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「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

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2017.09.18
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【ローマ旅行】を企てております。今回はまず、朝の8:30ベルベリーニ宮『国立古典絵画館』Palazzo Barberiniで古典絵画を2時間鑑賞して・・・♪


行く先は、超ベタなトレビの泉やスペイン広場でランチの予定(^0^)b

8:30~11:00「バルベニーリ宮・絵画館」を出てから・・・

クイリナーレの丘「クイナーレ宮殿」を右に見て

「4つの噴水」Quattro Fontaneの角を右に曲がり歩いて・・・左の

バロック期の教会に↓入る予定です~(^0^)b


サンタンドレア・アル・クイリナーレ教会

Chiesa di Sant'Andrea al Quirinale

地下鉄A線 バルベリーニ駅からだと「徒歩10分」


1658年~61年に建設されたイエズス会の教会。

ベルニーニが設計した劇場的な空間は必見!!

イオニア式円柱が支える神殿風ファサードを抜けると、

横長に楕円を描く本堂が開ける。

本堂に入った瞬間に至近距離で神と対峙するという

ドラマチックな空間を演出。

ローマにあるバロック式の建築の中でも最も上品なもので、

また大理石、金などを使った内部装飾も素晴らしい。



【公開時間】

8:30~12:00 (だから12時前に到着せねば・・・なりません!)

14:30~18:00

【料金=無料】



クイリナーレ・・・とは?


クイリナーレ

イタリア語: Quirinale

ラテン語: Quirinalis (クイリナリス)

ローマの街の元となったローマの七丘の一つ。


クイリナーレの丘

イタリア語: Colle Quirinale

ラテン語: Collis Quirinalis


また、この名前はイタリア共和国大統領官邸となっているクイリナーレ宮殿を指すこともある。


現代の街区で凡そこの範囲を説明するならば、

9月20日通り(Via Venti Settembre)

およびクイリナーレ通りを尾根線とし、

丘の先端はクイリナーレ広場と

クイリナーレ宮殿・クイリナーレ庭園である。

陸の付け根はピア門付近である。

丘の幅は狭く幅500mほどであり、

ヴィミナーレの丘との間の谷は

ナツィオナーレ通り(Via Nazionale)

