録者であったマネの後継者であった。


​「色彩分割」​というあの革命的な、

そしてそれ故に印象派が


サロンの画家たちから攻撃されることになった独特な技法も、


自然をいっそう正確に再現するために考え出されたものであった。


このような徹底した自然主義の考え方は、


実は、サロンの画家たち古典古代に主題を得た作品や、


神話画、寓意画、歴史画などの背景にも、


やはり生き続けているものであった。


もちろん、


新古典主義の流れを引く彼らのアカデミーの担い手たちの場合は、


たとえ自然をありのままに再現しようという意図があったにしても、


それに何らかのもっともらしい主題の


衣装を着せかけなければならなかったし、


また、その技法は、


印象派のように光の分析によるものではなく、


ルネサンス以来の伝統的な遠近法、肉付法、明暗法を守っていたので、


その表現は印象派の場合とまったく異なっていたが、


しかし、第二帝政や第三共和制下の


パリの市民たちが素朴に感嘆していた


カロリュス=デュランの肖像画や、


メッソニエの歴史画や、


ブーグローの神話画が・・・

現実再現の意図と技巧に支えられていたことは、


容易に見てとれるところである。


「印象派的芸術、社会的芸術、

 宗教的芸術などと言うものは存在しない。

 自然の真実を表現することだけを

 唯一の理想にしている芸術家にとっては、

 自然再現の芸術しかあり得ない・・・」


というブーグローの言葉は、


少なくともその考え方に関するかぎり、


クールベはもとより、


印象派の画家たちにとっても、


異論のないところだった筈である。そして、


ベルナール・ドリヴァルが指摘する通り、


アカデミーの画家たちのこのような


「自然主義的」芸術観の背後に、


産業革命を経過した十九世紀市民社会の


堅実な実証主義の精神が反映しているとすれば、


サロンのアカデミスムと印象派とは、


社会的にいかに相容れないものであったとしても、


やはり同腹の兄弟だったと言われねばならない。


事実、文学における自然主義の旗手であった

エミール・ゾラは、


印象派がまだ登場する前、


1866年に書いた『サロン評』のなかで、


次のように述べている。


「風向きは今や科学に向かっている。

 われわれは好むと好まざるとに関わらず、

 事物の正確な研究に押しやられている。

 時代の動きは、

 確かに写実主義的、

 あるいは受賞主義的なのである。」


だからこそ自分は、文学によって、


「事物の正確な研究」を試みるのだ、と彼は言いたかったのであろう。


ゾラは、当時悪評の真只中にいた
マネを敢然と擁護したため、


歴史の上で優れた洞察力を示した批評家という


名誉ある地位を得ているが、


彼がマネの作品に見たものは、


・・・のちに印象派の仕事に対して彼が求めたのと同じように


・・・まさにその「事物の正確な研究」に他ならなかった。


それなればこそ、1880年代の中頃から、


彼の中学校時代の親友であったセザンヌをも含めて、

「後期印象派」の画家たちが


反自然主義的方向に進むようになった時、


ゾラは、美術批評から遠ざかることとなるのである。


1886年、印象派の最後の展覧会と同じ年に発表された


彼の小説『制作』は、

友人セザンヌに対する決別の文章であると同時に、


美術界全体に対する告別の辞でもあった。


逆に言えば、この頃はすでに、


印象派の仲間と考えられていた人々でさえ、


ゾラの自然主義的芸術観では理解することができないほど、


「反印象派的」特色を見せるようになっていたのである。


(参考資料:中央公論社GAUGUIN高階さま著より)
(写真撮影:ほしのきらり。)


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​​​​​​​​​​​​​​​​​​​






最終更新日  2021.03.02 00:10:09
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2021.03.01
カテゴリ:美術館・博物館
​​​​​​​​​​​ゴーギャンは、タヒチから離れマルケサス諸島へと移ります。そこで新しいインスピレーションを得て作品の制作も捗っているようですスマイル


