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「きらりの旅日記」

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プロフィール


ほしのきらり。

2020.10.31
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カテゴリ:美術館・博物館
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​近代絵画の父と呼ばれる「エドゥアール・マネ 」その51年の生涯をまとめてみましたスマイル明るくてお友達が多かったマネの画家人生・・・とは?


​​​​葉エドゥアール・マネ の年表葉​​​



見逃せないマネの見事な静物画上向き矢印『メロンと桃の静物』
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手書きハート手書きハート手書きハート手書きハート
エドゥアール・マネ 

Edouard Manet


1832年1月23日〜1883年4月30日(51歳没)


19世紀フランス・写実主義の画家。


印象派の指導的な立場、あるいは先駆者。


20世紀への「近代絵画の父」!


近代化するパリの情景や人物を


伝統的な絵画の約束事にとらわれずに描き出し


絵画の革新の担い手となった偉大な画家。


手書きハート​​『エドゥアール・マネ の年表』​​手書きハート


​1832年1月23日​(マネ・0歳)​

エドゥアール・マネが、フランス・パリ

プチ=ゾーギュスタン通り5番地に

父:オーギュスト・マネ(フランス・法務省の高級官僚)

母:ウジェニー=デジレ・フルニエ(祖父が外交官)

の長男として大変裕福なブルジョワジーの家庭に生まれる。


​​1833年11月21日(1歳)​​

弟:ウジューヌ・マネ=誕生。

(のちに官庁の書記官となり、兄:マネの影響で日曜画家であった)


1835年3月16日(3歳)​

下の弟:ギュスターヴ・マネ=誕生。

(のちに弁護士、パリの市会議員、検察官などを務める)


1844年(12歳)​

マネは、「コレージュ・ロラン」に入学。

生涯の友「アントナン・ブルースト」に出会う。

​​​​​​ブルーストともに『ルーヴル美術館』をしばしば訪れ、絵画に親しむ音符


1848年7月末(16歳)​


「コレージュ・ロラン」を卒業。​

父は、法律家の道を望むも

海軍兵学校への入学試験を受験、不合格ショック


​12月、​リオ・デ・ジャネイロ​行きの練習船に船見習い船員として乗船。

航海の間、乗務員などのカリカチュア(似顔絵)を描いて喜ばれる。


1849年2月(17歳)​リオ・デ・ジャネイロに到着。


​6月、帰国。​ル・アーヴル​​に戻り、再び海軍兵学校を受験し失敗ショック

父に長年夢であった画家になることを告げ、許しを得るグッド


この頃、弟たちにピアノのレッスンをしていた教師

マネの未来の妻:シュザンヌ・レーンホフに出会う。


1850年9月(18歳)​

友人の「アントナン・ブルースト」とともに

「トマ・クチュール」下向き矢印のアトリエに入門。
マネは、1856年2月まで6年間、クチュールのアトリエで学ぶ。


1851年(19歳)​ナポレオン3世によるクーデターが勃発。

マネは、大通りに出てこの事件を目撃した。


1852年2月(20歳)​

シュザンヌ・レーンホフが出産(おそらくマネの子ども?しかし謎)

子ども:レオン・コエラー=レーンホフは、シュザンヌの弟として入籍。


1853年秋(21歳)​​マネの​弟:ウジューヌとともにイタリア訪問。

ヴェネツィアやフィレンツェで、

ティツィアーノやフィリッポ・リッピなど巨匠たちの作品の模写に励む。


1855年(23歳)​プルーストとともにドラクロワのアトリエを訪問。

『ダンテの小舟』1822年
パリ「ルーヴル美術館」の模写をの許可を願い出る。


1856年(24歳)​クチュールのアトリエを去り

動物画家:アルベール・ド・ベルロワとラヴォワジエ街のアトリエを借りる。


1857年(25歳)​この頃「ルーヴル美術館」で、

アンリ・ファンタン=ラトゥールと出会う。

11月から​ 2度目のイタリア旅行へ出かける。​


1859年(27歳)​

『アブサンを飲む男』がサロンで落選。


模写として登録した「ルーヴル美術館」で

エドガー・ドガと出会う。


1860年(28歳)​シュザンヌ とレオンとともに

バティニヨール地区のロテル・ド・ヴィル街にアパルトマンを借りる。


1861年(29歳)​『オーギュスト・マネ夫婦の肖像画』

『スペインの歌手(ギタレロ)』をサロンに出品。
 



マネの息子?「レオンーエドゥアール・レーンホフ」がモデル

『剣をもつ少年』1861年


1862年9月(30歳)​父:オーギュスト死去。

ヴィクトリーヌ・ムーランと出会い、お気に入りのモデルとなる。

Victorine Meurent(1868)


マネ『街の歌い手』1862年ころ


マネ『老音楽師』1862年


1863年5月
(31歳)​
「落選者展」で『草上の昼食』を発表。


その左側に『マホの衣装を着けた若者』


右側に『スペインの衣装を着けて横たわる娘』を並べ

ほか3点のエッチングとともに展示した。

​10月 オランダで「シュザンヌ」と正式に結婚ハート


1864年(32歳)​ファンタン=ラトゥールのサロン出品作
『ドラクロワ礼賛』のためにポーズをとる。

​11月​ バティニョール街34番地のアパルトマンに転居。


​マネ『死せる闘牛士』1864年〜1865年?


