7477872 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

「きらりの旅日記」

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

カレンダー

プロフィール

ほしのきらり。

ほしのきらり。

カテゴリ

2018.01.22
XML
カテゴリ:美術館・博物館
​​​​​​ヴァチカン美術館「ラファエッロの間」署名の間『アテネの学堂』の右側に・・・

球体を持つて立つ2人の姿・・・何を意味しているのでしょうか?



Musei Vaticani Stanze di Raffaello Stanze della Segnatura Scula di Atene

ヴァチカン美術館 ラファエッロの間 セニャトゥラの間 アテネの学堂 理性の心理



きらりのわがまま『ヴァチカン旅日記』アテネの学堂


天球を手に持つ人物は・・・

天文学の創始者とされた「ザラスシュトラ」


ゾロアスターと同定されてきた。


この人物はまた


伝統的にバルダッサッレ・カスティリオーネの肖像とも考えられている。


ルネサンスの時代には


ザラスシュトラは、神学者でもあり


その教えから哲学が生まれたと考えられていた。


彼の前には、後ろ向きの姿で・・・


天動説を唱えた2世紀の天文学者プトレマイオスが


ラファエッロの筆によって


不朽の姿を与えられている。


その手元には、確かに地球が描かれている


紅海の部分が赤く塗られている!


彼は、さらに王冠を被っているが


これは、プトレマイオスが


長きにわたってエジプト王家の一員と誤解されてきたからである。



ザラスシュトラ・・・とは?

(ウィキペディアさまより)

ザラスシュトラ

アヴェスター語:Zaraθuštra、ペルシア語: Zartošt ,زرتشت‎、

紀元前13世紀?~紀元前7世紀?

ゾロアスター教の開祖である。

近年の研究では、

前10世紀から前11世紀にかけて活躍したといわれるが、

研究者によって異なる。

たとえば、前1750年から前1500年にかけて、

また前1400年から前1200年にかけて、

イランの伝統では前570年頃、

パーシー教では前6000年より以前ともされる。

一神教を最初に提唱したともいわれるが、

ゾロアスター経典の中には、

古代アーリア人に共通する多くの神々が登場する。

したがって、正確には

「数多くの神々の中から、崇拝に値する神をアフラ・マズダーだけとした」

人物である。

その教えは、ユダヤ教、キリスト教に影響を及ぼした。

ニーチェの著作『ツァラトゥストラはかく語りき』の影響から

「ツァラトゥストラ」として有名だが、

これはペルシア語での呼称をドイツ語読みしたものである。

日本語では英語名の転写ゾロアスター(Zoroaster)の名で知られるが、

これは古代ギリシア語での呼称である

ゾーロアストレース(Ζωροάστρης, Zōroastrēs)に由来する。



ザラスシュトラの本来の教えは、

イランの神話的聖典である『アヴェスター』内の

「ガーサー」部分の記述がそれに相当すると考えられる。

インドの『リグ・ヴェーダ』などとの言語学的比較から、

ガーサーは紀元前15世紀頃から

紀元前13世紀頃に成立したと考えられる。

ここからメアリー・ボイスなどは、

ザラスシュトラの生存した年代をこの期間のいずれかに比定している。

伝承は、

スピタマ家(Spitamids)のポウルシャスパ(Pourušaspa)の子が

ザラスシュトラであるとする点では一致し、

その生涯のエピソードなどもほぼ一致して詳細が語られる。

古代ギリシア人は、

アケメネス朝ペルシアの知識人を通じてザラスシュトラの名を知り、

彼らの歴史にザラスシュトラについての記録を残したが、

その中では、

彼らの時代よりも5千年以上過去の人物であるとか、

神話的に把握されていた。

従って、

古代ギリシアの文献記録の記述は

歴史上のザラスシュトラについて正確とは言い難い。

ただし、紀元前4世紀頃には

既にこのような伝承が存在していたことを

確認できるという点では史料価値がある。


・・・教え・・・

ザラスシュトラの教えは、

後にゾロアスター教としてまとまった宗教体系となるが、

ザラスシュトラの教えが述べられているとされる

聖典『アヴェスター』が文字で記録されたのは

後3世紀のサーサーン朝ペルシアの時代である。

この時代には、

ペルシア語は中世ペルシア語となっており、

アヴェスター語とも呼ばれる古代ペルシア語は

この当時すでに解読が困難であった。

特にその最古層に属するガーサー部分は、

今日でも解釈に異論があり確かなことが分からない。

ザラスシュトラ自身の教えの言葉が含まれるとされるガーサーは

古代ペルシア語の方言で記されており、一層解読に問題がある。

ザラスシュトラの教え自体は生前すでに大きな影響力を持ち、

口伝で『アヴェスター』及びその教えや儀式は伝わっていった。

アケメネス朝ペルシアの王たちはザラスシュトラの教えに帰依していたが、

その帝国の住民にザラスシュトラの教えを「国教」として強制することはしなかった。

このような状態は、

アケメネス朝を滅ぼしたアレクサンドロス大王の

後のギリシア人の王朝であるセレウコス朝シリア、

そして再びペルシア人自身の王国となった

アルサケス朝ペルシア(パルティア)においても同様であった。

ただ、アルサケス朝では、

国教化への準備とも言える、

『アヴェスター』の文字化や儀式・祭礼の文書化などが試みられていた。

アルダシール1世による突然のアルサケス朝の転覆と、

それに続くサーサーン朝ペルシアの成立において

マニ教を弾圧した大神官キルディール(カルティール)などの活躍により、

3世紀半ばになってゾロアスター教は

サーサーン朝の国教となった。

400年後、

イスラム教の成立とイスラム帝国の勢力拡大により

サーサーン朝は滅び、

ゾロアスター教はイスラム教に取って代わられる。

しかし、ザラスシュトラの教えはイスラム教内部にも浸透しており、

シーア派などにもザラスシュトラの教えとされる思想が認められる。

ニーチェの時代、

ヨーロッパではザラスシュトラの思想は一つの流行となっていた。

ニーチェがどこから資料を得たのか不明であるが、

後年の研究成果と比較しても、

かなり正確な知識を持っていたと思える。

ただ、その著作『ツァラトゥストラはかく語りき』は、

ニーチェ自身の思想をザラスシュトラに仮託して述べたものであり、

ゾロアスター教との相関はほとんどない。

ザラスシュトラの教えには、

「永劫回帰」などはない。

恐らくは、リグ・ヴェーダ中の記述と

混同した結果のニーチェの誤認である。

・・・説明おわり・・・


プトレマイオスにおとめ座ぽち右矢印にほんブログ村 旅行ブログ 世界遺産へ
​​​​​​





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2018.01.22 12:00:09
コメント(0) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.