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「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

ほしのきらり。

カテゴリ

2021.06.25
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カテゴリ:美術館・博物館
​​​​​​​​​パブロ・ピカソは長い間アトリエを立ち入り禁止にして巨大な作品を完成させます〜それは人々を驚かせる作品でしたびっくり

みずがめ座​​キュビスムの始まり​​みずがめ座

Pablob Ruiz Picasso



パブロ・ルイス・ピカソ
​​Pablo Ruiz Picasso

1881年10月25日〜1973年4月8日(91歳没)


何百点というデッサンや習作を重ねた後、

​1907年の7月、ピカソは・・・​

数ヶ月前から手がけてきた巨大な作品を完成した。

​『アヴィニヨンの娘たち』​であるグッド



その長い制作の期間、

アトリエには立ち入り禁止だった。


そして、遂に彼が・・・

友人たちにその絵を見ることを許可した時、


反応は、驚愕から、

まったくの無理解まで、さまざまだった。


「中途半端な宗教者たちの

 心を驚愕で凍りつかせたのは、

 その顔の醜さだった」

と、アンドレ・サルモンは証言している。


この大作は、

1916年まで・・・

ピカソのアトリエの壁に​


裏返しで立てかけられたままだったショック


また、その題名は、

この1916年に付けられたものだった。


Pablo Picasso
​​​​Spanish,1881-1973
​​
Les Demoiselles d’Avignon 1907

『アヴィニヨンの娘たち』1907年​

Oil on canvas

プロトキュビスムの時代


現在​​​ニューヨーク近代美術館」所蔵。


コレクターのジャック・ドゥーセが購入することになった

​『アヴィニヨンの娘たち』​は、


フランスでは、1925年まで図版になったことはなかったし、

本当に公開されたのは、

じつに、​1937年のことであった。​


この絵について、

黒人美術がピカソに影響を与えていたか否か

という問題の答えは、

今もはっきりしていない。


たしかに、1907年にピカソは、​

トロカデロ博物館で黒人美術を発見していた。


だが、おそらくそれは、

『アヴィニヨンの娘たち』の直後である。


ピカソは、黒人美術に衝撃を受けた。

ブラック・アフリカの美術は、

イベリア彫刻でかいま見た

フォルムの変換の必要性を彼に認識させた。

とはいえ、

この時期のもっとも重要な対決の相手は、

​​​​やはり、​セザンヌ​であった。

1907年のサロン・ドトーンヌにおける回顧展、

ベルネーム・ジューヌ画廊での70点の水彩画展によって

セザンヌは新しい世代の中に再生した。


ピカソは後年、

セザンヌについて、

ブラッサイにこう語っている。

「彼こそ私のたった一人の師だった!

 ・・・私は何年もの間、

 彼の絵を研究したものだった、

 彼は、

 われわれすべての父のようなものだった。

 われわれを庇護してくれたのは

 セザンヌだった​・・・」。​


ブラックも、ピカソと同様、セザンヌを尊敬していた。


二人は、この後、

密接な関係を保ちながら制作していくことになる。


​1908年の秋​葉

ブラックは、サロン・ドートンヌに、

風景を描いた小品6点の新作を提出した。


審査委員たちは、

それらの絵の新しい傾向に完全にとまどった。


色彩は、

もはやその主要な要素ではなくなっていた。

単純で幾何学的な形態にアクセントがおかれていた。


審査委員のひとりだった
​マティス​
が・・・
​​​​​​​
「小さな立方体」のようだという意見を述べた。


ブラックの提出したうち2点が落選。

直ちに彼は他の作品も引き上げた。


『アヴィニヨンの娘たち』の価値を

否定しなかったほとんど唯一の一人、

カーンワイラーが、

ブラックの作品を自分の画廊で展示することにする。


​​これが、​最初のキュビスムの画家の展覧会だった。​


​だが、一体キュビスムとは何だろうか?​


キュビストたちは、

何にもまして、

イメージを幾何学的なフォルムに分解するのに熱中した。


ピカソ自身は・・・

キュビスムを、フォルムを第一に問題とする芸術と定義した。

「キュビスムは、

 種子でも胎児でもなく、

 形態を第一義として扱う芸術であり、

 形態ができ上がるとその形態は

 それ自体の生命を全うして、

 それに存在する。

 ・・・私たちは形態と色彩に、

 私たちが見ることのできる限りにおいて、

 それぞれが持つ意義のすべてを託している。

 私たちの主題においては、

 私たちは発見の喜び、

 予期に反したものの楽しさを維持している」。


キュビスム絵画の分析は・・・

解剖学的な正確さやたんなる類似を目標としない。


そこには、言うまでもなく

主題の幾何学的な構造化学がなされてるわけであるが、

それは非常に完成された、

非常に論理的なもので、

偉大なる先駆者セザンヌが

生涯を捧げた努力に比べうるものであった。


このようにして、

生みだされたフォルムは、

固有の生命を生きるようになる。


キュビスムは・・・

ただ一撃で、

絵画制作の行為を伝統的な自然主義から遠ざけ、

フォルム固有の価値を明示することによって、

美術を象徴の一歩前まで導いたのである。

ピカソは熱心に働き、答えをみつけている。

とはいえ、

ガードレール・スタイン記しているように

「その結果は、

 彼にとっても、

 他の人びとにとっても、

 困惑させるものであった。

 だがこの点について

 ピカソに何かできようか。

 真の創造者、

 革命者には継続あるのみ、

 それだけなのだ」。



ピカソは熱心に働き、答えをみつけている。

とはいえ、

ガードレール・スタイン記しているように

「その結果は、

 彼にとっても、

 他の人びとにとっても、

 困惑させるものであった。

 だがこの点について

 ピカソに何かできようか。

 真の創造者、

 革命者には継続あるのみ、

 それだけなのだ」。

​​

​​​『アヴィニヨンの娘たち』​​の2年後、​​


ピカソは、自分をはっきりと見つめ直す必要を感じた。


彼は、友人のパリャレスの生まれた村、

オルタ・デ・エブロを訪れることにした。


ピエール・デスクはこう述べている。

「オルタ滞在期の初めから、

 セザンヌとの競争の感覚は、

 はっきりと確認できる。

 2点の油彩では、

 サンタ・バルバラ山を、

 いうなればもうひとつの

 サント・ヴィクトワール山にしているのだ。

 ・・・そのつながりは明白である。

 だが、ピカソがもっと先まで

 追求していることも明らかである。

 彼は、

 セザンヌの分析を承諾することによって

 この先輩の偉大さを再発見したが、

 同時に古典的なヴィジョンと断絶する地点をも

 超えて分析を突きつめているのである」。


ブラックも

また、セザンヌ主義に

いっそう磨きをかけた作品を持ち帰った。


この1909年夏こそ、

キュビスムの真の出発点であった。


キュビスムの問題意識の中核には・・・

つねに、現実的なものを実験に課するということがあった。


初めは、物や人が優位にあった。

その形態を、

ただ忠実に反復するのではなく

分析することが行われた。

やがて少しずつ分析そのものが優位に立つ。


1912年〜1913年の

キュビスムの最後の段階において、

ブラックとピカソは、

形態の分析から生まれた

さまざまな要素の綜合へと移行した。

​​​​

(参考資料:岩波・世界の巨匠ピカソより)
(写真撮影:ほしのきらり


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最終更新日  2021.06.25 00:10:08
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