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カテゴリ:美術館・博物館
Emille Galle『ガレ』の素晴らしい作品が並んでおります~ベルギー王立美術館最後に鑑賞する
19世紀末「世紀末美術館」地下8階には、多くの作品や家具が並びます きらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第87回 Fin-de-siecle-Museum Level-8 Gillion Crowet 見事なコレクションのお皿です 素晴らしいクオリティです~ ガラス越し撮影なので~照明の反射があります エミール・ガレ Emmile Galle 1846-1909 Hippocampe Het zeepaardje The Sea Horse エミール・ガレ・・・とは? シャルル・マンタン・エミール・ガレ Charles Martin Emile Galle 1846年5月4日-1904年9月23日(58歳没) 【アール・ヌーヴォー】を代表するフランス人 ガラス工芸家、陶器・家具のデザイナー アートディレクター、企画経営者である。 ガレは・・・ 1846年5月4日、ファイアンス焼きと家具の工場の息子として フランス・ロレーヌ地方ナンシーで誕生。 1858年、ナンシー帝立高等中学校(リセ)に入学。 修辞学、文学、哲学、植物学、に優れた成績を修める。 1865年秋~1867年、ドイツ・ヴァイマルに留学。 ドイツ語の研修とデザインを修めた。 1866年~1867年、マイゼンタールの ブルグン・シュヴェラー社Burgun Schwerer & Cie のガラス製造の技術を習得した。 国内外で「エミール・ガレ」を鑑賞しましたが~なんと素晴らしい ガレは・・・ 1870年、プロシアとフランスの間に「普仏戦争」が始まり 義勇軍に志願した。 1871年、プロシア軍はフランス軍を圧倒しパリに入城。 敗戦国となったフランスは・・・ フランクフルト条約により ガレの故郷ロレーヌ地方の一部と、アルザス全域を割譲した。 ガレは・・・ 退役後、父についてイギリスを訪問。 「サウス・ケンジントン美術館」を見学。 ガレは・・・ 1877年、父に代わり工場管理責任者となる。 1878年「パリ万国博覧会」に独自に開発した 月光色ガラス(酸化コバルトによって淡青色に発色された素地)や 陶器を出品し、銅賞を受賞。 庭園装飾のための陶器でも銀賞を受賞。 1879年以降は・・・ ほぼ毎年、販売品の大部分を登録したと考えられているが 現存するアルバムは少ない。 1882年、フランス北東部にあるナンシーの 労働裁判所に意匠登録用の29枚のアルバムを提出。 これは・・・ 1980年代初頭のオークションで「北沢美術館」が入手した。 1884年、装飾美術中央連盟主催の 「石木土そしてガラス展」に出品し、金賞を受賞。 1885年~、ナンシー水利森林学校に留学中の 農商務省官僚「高島得三」と交流を持ち 日本の文物や植物などの知識を得たといわれる。 水墨画を得意とする高島は、 ナンシーで400点ほどの作品を描いた。 ガレも高島から2点の絵画を譲られたという。 ガレは・・・ このような交流が、契機となって 水墨画的なぼかし表現を伴う黒褐色のガラス のちに作者により『悲しみの花瓶』と命名される 1887年頃の作品のことである。 1886年、ナンシーの自宅近辺で建設した家具工房で製造を開始。 1889年「パリ万博」に大量の作品を出品。 自社製のパヴィリオンを用意して展示作品の演出も試みた。 その結果、 ガラス部門でグランプリ 陶器部門で金メダル 家具部門で銀賞を受賞し 装飾工芸家として国際的な評価を得る。 特に黒褐色のガラス素地を使用した一連の作品は、評判が良かった。 代表作に「オルフェウスとエウリディケ」がある。 1894年、家具工場が建つ敷地を買い増しして ガラス製造のために工場を完成させる。 1898年「マルケトリ技法」「パチネ素材」で特許を取得。 1900年『パリ万博』に大量のガラス器、家具を出品。 再び、グランプリを獲得し、ますます評価を高める。 1901年「エコールド・ナンシー」ナンシー派の会長に就任。 1903年、 パリ「ルーヴル宮マルサン館」で開催された『ナンシー展』に出品。 1904年9月23日(58歳)、白血病により死去。 (資料:ウィキペディアさまより) 【代表的な技法と作品について】知りたい 『マルケトリ』marqueterie ガラスパーツをガラスへ象嵌する方法。 『パチネ』patine (古色をつけた)の意味。 ガラスの表面を錆色にくもらせたり、濁らせる技法。 『もの言うガラス』 表面に詩の一説や警句などを記すデザインのガラス器についた名前。 『ファイアインス焼き』 ガレが、家業を継いで制作されたもの。 型を使った大量生産で日用雑器から芸術作品まで 幅広く装飾的な製品を作っていた。 このような製品は、ガレ亡き後の工房では、作られなかった。 その工房は、画家の「ヴィクトール・プルーヴェ」と 夫人の「アンリエット」によってて経営を続けた。 製造品目は、 エッチングによるカメオ彫り製品が大半を占めた。 エミール・ガレ Emmile Galle 1846-1909 Chrysanthemes Chrysanten Chrysanthemums ・・・つづく・・・ 世紀末美術館にぽち お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019.07.13 00:10:16
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