7467021 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

「きらりの旅日記」

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

カレンダー

プロフィール

ほしのきらり。

ほしのきらり。

カテゴリ

2020.10.20
XML
カテゴリ:美術館・博物館
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​ルーヴル美術館:アングルの裸婦『グランド・オダリスク 』オルセー美術館:マネが1863年に描いた「オランピア」をゆっくり鑑賞してみましょう手書きハート


葉​​​マネ:オランピアに扮したビクトリーヌ​​​葉


新古典主義の巨匠:ジャンーオーギュスト・ドミニク・アングル作

『グランド・オダリスク 』1814年 ルーヴル美術館所蔵。


​『裸婦』・・・とは?​

はだかの女性。主として、絵画、彫刻の素材としての裸身の女性をいう。


手書きハート手書きハート手書きハート手書きハート
エドゥアール・マネ 

Eduard Manet


1832年1月23日〜1883年4月30日(51歳没)


フランス写実主義の画家。印象派の指導者的な立場。


「近代絵画の父」と呼ばれた巨匠。


​代表作『オランピア』1863年​

Olympia (1863)

油彩・カンヴァス 130.5cmx190cm

パリ『オルセー美術館』所蔵。


『草上の昼食』1863年

​​​​​パリを驚かせた問題作・・・第1弾!!


続いてパリを驚かせた・・・第2弾!!

『オランピア』と『草上の昼食』のモデルは・・・?


同じモデルです。


マネのお気に入りの「ヴィクトリーヌ・ムーラン」



神話や文学的な口実を剥ぎ取った赤裸々な主題の裸体画として


当時の美術界に強烈な拒否反応を巻き起こした。


『オランピア』で描かれている女性が裸婦であることは


当時の人々には、明らかであった。


​​​​『オランピア』・・・とは?​​​​


当時、娼婦の通称だったからであるグッド


ティツィアーノの

『ウルビーノのヴィーナス』や


ゴヤの『裸のマハ』


アングルの『グランド・オダリスク 』



これらを現代的かつ皮肉に描き直したのがマネの『オランピア』


白人と黒人の女性の取り合わせは、


ナティエの『水浴するクレモン嬢』


ベヌヴィルの『オダリスク 』など


奴隷を従えた「ハレムの女」オダリスク という


長い伝統をもつ西洋絵画のテーマからとられている。
​​​​​​​

しかし、マネは・・・


「謎めいた目をした不良少女のような顔つきの目、自由奔放な娘」


であるヴィクトリーヌをありのままに描くことで


そうした格式ばった伝統的テーマを


根本的に変貌させてしまった。


しっぽを立てた黒猫が・・・


この作品にエロチックな色合いを添えた。


『ウルビーノのヴィーナス』

ヴィーナスの足元で眠る犬の代わりに


マネは『オランピア』が


左手で隠している部分をさす隠語である猫を描いたのである。


ボードレールは、


この絵から着想を得て詩を書いている。


「私は若い大女のそばで暮らしたかった

 女王の足元にいる好色な猫のように」


マネは、この猫が性的なイメージを増幅することを


おそらく予期していたはずである。


しかもX線写真で調べた結果、


​猫は後から加えられたものであることがわかった。​


それは、1865年のサロンに送る直前、


つまり完成後1年以上たってからのことと思われる。


では彼はなぜ?


わざわざこの黒猫をつけ加えたのだろう?


