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「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

ほしのきらり。

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2021.06.17
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カテゴリ:美術館・博物館
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​パブロ・ピカソは、南スペインのマラガで白い大きな家で生まれ小さな王様のような子ども時代だったようですスマイル


みずがめ座​​ピカソの天才的な子ども時代とは?​​みずがめ座


​​​​ピカソが14歳の頃に父と訪問した​「​​プラド美術館」
ピカソは、のちに名誉館長に任命されるとは・・・​​​​​


Pablo Ruiz Picasso​

パブロ・ルイス・ピカソ

1881年10月25日〜1973年4月8日(91歳没)​


​パブロ・ルイス・ピカソは・・・​


南スペイン「マラガ」で生まれ


その、子ども時代は、


非常につつましいものだった。


父:ドン・ホセ・ルイス・ブラスコは・・・


市の美術館の管理人や、


絵の修復家の職を掛け持ちして生計を立てていた。


とはいえ、


地中海的な伝統の中に生を享けたパブロは、


小さな王様のような子ども時代を送った。


母親のマリア・ピカソ・ロペスは・・・


小柄でデリケートな体質の持ち主だった。


彼女の黒い瞳は・・・


快活さと才気できらめいていた。


息子:ピカソは母親に似ていた。


彼女については、


ほとんど知られていないが、


夫よりも強い個性の持ち主だったらしい?


