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テーマ:世界遺産紀行(1112)
カテゴリ:ボスニア・ヘルツェゴビナ
言い訳をしておきたい事がありまして「ボスニア・ヘルツェゴビナ」に行ったのは・・・興味本位の戦場跡の見学では、ありません!モスタルの街には、有名な「橋」があります。長い歴史を経て「橋」は、何を語ってくれるのでしょうか?
『ボスニア・ヘルツェゴビナ旅日記』・・・モスタル ![]() 15世紀にトルコ人が、やってくる前に ネレトヴァ川の鎖橋付近の左岸には 小さな集落がありました・・・ 「橋」がある事で街は、急速に発展し 15世紀半ば 1477年 モスタルの人家は、19軒だったそうです。 トルコ軍が、この集落を占領したのは、1466年頃 集落は「橋上の砦」を意味する 「ケプル・ヒサル」と呼ばれ モスタルと言う名前は・・・ 1474年ころから呼ばれたそうですが、 鎖橋の守備隊が、ネレトヴァ橋の両岸の塔に居たので 「MOSTARI」と呼ばれました。 この呼び名は、1440年に初めて登場しており MOST・・・とは? 現地スラヴ語で・・・「橋」であります。 トルコ統治下で、鎖橋の近くに・・・ 1566年 石造りの橋が完成し 街は、大きく発展し・・・いくつかの塔や ![]() 立派な門にモスク レストラン トルコ風の工芸品工房ができて 金属加工 繊維 タバコ 建材製造 そして観光 ![]() 街は、独特の文化が発展してゆきます。 街を歩くと・・・今でも不思議な世界に入り込んで 怪しく・・・小さなバザールに潜入 ![]() むっちゃ~怪しいです♪ ぐるぐる見て・・・やっぱし怖すぎるので脱出 美味しそうなスイーツ発見! ![]() 興味津々 ![]() その後 モスタルは、色々な国の支配下になります。 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の時 それは・・・大昔の事ではありません! 1992年~1993年にかけ 18ヶ月間 街は・・・悲しい内戦に 「橋」は、 クロアチア勢力軍に寄って破壊されてしまいます。 モスタルの住人たちにとって・・・ 思い入れのある「橋」を失う事は、 ふるさとを失う事と同じであります。 そして、沢山の住人が ![]() 同じ街に住んでいる同士が戦い 命を失い ![]() 街には、新しい墓標が沢山ある墓地 激しい戦闘から逃れ・・・他国に逃げた人も多かった こんな悲しい歴史を語りたく無いですが・・・ ![]() この【世界遺産】モスタル旧市街の古橋地区 「Old Bridge Area of the Old City of Mostar」 ブログ苦しいです ![]() ![]() ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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