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「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

2021.01.23
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カテゴリ:美術館・博物館
​​​​​​​​​​ファン・ゴッホの『糸杉』は、明るい南仏の風景に対照的にも見える姿で大きくうねって立っていますスマイルゴッホが読んだ小説をざっくり読んでみましょう手書きハート


花​糸杉・ゴッホを知るヒント​​花



『糸杉』1889年6月(サン・レミ)​

油彩・カンヴァス 93.3cmx74.0cm

ニューヨーク「メトロポリタン美術館」所蔵。


​​『糸杉』は・・・​​


オリーブや夾竹桃、ひまわり、松などと並んで


南仏の風景を特徴づける植物である。


明るい風景の中に点在する黒っぽい樹影は、


とくに印象的で、ファン・ゴッホは、


この糸杉を「エジプトのオベリスクのよう」とも形容している。


糸杉それ自体、独特の質感を持っているが、


ファン・ゴッホの描く糸杉の質感は、


さらに凄まじいまでの個性を備えている。


うねるような厚塗りの筆触りで描いたり、


時には短い直線を密に書き込んだりしながら


ファン・ゴッホは、


この木の醸し出す雰囲気に感情をのせて描きあげている。

花  花  花  花  花  花  
フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ
​Vincent Willem van Gogh​


1853年3月30日〜1890年7月29日(37歳没)

1889年6月(ファン・ゴッホ=36歳の作品)​



糸杉の高いシルエットの垂直性が、


水平方向に広がる風景に活力を与えている。


エジプトのオベリスクを思わせる糸杉の


示唆に富む暗いフォルムにゴッホはとりわけ魅了された。


古くから「死」のイメージと結びつけられてきた糸杉は、


ゴッホ芸術においても同様の意味で使われている。



「糸杉のことがずっと頭にあるが、

 何とか、ひまわりの絵のような

 作品にしたいものだ。

 というのも、

 僕に見えているように描いた人が

 いないのが不思議に思えるから。

 線といい比例といい美しく、

 まるでエジプトのオベリスクのようだ」

 (1889年6月、書簡596)

 
糸杉は、ひまわり以上に南仏で印象に残る植物である。


しかし、ファン・ゴッホは、アルルでは、この木をあまり描いていない。

中心的モティーフとして描き出すのはサン・レミに移ってからで、


厚塗りの強烈なタッチで燃え上がるように描いている。


しばしば月月とともに描いているが、


その理由は、まだわからない。


糸杉は、しばしば墓地に見られること、


その黒いシルエットなどから、


「死」の象徴と解釈されたりするが、


そのような短絡的な読みは絵の豊かさ、


深さを決してしまいかねない。


​「僕に見えるように描いた人がいない」​


と書いているとおり、


他の画家が描いた糸杉も、実際の糸杉も、


ファン・ゴッホが、描くようには見えない。


なぜ、アルルではなくサン・レミで、


このような鮮烈な厚塗りのタッチで、


三日月とともに描いたのだろうか!?


四つ葉四つ葉四つ葉四つ葉四つ葉


エミール・ゾラの

​「ムーレ神父の罪」​という小説がある。

ずっと、教会のセミナリオで育ち、


南仏のアルトーという村に赴任した


若い神父:セルジュ・ムーレの物語である。


ある日、ムーレ神父は教会で失神し、


気がつくと村はずれの「バラドゥー」で


アルピーヌという美しい少女に看病されていた。


バラドゥーは、花の咲き乱れる「地上の楽園」である。


記憶を失ったセルジュは、アルピーヌと恋に堕ち、


楽園で生活を満喫する。ところがある日、


「生命の樹」の下で2人が裸でいるところを


修道士アンシャンジアに見つかり、教会へ連れ戻される。


過去を全て思い出した神父は、罪を犯したことを知る。


神父は村の教会に戻り、


アルピーヌの懇願を拒んで教会に留まろうとするが、


ある日、幻覚に襲われる。幻覚の中では、


「自然」が教会に襲いかかる。


最初は陽光、鳥、そしてついには・・・


巨大化するナナカマドの木によって教会は破壊される。


「自然」の勝利を見た神父は、


アルビーヌのもとに行こうとするが、


アルビーヌは、すでに神父の子を身ごもったまま自殺した。


四つ葉四つ葉四つ葉四つ葉四つ葉


ファン・ゴッホは​​​​​​上向き矢印この小説を1882年に読んでいて、


弟への手紙でも何度かふれていいるが、そのなかで、


しばしば「パラドゥー」という南仏の楽園にふれている。


興味深いのは、ファン・ゴッホがオランダ時代にすでに


このパラドゥーを楽園追放のモティーフとしての


「掘る人」と対置させていること、そして


​​「パラドゥーは美しい。しかし、ゲッセマネはさらに美しい」​​


と書いていることである。


つまり、オランダ時代、ファン・ゴッホは、


この「パラドゥー」的テーマに惹かれてはいたものの


楽園よりは「悲劇的なもの」、


「掘る人」「ゲッセマネ」を選択していたことになる。


しかし、ファン・ゴッホ自身、


「いつか自分もパラドゥー的テーマと取り組むかもしれない」


と感じていた通り、彼もまた南仏の太陽の下


「楽園」でわれを忘れていった。


それにしても、小説のなかのセルジュ・ムーレと


ファン・ゴッホの運命はあまりにもよく似ている。


ゾラが、執筆にあたって聖書の「創世記」、


特に楽園追放の場面を研究していたこともわかっているが、


この小説は、まるで・・・


ファン・ゴッホの生涯を予言しているようですらある。


さらに、偶然とはいえ、


ムーレ神父の侍者:ヴァンサン(Vincent)は、


ファン・ゴッホ(Vincent Willem van Gogh)と同名。


楽園場面の第2部をはさんで、


第1部と第3部にだけ「掘る人」が現れるし、


アルビーヌを自殺に追いやった修道士:アルシャンジアが、


アルビーヌの父に耳を切り落とされる場面でもある。


しかし、何と言っても、ムーレ神父の見る壮大な幻覚光景は、


花ファン・ゴッホが巨大な糸杉と
小さな教会を描き込んだ

『星月夜』を想起せずにはいられない。


その場面を引用しよう。


「これから、にわかに終わりがやってきた。

 高い枝をヴォールトの下の壊れたガラス窓から

 吹き出していたナナカマドは、

 激しい勢いで緑の枝を

 教会のなかに伸ばしてきた。

 木は、主廊の中央に張り出し、

 そこで並外れた速さで大きくなっていった。

(・・・)今や巨大な木は星に届かんとしていた。

(・・・)生命の樹は天空を裂き、

 星の彼方にまで伸びていった。

 ムーレ神父は、

 まるで墜した亡者のように

 狂わんとばかりこの幻覚に喝采した。

 教会は打ち負かされたのだ。

 もはや神が自分を妨げることはない。

 アルビーヌのもとへ行ける。

 彼女が勝ったのだ。」


(参考資料:小学館、100%VanGoghより)
(参考資料:マイケル・ハワード著VAN GOGHより)
(参考資料:東京美術、もっと知りたいゴッホより)
(写真撮影:ほしのきらり。)

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最終更新日  2021.01.23 00:10:08
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