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「きらりの旅日記」

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プロフィール


ほしのきらり。

2020.10.02
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カテゴリ:美術館・博物館
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​近代絵画の創始者「エドゥアール・マネ 」の51年の生涯とは?全体をザックリと、とりあえず知っておきしょう手書きハート


葉​・エドゥアール・マネ の年表・葉


​​ニューヨーク『グッケンハイム美術館』にて撮影おとめ座


​エドゥアール・マネ​ 

Edouard Manet
​​
​​
1832年1月23日〜1883年4月30日(51歳没)

19世紀フランス『近代絵画の父』

近代の扉を開いた先駆者的な画家である。

印象派の画家たちに大きな影響を与えた。


葉​​​画家:エドゥアール・マネの年表​葉


​​​1832年1月23日(当時マネ0歳)​​​​​

​​​パリ、プティ=ゾーギュスターン街5番地の

裕福なブルジョワジーの家庭に

父:オーギュスト・マネ

母:ウジェニー=デジレ・フルニエの長男として誕生。

​1833年11月21日(1歳)​​

弟:ウジェーヌ誕生​。

​​1835年3月16日​(3歳)​

弟:ギュスターヴ誕生。

​​1844年​(12歳)​

コレージュ・ロラン入学。

生涯の友:アントナン・ブルーストに出会う。

ブルーストとともに「ルーヴル美術館」を訪れ絵画に親しむ。

​1848年7月末​​​(16歳)​

コレージュ・ロランを卒業。

海兵隊学校への入学試験に失敗。

12月

リオ・デ・ジャネイロ行きの練習船に見習い船員として乗船。

航海の間、乗組員などのカリカチュアを描く。

1849年2月(17歳)​

リオ・デ・ジャネイロに到着。

​6月​

ル・アーヴルに戻り、再び海軍兵学校の試験にのぞむが失敗。

父に画家になることを告げ、許しを得る。

弟たちにピアノのレッスンをしていた

未来の妻:シュザンヌ・レーンホフに出会う目がハート

1850年9月(18歳)​

友人:アントン・ブルーストとともに

「トマ・クチュール」のアトリエに入門。

(1856年2月までトマ・クチュールのアトリエで学ぶ)

