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「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

ほしのきらり。

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2008.08.23
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カテゴリ:ジンバブエ
ビクトリアフォールズを発見した「デイヴィッド・リヴィングストンの生涯」後編

           愛する妻の命を奪ったアフリカだったのに・・・何故また戻るのか?



           デイヴィッド・リヴィングストンの生涯・・・アフリカに死す




           しょんぼり長い話の後半ですから読まないで下さい しょんぼり

             




                  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

第三次アフリカ探検 -- アフリカでの死

西側を流れる支流が白ナイルリヴィングストンはボンベイを経由し、

1866年1月16日にザンジバル(現タンザニア)へ到着した。

3月22日にはルブーマ川の河口に到着、4月4日に内陸部へ入っていった。

当初は各地から集められたポーターは36人いたが、

脱落者が続出し、最終的には4、5人しか残らないほどの過酷な旅程だった。

マラウィ湖を経由し、タンガニーカ湖の南側を目指して北北東へ進み続けたが、

行く先々で奴隷商人の妨害に遭う。

かれらに買収されたポーターはリヴィングストンは暗殺されたという虚偽の報告を行い、

リヴィングストンの医療道具一式が入っている鞄を盗んでしまったと言われている。

1867年には苦難の果てにタンガニーカ湖にたどり着き、Moero湖を発見し、

翌年1月18日にはさらにバングウェル湖(en:Lake Bangweulu)を発見したが、

飢餓と体調の悪化に苦しみ、一旦タンガニーカ湖畔の村、ウジジへと戻ることとなった。



1869年7月から1871年の10月にかけては、静養を行いながら、

ウジジ近辺の探索を行うことに費やされ、宣教や説教を頻繁に行った。

1871年3月29日には、

ルアラバ川(en:Lualaba)の岸辺で、1,500人もの奴隷が虐殺される場に偶然立ち会った。

これはリヴィングストンが実際に目撃した中では最悪の事態であり、

奴隷解放のために立ち上がろうとしたものの、その力は残っておらず、

ウジジで静養を余儀なくされていた。



この間、イギリス国内では消息を絶ち、

死亡説まで流れているリヴィングストンを探索する動きも出ていたが、

過酷な旅に加えて現地での妨害もあり、失敗続きであった。

1869年10月、

ニューヨーク・ヘラルドの経営者であるジェームズ・ゴードン・ベネット・ジュニアは、

ヨーロッパ滞在中に、特派員の1人であるヘンリー・スタンリーに電報を送り呼び寄せた。

スタンリーはリヴィングストン捜索の依頼に承諾し、

莫大な資金提供と、発見が成功した際の報奨金を約束された。スタンリーはただちに出発したが、

     他の取材のためパレスチナ、エジプト、インドなどを訪れていたため、

                    【インド旅日記】.jpg
                          インド

ウジジにたどり着いたのは1871年11月10日であった。



スタンリーはウジジ近辺でリヴィングストンの従者と遭遇し、

従者に導かれて本人と対面した。

骸骨のようにやせ衰えた姿を見てスタンリーが発した

「リヴィングストン博士でいらっしゃいますか」

"Dr. Livingstone, I presume?" のセリフは、

のちにイギリスで思いがけず人と対面した時の挨拶として使われるようになるほど、

劇的なエピソードとして伝えられた。

2人はタンガニーカの北端までの探検を行うなど、4ヶ月をともに過ごした。

スタンリーはリヴィングストンに帰国を強く勧めたが、リヴィングストンはナイルの水源を突き止めるため、

さらに探検を続けることを望んだ。



スタンリーは1872年3月15日、イギリスへ向けて旅立ち、

5ヵ月後にリヴィングストンの許に57人の従者と十分な物資を送った。

8月15日にリヴィングストン一行はバングウェル湖へ向け出発し、

翌年4月29日にはバングウェル湖南側の村、チタンポへたどり着いた。

しかし、日記に探検の記録を書き付ける余力もないまま、

5月1日、マラリアの複合症により息を引き取った。



彼の従者たちは深く悲しみにくれながらも、彼の残した日記、資料、携行品などを防水の箱に入れ、

彼の亡骸に簡単な防腐処理を施してザンジバルへと運んだ。

亡骸はザンジバルで埋葬されそうになるが、

故郷のあるイギリスへ返すべきだと従者が主張したため、

海を越えてイギリスへと運ばれた。


1874年4月18日、

無事イギリスへ到着した亡骸は左腕の傷跡により確認されたのち、

ウエストミンスター寺院へ葬られる。

リヴィングストンの残した資料と日記は、

彼の友人により

"Last Journals of David Livingstone in Central Africa"