ピンチョの丘との間の谷は

サン・ニコラ・ダ・トレンティーノ通り(Via di San Nicola da Tolentino)や

バルベリーニ広場付近である。


クイリナーレの丘に立ち並ぶ宮殿

ルイジ・ロッシーニが1827年に発行した『ローマ七丘今昔』版画のシリーズ

現在のトレヴィ近くのアッカデーミア・ディ・サン・ルーカ宮殿から見た景色で、

そこは架空の庭となっている

元々は「Collis Latiaris」、「Mucialis」(または Sanqualis)、

「Salutaris」という丘の集まりの一部分であった。

16世紀に始まった建物の建造によりそれらの区別は失われた。

ローマの伝説に基づくとクイリナーレの丘にはサビニ人の小さな村があり、

ティトゥス・タティウス王はローマとサビニとの和平後にそこに住んだとされる。

サビニ人は彼らの神「クゥイリーヌス」に捧げた祭壇を

ここに立てた(神の名は丘の名前となった)。

紀元前8世紀と7世紀の墓が発見され、

サビニ人がこの区域に住んでいた証明ではないかとされる。

丘の上にはルキウス・パピリウス・クルソルが

第三次サムニウム戦争後に勝利を記念した神殿に移したクイリヌスの墓があった。

幾人かの著述家は「三主神」(ユーピテル、ユーノー、ミネルワ)を

カンピドリオより前にここで祭っていた可能性を考えている。

オスク=サビニの神フローラの聖域もここにあった。

紀元前446年、サンクス (古代ローマ)神に神殿が捧げられ、

それは他の神殿の廃墟の上に建てられた。

またアウグストゥスはマールスに捧げる神殿を立てるように命じた。

コンスタンティヌス1世は街の最後の浴場を建設する命令を出した。

この建物は失われてしまったが、いくつかの16世紀の絵画には見ることができる。

中世にはミリツィエの塔とサンティ・ピエトロ・エ・ドメニコ修道院が建設され、

コンスタンティヌス浴場の上にはロスピリオージ宮殿が建てられた。

この宮殿には現在もクイリナーレ広場にあり

二つの有名なディオスクーロイ騎馬像と、

ミケランジェロがカンピドリオのセナトリオ宮殿の

階段上に移動させた二つの川の神の像があった。

【古代ローマ時代の地形】


初期ローマの七丘都市ローマ成立前に人が定住したと伝えられる七丘で、

オッピウス(オッピオ)、

パラティウム(パラティーノの東側)、

ウェリア(ヴェーリア)、

ファグタル(オッピオの一部)、

ケルマルス(パラティーノの西側)、

カエリウス(チェリオ)、

キスピウスの7つである。

※カッコ内は現代のイタリア語での表記。ローマの七丘



都市ローマの起源となったローマの七丘は、

アウェンティヌス(アヴェンティーノ)、

カピトリヌス(カンピドリオ)、

カエリウス(チェリオ)、

エスクイリヌス(エスクイリーノ)、

パラティヌス(パラティーノ)、

クイリナリス(クイリナーレ)、

ウィミナリス(ヴィミナーレ)の7つである。

※カッコ内は現代のイタリア語での表記。



現代のローマ七丘

アウェンティヌス(アヴェンティーノ)、

カピトリヌス(カンピドリオ)、

パラティヌス(パラティーノ)、

クイリナリス(クイリナーレ)、

ホルトゥロルム(ピンチョ)、

ヤニクルム(ジャニコロ)、

オッピウス(オッピオ)の7つである。

※カッコ内は現代のイタリア語での表記。


【見どころ】


クイリナーレ宮殿 -

1583年、ローマ教皇グレゴリウス13世のパラッツォして造られ、

現在はイタリア共和国大統領官邸として使われている。



サンタンドレア・アル・クイリナーレ教会 -

カミッロ・パンフィリ枢機卿(インノケンティウス10世の甥)に呼ばれた

ジャン・ロレンツォ・ベルニーニが計画し、

ローマのバロックのもっとも上品な手本の一つで、

有名な遠景の平面図とすばらしい内装(大理石、スタッコ、金の装飾)を持つ。



クアットロ・フォンターネとサン・カルロ・アッレ・クアットロ・フォンターネ教会 -

建築家ボッロミーニの最初と最後の作品でファサードは彼の死後完成した。

「サン・カルリーノ」とも呼ばれ、

元々はサン・カルロ・ボッロメーオ三位一体教会。



ヴォルピ・ディ・ミズラータ宮殿 - サン・カルリーノ教会前

ドラーゴ宮殿

バラッキーニ宮殿(現在は防衛省が置かれている)



サン・シルヴェストロ・アル・クイリナーレ教会 -

1000年前後に最初の記載があるが、

16世紀に再建され、19世紀にはファサードが改築された。



コロンナ荘(17世紀)- ロスピリオージ宮殿の前にあり、

カラカッラのセラーピス神殿の跡もある。



コンスルタ宮殿

- 現在はイタリアの最高司法府である憲法裁判所となっていて、

クレメンス12世のためにフェルディナンド・フーガによって建てられた。

クイリナーレ宮殿の前にある。



ディオクレティアヌス浴場 -

ローマ帝国皇帝ディオクレティアヌスが306年に建設した公衆浴場。

隣のヴィミナーレの丘との間付近に位置する。



【アクセス】

ローマ地下鉄A線 バルベリーニ駅およびレプッブリカ駅 (どちらも丘の麓にある)



グレゴリウス13世・・・とは?



グレゴリウス13

Gregorius XIII

1502年1月7日 - 1585年4月10日

第226代ローマ教皇(在位:1572年 - 1585年)

本名=ウーゴ・ブオンコンパーニ(Ugo Buoncompagni)