批評家の多くが『オランピア』を


あまりにもエロチックだとみなして


嵐のようなスキャンダルが巻き起こした時、


マネは、心底打ちのめされたいるのだから。


さらに言えば・・・


​ヴィクトリーヌの腕にはめられたブレスレットは、​


れっきとしたブルジョワジーであるマネの


母親のものであることがわかっている。


しかし、それを娼婦に身につけさせた理由は、よくわからない。


それ以外にオランピアが身につけているのは、


サンダルと、首に巻いた黒いひもだけである。


この紐も、様々な論議を呼び起こした。


女中のもつ花束も不快なものとみなされた。


本来は「付随的」な存在であるべき静物が


裸体と同じく画面の中央に配置されているかである。


そして、その裸体も「古代ふうに」


理想化されたものならば高尚な主題といえるが


マネの『オランピア』は、肉体が単純化され


生々しく描かれているため、批判された。


批評家のトレは、こう書いている


「現在の彼の欠陥は、

 一種の汎神論的態度にある。

 たとえば有名な『黒猫(オランピア)』のなかで

 彼は、スリッパと同じく顔も重視していないし

 女性の顔よりも花束に重要性を与えている」


だが、こうした「汎神的態度」こそ


「新しい絵画」の誕生を意味していたといえるだろう。


それは、数年後・・・


『印象派』と呼ばれるグループの活動によって大きな流れに結実する。


のちにマネが死ぬと、


その7年後『オランピア』の購入資金を募った人物がいる。


それが印象派のリーダーである


「クロード・モネ」だったことは、きわめて興味深い。


1890年に国家に寄贈されたこの作品は、


1907年に「ルーヴル美術館」へ入れられ


アングルの『グランド・オダリスク 』の隣に並べられた。

 

こうしてマネは死後、大勝利を収めることになったのである。


現在は・・・


アングルの『グランド・オダリスク 』は、ルーヴル美術館で


マネの『オランピア 』は、オルセー美術館に展示されている。



『オランピア』のスキャンダルから7年後、


批評家:ジュール・クラルティーがマネを、


人々の関心を引くために​「ピストルを撃った」​


と非難したとき、マネはこう反論した。


「なにをいっているんだ。

 まったくばかげている!(・・・)

 私は、自分が見たものを、

 できるだけそのまま表現しただけだ。

 たとえば『オランピア』だが

 これ以上自然なものがあるだろうか。

 人々は、そこにかたさがあるという。

 そう、かたさがあったのだ。

 私はそれを見た。

 私は見たままを描いたのだ」


しかし、1865年の時点では、


マネは、文字どおり打ちのめされていた。


彼は、当時ブリュッセルにいたボードレールに、


こう書き送っている。


「あなたがここにいてくださったらと思います。

 ぼくの上には、

 罵詈雑言が雨あられと降っています」


ボードレールは、あえて厳しく、マネを奮起させる返信を送った。


「あなたはまったく愚かな要求をしている。

 ばかにされているとか、

 冷やかしにいらいらするとか、

 認めてもらえないとか。

 あなたは、そんな立場に置かれたのは

 自分がはじめてだと思っているのですか。

​​ あなたは、政治家シャトーブリアンや

 作曲家ワーグナーより​​
才能があるのですか。

 彼らでさえ、ばかにされたのです。

 でも、彼らはそれが理由で死にはしませんでした。

 あなたが思いあがらないようにいっておきますが

 彼らは、それぞれの分野、

 豊穣なる世界における模範的存在で

 あなたはある芸術の衰退期における

 第一人者にすぎないのです。

 このような無遠慮な言い方に腹を立てないでください。

 あなたに対するぼくの友情はご存知のはずです」


衰退期という言葉は、


もちろん打ちひしがれたマネを元気づけることはなかった。


それでも彼には、


ボードレールの意図は十分に伝わったものと思われる。


ボードレールは、マネの才能を理解できない


「ブルジョアジーと大衆の愚かさ」を非難し


マネは・・・


そのような時代における第一人者であるばかりか


希望の象徴であるともいいたかったのではないだろうか。


(資料:Manet Jai fait ce que jai vu.フランソワーズ・カシャン氏著)

(写真撮影:ほしのきらり)

マネにおとめ座ぽち右矢印にほんブログ村 旅行ブログ 世界遺産へ




​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2020.10.20 17:34:25
コメント(0) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.