(『デイヴィッド・リヴィングストンの中央アフリカでの最後の日記』)

として編纂され出版された。



リヴィングストンのアフリカ大陸での移動は

数万マイルに及ぶと推測されており、

その生涯で南北では赤道近辺からケープタウンまで、

東西ではインド洋から南大西洋までを旅したことになる。

彼が果たせなかったナイルの水源の探求は、

意思を継いだスタンリーによって、

ルウェンゾリ山地にある水源が発見されたことにより、

19世紀の論争にはほぼ決着が付いた。




アフリカ史における功績

ザンビアの都市Livingstoneにある記念碑リヴィングストンのアフリカ史、

およびヨーロッパ列強のアフリカ観における影響は甚大である。

第一に挙げられるのが、

リヴィングストンの第一次アフリカ探検以前は、

アフリカは「暗黒大陸」(Dark Continent)という名が示すとおり、

一部を除きほとんど知られておらず、

古代ローマ期アレクサンドリアの地理学者プトレマイオスから得た知識からほとんど進展がなかった。

しかし、リヴィングストンは

探検中に天体観測による測量術を身に付け、

ほぼ正確に地図を作ることができた。

その地理上の発見はイギリスに手紙で伝えられることにより、

ヨーロッパ各地でアフリカの地図が作成されることとなり、交易のルートがそこから生まれた。


しかし、リヴィングストンの開拓した交易ルートを最も利用したのは、

象牙商人などではなく、奴隷商人たちであった。

中央アフリカへのルートが開拓されたことで、

その地域の奴隷狩りがは頻繁に行われるようになった。

そのため、インド洋を中心とした奴隷貿易はむしろ活発化してしまい、

ザンジバルの奴隷市場は中央アフリカ最大と呼ばれるまで成長した。

著書や手紙で再三ポルトガル領やスルタンによって行われている奴隷市場の廃絶を繰り返し訴えていたため、

危機感を抱いた奴隷商人に探検中に何度も妨害され、時には暗殺されかかった。

彼の運動は1871年、国民からの庶民院への要望提出により実を結び、

数ヵ月後、ザンジバルの奴隷市場は閉鎖された。


アフリカ大陸での奴隷貿易はそれからも各地で細々と続けられ、

のちにヨーロッパ列強がアフリカ政治へ介入する口実となり、

列強はアフリカ分割へと突き進むこととなる(en:African slave trade参照)。

列強のアフリカ進出においてリヴィングストンよりも直接的な影響を与えたのがスタンリーである。

彼は優秀な探検家である一方、ベルギー国王レオポルド2世の委託を受け、

アフリカ各地の集落の族長などに貢ぎ物を与え、コンゴ自由国の建国などで多大な役割を果たした。


探検家でありながら結果的にヨーロッパの植民地支配のために尽力することとなったスタンリーに対し、

リヴィングストンは、自身ではあくまでも自分の第1の目的は宣教であり、

探検はその拠点を探索するための手段であると著書の中で述べている。

彼の功績により、ヨーロッパからの宣教師の流入は格段に増え、

彼の著書に触発され、宣教師を志す若者も増えたと言われている。


ザンビアには彼を称えた都市リヴィングストンがあり、

今も彼の記念碑と彼の資料を集めた博物館が建っている。




長い長い「リビングストンの生涯」を読んでいただいてありがとうございました。

ビクトリア滝を見るにあたり、こんな知識を持っていたならば・・・感動もひとしおであります。

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最終更新日  2008.08.23 16:27:48
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