学問を好み、奨励したことで知られ、その治世にずれが累積していたユリウス暦を廃し、

グレゴリオ暦とよばれる新暦を採用したことでも有名。


【教皇登位まで】

ウーゴはボローニャ生まれ。

地元の名門ボローニャ大学で法学を修め、1530年に学位を得た。

その後、同大学で法学の教官として教壇に立っていた。

生徒の中には、カルロ・ボッロメーオやアレッサンドロ・ファルネーゼなどがいた。

36歳にして教皇パウルス3世によってローマへ招かれ、教会法関係の業務についた。

枢機卿にあげられたのは教皇ピウス4世の時代であり、トリエント公会議にも参加している。


【治世】

・・・教会改革とグレゴリウス暦の採用・・・

1572年5月、教皇ピウス5世の死去を受けておこなわれた

コンクラーヴェにおいてブオンコンパーニ枢機卿が新教皇に選ばれ、

グレゴリウス13世を名乗った。

教皇位についた彼がまず全精力を傾けて取り組んだのは教会改革であった。

特にトリエント公会議の決議の実施を徹底させ、

不在司教が問題になっていたことを受けて

司教や枢機卿は自らの担当地域に住むことを徹底させた。

さらに公会議後に実施されることが決まっていた

禁書目録の作成を実行するため委員会を任命している。

グレゴリウス13世治世の事跡で

もっとも有名なものは何と言っても

「グレゴリオ暦」として知られる新暦の採用である。

ユリウス暦のずれはすでに数百年前にロジャー・ベーコンによっても指摘されていたが、

トリエント公会議において教皇庁への委託業務として新暦の研究が決定されていた。

これを受けて教皇はこの業務のためシルレト枢機卿を長とする委員会を設立して検討させた。

委員会の中には当代随一の天文学者であったドイツのイエズス会員

クリストファー・クラヴィウスも含まれており、

時代の先端をゆく科学的事業であった。

この委員会の研究と決定を受けて1582年2月に暦の切り替えの勅令が発せられ、

暦の切り替えは1582年10月におこなわれることになった。

まずカトリックの国であるイタリア、スペイン、ポルトガル、ポーランドなどで採用され、

ユリウス暦の1582年10月5日が10月15日に改められた。

プロテスタント諸国は当時、

暦であってもカトリックの影響力を受けるのは

不本意としてグレゴリオ暦を受け入れなかった。

また、正教会にあっては教会暦の変更は

奉神礼の日時に多大な影響を被るものであり、

ローマ・カトリック教会の独断で教会暦が変更される事は受け入れられるものではなく、

新暦採用は東西教会の亀裂を深めた。

しかしやがてこの暦は

プロテスタント諸国・正教諸国を含めた世界中で採用されることになり、

現代に至っている。

ただし正教会に属する教会のうち幾つかの教会

(エルサレム総主教庁、グルジア正教会、ロシア正教会、セルビア正教会、日本正教会など)では、

当該地域の世俗国家はグレゴリオ暦を使用していても

(イスラエル、ロシア、日本など)、依然として教会内ではユリウス暦が使用されている。

また、法学者としてピウス5世時代に始められた教会法の改訂もおこなわせており、

『教会法集成』として完成させた。


【外交政策】

政治的には教皇はイスラム教国への対抗姿勢を示しつつも、

プロテスタント諸国の動向が気になっていた。

彼は聖職者養成のため、多くの神学校を設立し、

イエズス会の教育事業を強力に後押ししている。

この時代、イエズス会は多くの学校をヨーロッパに設立している。

中でも有名だったのが、ローマにあったローマ学院である。

これは優れた聖職者を養成するために設立されたものであったが、

教皇はローマ学院に大規模な援助を行い、その規模を拡張させた。

教皇のこの業績はこの学校の現在もつづく名称である

「グレゴリアン大学」という名前に記念されている。

カトリック諸国のリーダーとして、

教皇がイングランド女王エリザベス1世の統治の転覆を支援したことは

イギリスにおいてカトリック教徒が敵視される原因をつくってしまった。

1578年には自らの軍勢を与えたトーマス・スタークレーに命じて

イギリスの膝元であったアイルランドへの侵攻をおこなわせようとしたが、

スタークレーは与えられた軍をもってポルトガル王セバスティアン1世と合流し、

モロッコ攻撃(アルカセル・キビールの戦い)をおこなってしまったため

企図は果たせなかった(スタークレーとセバスティアンは戦死)。

1572年8月にフランスでサン・バルテルミの虐殺が起こって

プロテスタント支持者たちが多数殺害されると、

「テ・デウム」を歌って神を賛美し、記念メダルを作らせている。

ただ、この教皇の行動はプロテスタントの死を喜んだのではなく、

フランス王や実行者側がこの虐殺事件を、

王に対する反乱の計画者たちの誅殺であると国外に巧みに喧伝したため、

それを教皇が信じていたためという見方もある。


伊東マンショとグレゴリウス13世の謁見の場面



ローマにおいてはサン・ピエトロ大聖堂にグレゴリウス聖堂を建築し、

1580年には現在でも首相公邸として用いられている

クイリナーレ宮殿を造営させている。

さらにディオクレティアヌス浴場を穀倉に改造もしている。

これらの資金は教皇領内の資産を没収するなどしておこなったため、

貴族たちの反感を集め、統治に混乱をきたすことにもなった。

また、愛人との間にもうけた庶子ジャコモを引き立てて、

サンタンジェロ城の城主、教皇領国務長官などに抜擢している。

教皇の歓心を買おうとしたヴェネツィア共和国はこのジャコモを貴族に加え、

スペイン王フェリペ2世は将軍位を与えている。

ちなみに天正遣欧使節の少年たちは、

この教皇の治世最晩年にあたる1585年3月に教皇の謁見を受け、

ローマ市内でも大歓迎を受けた。

なお、現存する最古の教皇冠はグレゴリウス13世時代のものである。



・・・「スペイン広場」近くでランチしてから「ボルゲーゼ美術館」午後2時到着の予定・・・


うまくゆくでしょうかね(^-^)b

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最終更新日  2017.09.18 00:00:34
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