1851年(19歳)​

ナポレオン3世によるクーデターが勃発。

マネは、大通りに出てこの事件を目撃。

1852年1月?2月(20歳)​

シュザンヌ・レーンホフの私生児:レオン・コエラ=レーンホフ誕生。

父親は、おそらく「マネ」と思われる。

​7月​

初めての「オランダ旅行」でアムステルダムの

「国立美術館」を訪れ、絵画を模写。

1853年秋(21歳)​

弟:ウジューヌとともに「イタリア」を訪問。

ヴェネツィアやフィレンツェで、

ティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」や

フィリッポ・リッピなどの巨匠たちの作品の模写に励む。

1855年(23歳)​

ブルーストとともに「ドラクロワ」のアトリエを訪問。

ドラクロワ『ダンテの小舟』1822年

の模写を『ルーヴル美術館』許可を申し出る。

1856年(24歳)​

クチュールのアトリエを去る。

動物画家:アルベール・ド・バルロワとラヴォワジェ街のアトリエを借りる。

1857年(25歳)​

ルーヴル美術館でアンリ・ファンタン=ラトゥールと出会う。

​11月から​

2度目の「イタリア旅行」フィレンツエへ赴き

アヌンツィアータ教会の「アンドレアレア・デル・サルト」の壁画を模写。

1859年(27歳)​

『アブサンを飲む男』

サロンで落選。

模写生として登録したルーヴル美術館で

エドガー・ドガと出会う。

1860年(28歳)​

シュザンヌとレオンとともにバティニヨール地区の

ロテル・ド・ヴィル街にアパルトマンを借りる。

1861年(29歳)​

サロンに送った

『オーギュスト・マネ夫妻の肖像』


『スペインの歌手(ギタレロ)』

が「佳作」となる。

1862年(30歳)​
​エッチング画家協会が設立され、設立当初から参加。
​​
9月​

父:オーギュスト・マネが死去。

ヴィクトリーヌ・ムーランと出会い

お気に入りのモデルとなる。

1863年5月15日(31歳)​

サロンに落選した作品を集めた

「落選者展」で『草上の昼食』を発表。



スキャンダルを巻き起こす。

その左側に『マホの衣装を着けた若者』

右側に『スペインの衣装を着けて横たわる娘』を並べ

他3点のエッチングとともに展示した。

​10月​

オランダでシュザンヌと正式に結婚ハート

1864年(32歳)​

サロンに『死せるキリストと天使たち』


『闘牛のエピソード』を出品。

ファンタン=ラトゥルのサロン出品作

『ドラクロワ礼賛』のためにポーズをとる。

​11月​

バティニヨール街34番地のアパルトマンに転居。

1865年(33歳)​

サロンに『侮辱されるキリスト』

『オランピア』

が入選するが、またまたスキャンダルを巻き起こす。

ファンタン=ラトゥールのサロン出品作

『バティニヨールのアトリエ』のためのポーズをとる。

​夏​

ブローニュで『キアサージ号とアラバマ号』

をはじめとする一連の海景画を制作。

​8月​

スペイン訪問。のちのマネのモデルとなり、

遺言執行人となったテオドール・デュレと出会う。

1866年4月(34歳)​

サロンに出品した『笛を吹く少年』

『悲劇役者』がともに落選するが

作家:エミール・ゾラが「レヴェヌマン」紙上でマネを公に賞賛。

​5月​

モネと出会い親交を深める。

1867年(35歳)​

第2回『パリ万国博覧会』開催からもサロンからも締め出される。

万国博覧会の会場からも、それほど遠くないアルマ橋の近くに

50点の作品を展示するためのパビリオンを建設して個展を開き

1864年の『闘牛のエピソード』から

横たわる闘牛士だけを切り取った作品

『死せる男』を発表。


​6月​

メキシコでマクシミリアン皇帝が処刑される。

マネは、この事件に取材した作品に着手する。

ボードレール死去。

1868年夏(36歳)​

ブローニュ=シュル=メールで家族とヴァンカスを楽しむ。

​7月​

ファンタン=ラトゥールから

ベルト・モリゾとその姉エドマを紹介される。

1869年(37歳)​

『マクシミリアン皇帝の処刑』

がサロンで拒否される。

ゾラは、「ラ・トリビュン」紙でマネを庇護する。

『バルコニー』


『アトリエの昼食』

がともにサロンに入選。

​2月​

エヴァ・ゴンザレスがマネの内弟子となる。

1870年5月(38歳)​

ファンタン=ラトゥールがマネを讃える

『バティニョールのアトリエ』をサロンに出品する。

​9月​

プロセイン軍の侵攻に備えて、

家族をピレネー山脈のオロロン=サント=マリーへ疎開させる。

​11月​

国民軍に中尉として入隊。

1871年2月(39歳)​

パリを去り、疎開していた家族と合流する。

​3月18日​

パリ蜂起。パリに戻るつもりだったマネは足止めされる。

パリ・コミューン後、すぐにパリに戻ったと思われる。

1872年(40歳)​

画商:デュラン=リュエルがマネの作品24点を購入。

​1月​

オランダ再訪問。

​夏​

サン=ラザール駅近くにアトリエを移転。

1873年春(41歳)​

『オペラ座の仮面舞踏会』を制作。


サロンに『ルボン・ボック(良きジョッキ)』


『休憩(ベルト・モリゾの肖像)』

サロンで入選し、マネの人生において初めて公に人から認められる。

このころ、詩人:マラメルと出会う。

1874年(42歳)​

マネの弟:ウジューヌと女流画家:ベルト・モリゾが結婚ハート

カピシーヌ大通りのナダールのアトリエでいわゆる

第1回『印象派展』が開催される。

マネは、参加の招待を受けていたが、展覧会に参加せず。

1875年(43歳)​

エドガー・アランポーの詩『大鴉』おおがらす

のマラルメによるフランス語翻訳の挿絵を描く。

1876年(44歳)​

サロンで落選した作品を公表するため、アトリエを一般公開する。

1877年(45歳)​

極めて当世風の娼婦を描いた自然主義的な作品である

『ナナ』

サロンで落選。

その翌月『ナナ』が、カピシーヌ大通りの

高級洋品店のショーウインドウに展示される。

冬から、サロンに出品するために

『ビヤホールのウェイトレス』


『カフェにて』を制作。


1879年(47歳)​

歌手:エミリー・アンブルと出会い、肖像画を描く。

1880年(48歳)​

健康状態が悪化する。医師から田舎での休養を指示され、

ベルヴェーに小さな家を借りる。

エヴァ・ゴンザレスやイザベル・ルモニエらに宛て

手紙や水彩画を描く。

1881年(49歳)​

療養のためパリを去り、ヴェルサイユに夏の間滞在する。

最後の大作である『フォリー=ベルジェールのバー』を制作。


​12月末​

レジオン・ド・ヌール勲章騎士賞を授与される星

1882年(50歳)​

『フォリー=ベルジェールのバー』をサロンに出品。


7月〜10月まで、リュイユに滞在。

遺書を書き、ただひとりの相続人として

妻:シュザンヌを、そしてそれらすべてをレオンに相続させるように指示。

1883年4月(51歳)​

壊疽を起した左足を切断。その予後経過が悪化

10日間高熱にうなされ苦しみながら4月30日死去。

​5月3日​

バッシーの共同墓地に埋葬され

ありとあらゆるグループに属する画家たちが参列した。


フランスが近代へと大きく舵をきった時代に生まれ落ち

変わりゆく現代をカンヴァスに描き続けたマネ

スキャンダルを巻き起こし

奔走した51年の生涯は、

画家が成し得た功績を思うと

あまりにも短すぎる歳月だった。


(資料:ウィキペディアさまより)
(資料:東京美術マネ生涯と作品高橋明也さま著書より)
(資料:Manet Jai fait ce que jai vu.フランソワーズ・カシャン著)

(写真撮影:ほしのきらり)

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最終更新日  2020.10.02 00:10:08
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