ピカソは・・・


母親に対して常に尊敬と優しさを絶やさなかった。


彼が、最終的に母の名を採ることにした時、


それは、彼なりの


父親の影響を脱出するやり方であると同時に、


常に自分を信じてくれた母に感謝するやり方であった。


コンセプションとローラという


ふたりの娘が生まれるに及んで、


父:ドン・ホセは・・・


家族の生活を支える彼の努力が


結局失敗に終わったことを認めなくてはならなかった。


1891年、父はスペイン北西部「ラ・コルーニャ」​


中学校のデザインの教師の職を引き受けることにした。


初めて見る町に彼は激しい拒絶感を覚えた。


家族が到着して数ヶ月後、


まるで、その地を嫌う彼の気持ちを確認する家のように


幼い娘:コンセプシォンがジフテリアに罹って死んだ。


ピカソにとって、この引っ越しは・・・


別の世界へ投げ出されたようなものだった。


変化の大きさは初めて比較ということを彼に教えた。


父親のお陰で・・・


パブロは好きなだけデッサンし、


油絵を描き、


優しく熱心な指導のもとで勉強することができた。


彼は、一所懸命に励んだので、


ごく短期間に陰影法で肉づけを強調する


アカデミックな木炭の技法をマスターした。


「僕は、

 子どものデッサンというのは描いたことがない。

 12歳でラファエロみたいにデッサンしたよ」


とピカソが、後年言うようになるのはこうした訳である。


これとは反対に・・・


学校の勉強という面では、ピカソはまるで駄目だった。


読み方、書き方、計算のごく基本でさえも、


彼には難しかった。


父:ドン・ホセも不安は抱いたが・・・


何しろ息子の画家としての才能を確信していたので、


こうした学業を強いることは決して無かった。


明らかにそれは、ピカソの最初の大きな幸運だった。


パブロは、休みなくデッサンした。


古典的な訓練が要求する


アカデミックなデッサンも、


身の回りの人物や物も描いた。


彼は、港の漁船も、


浜辺にいる家族連れも、


突き出た岩の上から町を見下ろす


ヘラクレスの塔と呼ばれるローマ時代の灯台もテーマにした。


妹のローラは・・・


特に長い間お気に入りのモデルだった。


マラガの親戚に近況を伝える手紙を


書くのが嫌いになった彼は、


自分で編集者、記者、イラストレーター、


レポーターを兼ねたごく小さな絵入新聞を作り出した。


彼はこの新聞に『ラ・コルーニャ』とか、


『アスル・イ・ブランコ(青と白)』といった名前をつけていた。


たくさんの肖像やカリカチュアには、


平凡な腕前が示されている。


レイアウトや字体の趣味も、


文章の質や見出しのユーモアも、


輝かしい個性を予告している。


ピカソは生涯、自分の手紙に


こうしたデッサンを描き添えている。


​1895年春、​父:ドン・ホセは・・・


バルセロナのラ・ロンハ美術学校の教授に任命された。


父は、直ちに勤務に就いたが、


家族は、パブロが学年を終了するまで、


ラ・コーニャに残った。


この年の夏、ルイス・ブラスコの一家は、


休暇をマラガで過ごした。


途中、マドリッドに立ち寄ったパブロは、


父親とともに「プラド美術館」を訪れている。


パブロは、ここで初めて、


ベラスケスやスルバランやゴヤなどの作品を目にすることとなった。


この時代、美術作品の複製は・・・


まだ銅版画や石版画の技術に頼っていた。


色や筆触を知るには、


美術館に行く必要があったのである。


みずがめ座​​ピカソの画家修行​とは?みずがめ座


マラガでは・・・


ピカソの父方の叔父:サルバドル・ルイス・プラスコが、


どうしたら甥の才能を伸ばすことができるかと思案していた。


彼は、この若い画家が有名になれば、


一族全体に活気が取り戻せると、


密かに期待していたのだ。まず、彼は毎日


若いパブロに5ペセタずつやって肖像画を描かせた。


彼が最初にパブロのモデルに世話したのは、


自分が面倒をみている老水夫であった。


この老人の肖像画は非常に上手くできた。


この絵は・・・


1896年に展覧会に出品された『最初の聖体拝領』や、


1897年の全国美術展で大賞を獲得した『化学と慈愛』など


ピカソの最初期の油彩画大作にまでまっすぐにつながっている。


何よりも、叔父:サルバドルを驚かせたのは、


制作の素早さであった。何日か後、


パブロは、ペパ伯母さんの肖像画でも、


同じことをやってみせた。


こうした押し付けの練習よりもパブロが好きだったのは、


妹や、いとこたちと遊ぶことだった。


パブロは・・・


誰よりも彼女たちを面白がらせることができた。


鉛筆の一筆で、


彼女たちに頼まれたものは何でも、


描き出してみせた。


ずっと後になっても、パブロは・・・


向かい側に座っている人が、


自分の肖像画が出来上がってゆくのを


正しい向きで見られるようにと、


​天地逆にその姿を描いては面白がった。​


バルセロナに着いた時ピカソは、14歳になったばかりであった。


けれども、父親が強く頼んでくれたお陰で、


必要な年齢には到達していなかったが、


退屈な予備課程は飛ばして、


ラ・ロンハ美術学校の上級クラスに入る試験を受けることが許された。


彼は、1ヶ月の猶予が許されている試験を一日のうちに仕上げた。


これに驚愕した試験管たちは、


​彼を神童と呼んだ。​


この試験のときのデッサンは、今日も残っている。


その申し分のない腕前は、


当時支配的だった人体のプロポーションの理想化された


美の規範のために何かを犠牲にするようなことは全くなくて、


現実を可能な限り忠実に写しとっている。


ピカソは・・・


この眼差しの厳しさを決して失うことは無かった。


彼のキュビスム期の肖像のモデルになった人々は、


異口同音に、どれほど長い時間ポーズをとらされたか、


その間にピカソがいかに注意深く


モデルを検討したかということを語っている。


息子の進歩に常に目を注いできたドン・ホセは、


彼のために間も無く家からほど近い所にアトリエを見つけた。


初めてピカソは・・・


邪魔をされないで仕事のできる部屋を持つことになった。


彼は、このアトリエで長い時間をかけて、


ラ・ロンハ美術学校の最初のクラス以来友人となっていた


画家:マヌエル・パリャレスの肖像を描いた。


ふたりは、互いの作品について話し合った。


バルセロナで、


ピカソの案内役となってくれたのもパリャレスだった。


19世紀のこの当時、


バルセロナはすでに重要な芸術の中心地であった。


その関心は、北方と東方に向いていた。


イプセンが広く読まれ、


彼の戯曲は、バルセロナの劇場で上演された。


ワグナーの楽劇、


セザール・フランクの音楽、


ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ の絵画も


バルセロナではよく知られていた。


また、マドリッドでは・・・


ほとんど顧みられることのなかった


いくつかの価値の再評価も提唱された。


その頃のパリで見つかった


エル・グレコの2点の油絵は、このようにして、


カタルニアの詩人や画家たちが付き従って


バルセロナ入りし、


厳かな行列を組んで町中を練り歩いた後、


この地の美術館に収められた。


ピカソは、すぐにバルセロナの町を愛するようになった。


彼は、9年の歳月を過ごした。


その間、マドリッドとパリ滞在をはさんでではあるが。


(参考資料:岩波・世界の巨匠ピカソより)



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最終更新日  2021.06.17 00:10:07
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