緑ハート​​彼女らの肉体の黄金​​​緑ハート


『彼女らの肉体の黄金』1901年​

​『黄金色の女たちの肉体』​


油彩 カンヴァス 67.0cmx76.0cm

【第二次タヒチ時代】

パリ「オルセー美術館」所蔵。


ポール・ゴーギャン(ゴーガン )
​​Paul Gauguin​​

​1848年6月7日〜1903年5月8日(54歳没)


1901年9月16日(53歳)​ゴーギャンは・・・​


マルケサス諸島のヒヴァ=オア島に移ります。


前の年、1900年には・・・


一点の絵も描けなかった。


タヒチの官憲との闘争に加えて、


病気はいくつも重なって彼を苦しめた。


皮膚病、湿疹、喘息、梅毒、心臓の弱化。


しかし、


1900年3月以来、モンフレーの奔走によって、


懸案だった画商:ヴォラールとの契約が実現し、


ゴーギャンは金銭的な不安からは、


一応解放されたのである。


彼の内部で徐々に昔の傲岸な芸術家がよみがえる。


彼は、タヒチで想像力が枯渇しはじめるのを感じていたが、


この機会をのがさず、


タヒチの土地財産を売り払って、


250カイリ彼方の未開のエデンに移住した。


ここもフランス植民地には違いなかったが、


未開の風景にも原住民の「すばらしさ」にも彼は満足する。


「ここでは詩が自然に湧き出てくる」​と彼はモンフレーに書く。​


『彼女らの肉体の黄金』は、移住最初の年の末に描かれた。


夢と現実が荒々しい調子の中で息づく手書きハート


1901年9月16日(53歳)​​​の時、


マルケサス諸島のヒヴァ=オア島​に到着して、


『逸楽の家』を建てさせ、自分で装飾する。


11月18日、愛人:マリー・ローズ・ヴァエオホ(14歳)と内縁関係を結ぶ。


そんな様子をダニエル・ド・モンフレ宛のメールする手紙に書いています。


1901年11月 マルキーズ諸島、

ラ・ドミニク(イヴァ・オア)島より

「ダニエル兄、

 先月は君に手紙を書かなかった。

 それは、第一君から手紙が来なかったためだ。

 それに家を建てたり、

 修理したりする仕事が忙しく、

 手紙を書く暇がなかったのだ。

 設備はすべて前に家のものを使ったが、

 質素な芸術家が

 望むようなものはすべて揃っている。

 
 大きなアトリエの隅には、

 小じんまりした寝場所があり、

 すべてのものは棚の上に整備され、

 手のとどくところにある。

 家全体は、

 地上2メートルの高さにあり、

 そこで食事も、

 大工仕事も料理もやる。

 日陰に吊ったハンモックで昼寝をしていると、

 300メートル先の海から

 椰子の林を超えて吹いてくるそよ風が涼しい。

 土地を手に入れるのは苦労だった。

 伝道会から

 半ヘクタール700フランで買ったのだが、

 これは高価だった。

 しかし、これしかなかったのだ。

 ここでは伝道会が土地を全部持っているのだ。

 
​​​ 神父たち以外には不都合なものは何もない。

 私の家は、村の真中にあり、

 樹木にとり囲まれているので

 他人から覗かれることはない。

 食糧についても心配しないでくれ。

 近所にアメリカ人がいて・・・

 気持ちのいい男だ・・・

 品物のよく揃った店を持っていて、

 必要なものは何でも手に入るのだ。

 移住の決心をしたことも、

 今ではだんだん満足に思うようになった。

 そして、絵を描くという点だけでも、

 ここは素晴らしい

 それにモデルたちだ、

 これは正に驚異だ!!

 すでに仕事にとりかかった。

 しかし、もうキャンバスがなくなった。

 ヴォラールが一年前に

 約束してくれたキャンバスや絵具、

 ホワイトがくるのを

 いらいらしながら待っている。・・・」

 ​・・・ではまた、ポール・ゴーギャン​

(参考資料:美術公論社ゴーギャンの手紙より)
(参考資料:中央公論社GAUGUINより)

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最終更新日  2021.03.01 00:10:09
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2021.02.28
カテゴリ:美術館・博物館
​​ゴーギャンの死後に小屋に残されたゴーギャンの遺作の一つ「母性」です。抱っこしているのはゴーギャンの子どもかしら!?