1865年(33歳)​​
『オランピア』がサロンに入選。


ファンタン=ラトゥールのサロン作品
『バティニョールのアトリエ』のためにポーズをとる。

​8月​ スペインに出発。スペインでは、のちにマネのモデルとなり

遺言執行人となった「テオドール・ディユレ」と出会う。


1866年4月(34歳)​サロンに出品した

『笛を吹く少年』

『悲劇役者』がともに落選。

​5月​ クロード・モネと出会い親交を深める。



1867年(35歳)​​
第2回「万国博覧会」開催。

マネは、会場近くのセーヌ川沿いで「個展」を開く。

​6月​ メキシコでマクシミリアン皇帝が処刑される。

マネは、この事件に取材した作品に着手。

友人:ボードレール死去。



1868年夏(36歳)​ブローニュ=シュル=メールで家族でヴァカンスを楽しむ音符

​7月​ ファンタン=ラトゥールから

ベルト・モリゾとその姉:エドマを紹介される。


マネ『バルコニー』1868年夏


1869年(37歳)​『マクシミリアン皇帝の処刑』がサロンで拒否される。
 

「エミール・ゾラ」は、「ラ・トリビュン」紙でマネを庇護する。


​2月​「エヴァ・ゴンザレス」がマネの内弟子となる。



1870年5月(38歳)​ファンタン=ラトゥールがマネを讃える
『バティニョールのアトリエ』をサロンに出品する。

​9月​ プロイセン軍の侵攻に備えて家族をスマイルスマイル

ピレネー山脈のオロロン=サント=マリーへ疎開させる。

11月 ​国民軍に中尉として入隊。


1871年2月(39歳)​パリを去り、疎開していた家族と合流スマイルスマイルスマイル

​3月18日​ パリ蜂起。パリに戻るつもりだったマネは足止めされる。

パリ・コミューン後、すぐにパリに戻ったとみられる。


1872年(40歳)​画商:デュラン=リュエルがマネの作品24点を購入。

​1月​ オランダ再訪問。

 ​サン=ラザール駅近くにアトリエを移転。


マネ『菫の花束をつけたベルト・モリゾ』1872年



​​​​​​マネ『鉄道』1872年〜1874年


​​
1873年(41歳)『ル・ボン・ボック』​​​



『休息(ベルト・モリゾの肖像)』がサロンに入選する。


このころ、詩人:マラルメと出会う。



​​
マネ『団扇と婦人(ニナ・ド・カリアスの肖像)』1873年〜1874年


1874年5月(42歳)​​
カピュシーヌ大通りの

ナダールのアトリエでいわゆる第1回「印象派展」が開催される。

マネは、参加の招待を受けていたが展覧会には不参加。


マネ『庭のモネ一家』1874年



マネ『ボートのアトリエで描くモネ』1874年



​マネ『ボート遊び』1874年


1875年(43歳)​​
エドガー・アラン・ポーの詩「大鴉」の

マラルメによるフランス語訳版に挿絵を描く。


1876年(44歳)​サロンで落選した作品を公表するためアトリエを一般公開する。



マネ Before the Mirror(1876)


1877年(45歳)​『ナナ』​​​がサロンで落選。

その翌月『ナナ』がカピシーヌ通りの高級洋品店のショーウィンドウに展示される。


1878年(46歳)​

マネ『胸をはだけたブロンド娘』1878年ころ


1879年(47歳)​​
歌手:エミリー・アンブルと出会い肖像画を描く。


1880年(48歳)​健康状態が悪化する。

医師から田舎での休養を指示され家ベルヴューに小さな家を借りる。

エヴァン・ゴンザレスや、イザベル・ルモニエらに宛て手紙や水彩画を描く。


1881年(49歳)​療養のためパリを去り、ヴェルサイユに夏の間滞在する。

​12月末​ レジオン・ド・ヌール勲章騎士賞を授与される。


​​1882年(50歳)『フォーリー=ベルジェールのバー』​​​をサロンに出品。


​7月〜10月​ リュイユに滞在。遺言状を書き

ただひとりの相続人として妻:シュザンヌを

そしてそれらを全てをレオンに相続されるように指示した。


1883年4月(51歳)​左脚を切断。

​4月30日​ エドゥアールマネ死去。

​5月3日​ パッシーの共同墓地に埋葬される。


(資料:東京美術マネ生涯と作品高橋明也さま著書より)
​​(写真撮影:ほしのきらり)


エドゥアール・マネ ・・・完了バイバイ

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最終更新日  2020.10.31 00:10:12
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