緑ハート​​​母性(1緑ハート


『母性(1)』1899年​

油彩 94.0cmx72.0cm

【第二次タヒチ時代】

サンクトペテルブルク「エルミタージュ美術館」所蔵。

(母性は、3作制作されました)


ポール・ゴーギャン(ゴーガン )
​Paul Gauguin​

1848年6月7日〜1903年5月8日(54歳没)


従来この作品の制作年代を1896年とする説があったが、


その説には根拠がない、


とゴーギャン全作品カタログを作った


ウィルデンスタインはいっている。


ゴーギャンの死後、


小屋に残された遺作の一つである。


ペパーテで競売された際、


海軍士官が150フランという安値でせり落とした。


三人の女の描き方の「古典的」な性質は、


一見して明らかである。


静けさともにメンタルな装飾性がみごとに調和しているグッド


横坐りになって赤ん坊に乳を含ませている


若い母親(パフラをモデルにしているのだろう)と、


彼女を守るように現れた二人の女性とが


形づくる見えない三角形が、


画面全体の秩序と諧調の中心となっている。


左の娘の右腕や左手のマンゴーの実は、


この種の母性愛を描く主題に出てくる豊饒の象徴であり、


中央の娘が手にする花は、


美しさの象徴でると思われる。


その点で、


ゴーギャンはヨーロッパ絵画の伝統的な描法にのっとりながら


これを彼自身のものに完成にかみ砕いている。


(参考資料:中央公論社GAUGUINより)
(写真撮影:ほしのきらり。)



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​​






最終更新日  2021.02.28 00:10:09
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2021.02.27
カテゴリ:美術館・博物館
​​​​​ポール・ゴーギャンの二度目のタヒチ時代に描かれた神秘的な作品『ヴァイルマティ』には、どんな意味があるのでしょうか!?

緑ハート​​​ヴァイルマティ(偶像)​​​緑ハート



『ヴァイルマティ』1897年​

油彩 72.0cmx93.0cm(73.0cmx94.0cm)

【第二次タヒチ時代】 

パリ「オルセー美術館」所蔵。

ポール・ゴーギャン
​Paul Gauguin​

1848年6月7日〜1903年5月8日(54歳没)


ゴーギャンは・・・


タヒチの神話の中に、


幻の楽園を探り求める試みをしばしば行っている。


『ノア・ノア』第4章に出てくる


ヴァイルマティ の話もその一つで、


この絵の少女は、


その話からヒントを得たものだ。


マオリ族の創造神:タアロアの息子:オロは、


人間の中から美しい処女を選んで


妻にしようとして求婚の旅を続ける。


いたる所で女たちに会うが求める少女には出会えない。


しかし最後に、


小さな湖水で水浴びをしている美しい娘を見つける。


「彼女はすらりと背が高かった。

 夜は恋の神秘がその髪に眠るようであり、

 今は太陽の熱がその肌を金色に輝かしていた。」


オロはこのヴァイルマティと結婚し、


熱愛しあい ダブルハート


子供を作る。


種族の長がこうして誕生したのである。


この絵は、


神の心をさえ捉えるほど美しい少女を描いたものだが、


黄金のベットの横には、


トカゲをとらえる金色の


ペリカンのような鳥がいて神秘感をかもす。


原始の女の神秘への賛歌というべき絵である。


前年に描かれた大作下向き矢印下向き矢印


『我々はどこから来たのか?我々は何者か?我々は何処へ行くのか?』

上矢印
ペリカンのような「白い鳥」と「トカゲ」が左下に描かれています!!


『ヴァイルマティ』にも描かれた「白い鳥」は、


直前に亡くなった娘の化身なのでしょうか?


「トカゲ」と「白い鳥」の解釈は、様々な憶測がありますが・・・


言葉では、理解されない、


言葉を超えた、


言葉の虚しさを意味する


『神秘の象徴』として描かれたとされています。


(参考資料:中公論社GAUGUIN世界の名画より)
(写真撮影:ほしのきらり。)


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最終更新日  2021.02.27 00:10:09
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