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「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

ほしのきらり。

カテゴリ

2021.08.01
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カテゴリ:美術館・博物館
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​ピカソの画風は、旅した地方や付き合う女性によってコロコロ変わってゆくことがわかってきましたね〜ここで極端な変化が・・・スマイル

みずがめ座​​​ピカソの『新古典主義の時代』・・とは?​​​


​Pari​

パブロ・ピカソ

Pablo Picasso

1881年10月25日〜1973年4月8日(91歳没)


​ピカソの『新古典主義』の期間の出来事!!

​1917年〜1925年​(36歳〜44歳)


1917年1月(36歳)​バルセロナを訪れる。

2月、コクトーと共にローマに赴き、

マルグッタ通りのアトリエに8週間滞在して、

「バラード」の舞台装置と衣装をデザインする。

ロシア・バレエ団のベレリーナである

オルガ・コクロヴァ(1891年〜1995年)と知り合う。

オルガは、帝政ロシアの将軍の娘であった。

同時期にロシアの作曲家

イゴール・ストラヴィンスキー(1882年〜1971年)や、

舞台美術家レオン・バクスト(1886年〜1924年)なども知る。

ナポリ→ポンペイ→フィレンツェを訪れる。

5月18日、パリのシャトレ座で「バラード』が初演される。

オルガとダブルハート恋愛関係になったピカソは、

6月、バレエ団に同行してマドリッドとバルセロナへ行く。

7月、バルセロナで帰国歓迎会が開かれる。

旧知の画家仲間たちが集まる。

オルガをモデルにした一連の写実的な肖像画を

新古典主義的な技法で描く。

また、点描風の画風の作品も制作する。

11月、パリへ戻る。


1918年(37歳)1月23日〜2月15日​まで

ラ・ポエシー通り118番地のポール・ギョーム画廊で

アンリ・マティス(1869年〜1954年)との「2人展」開かれる。

上流階級の人々との交流が深まる。

演劇やアルルカンを主題にした作品を描く。

7月12日、オルガと結婚式を挙げる。

新婚旅行に大西洋の保養地ビアリッツを訪れ、

同地で画商:ポール・ローザンベール(1881年〜1959年)と出会う。

9月、パリに戻る。

11月9日、アポリネールがスペイン風邪で亡くなる。

11月中旬、ラ・ボエシー通り23番地に移る。


1919年(38歳)4月か5月頃、​

ジョアン・ミロ(1893年〜1983年)が

ピカソのアトリエを訪問し、ミロ作品を1点購入する。

5月初旬、ロシア・バレエ団と共に3ヶ月間ロンドン滞在。

『三角帽子』の舞台装置と衣装デザインのため。

夏、南仏コート・ダジュールのサン=ラファエルで過ごす。

10月20日〜11月15日、ラ・ボエジー通り21番地の

ポール・ローザンベール画廊で水彩画の個展を行う。


1920年(39歳)前年末に依頼を受けた

ストラヴィンスキーの新作バレエ

『プルチネルラ』の舞台装置デザインを続ける。

第一次世界大戦中にスイスへ逃れていた

画商:ダニエル=ヘンリー・カーンワイラー(1884年〜1979年)が

2月、パリへ戻ってくる。

6月〜9月、南仏のジュアン=レ=パンに滞在。

ギリシア神話のケンタウロスが花嫁を掠奪する主題の作品を手がける。

ローマのヴァロリ・プラスティチ画廊と

パリのポール・ロザンベール画廊で個展をする。


1921年2月4日(40歳)長男ポール誕生。

4月、友人の批評家:モーリス・レイナル(1884年〜1954年)が

ピカソについて最初の伝記的研究書を著す。

4月〜5月、ディアギレフの『4人のフラメンコ』の

舞台装置と衣装をデザインする。

夏、フォンテーヌ・ブローで過ごす。

同地で、キュビスム様式の大作

『3人の音楽家』と、

新古典主義のモニュメンタルな

『泉のそばの3人の女』を描く。

ロンドンのレスター画廊と

パリのポール・ローザンベール画廊で個展をする。


1922年(41歳)​​『アヴィニヨンの娘たち』​を収集家で

著名なデザイナーのジャック・ドゥセ(1853年〜1929年)が

25,000フランで購入する。

6月、ミュンヘンのタンハウザー画廊で個展をする。

6月〜9月、ブルターニュ地方のディナールで過ごす。

12月、初演されたコクトー脚色の『アンティゴーネ』の

舞台装置デザインをコクトーと共に行う。


1923年(42歳)​南仏アンティーブで夏を過ごす。

9月、パリに戻る。

11月、ニューヨーク・ウィルデンスタイン画廊で近代展を開く。

プラハのマネス美術協会で展覧会を行う。

息子:ポールの肖像画を描く。


1924年(43歳)4月、​ポール・ローザンベール画廊で個展を行う。

バレエ『メルキュール』のための衣装と舞台装置を担当。

ロシア・バレエ団のバレエ『青い列車』の垂れ幕のデッサンをする。

デッサンは、1922年作の

『海辺を走る2人の女』を拡大して用いている。

夏、ジュアン=レ=パンで過ごす。


1925年(44歳)春、​モンテ・カルロを訪れる。

夏、ジュアン=レ=パンに滞在。

6月、春先から描いていた『ダンス』を完成。

旧友の画家:ラモン・ビチョット(1872年1925年)が

3月1日に死んでいるが『ダンス』の右画面には、

ビチョットの横顔が描かれており、

彼の死と関連が深い作品となっている。

11月、パリのピエール画廊で開かれた

「第1回シュルレアリスム絵画展」に

キュビスム時代の作品を出品する。


みずがめ座ピカソの『新古典主義の時代』の年譜が理解できましたみずがめ座


ピカソの『新古典主義の時代』は1917年〜1925年

第一次世界大戦は、1914年からで、

友人たちは徴兵され・・・

キュビスムの共同作業者や庇護者を失い、

ロシア・バレエ団との共同作業へ

それに伴い初めてのイタリア旅行で、

古代の都市や遺跡を訪れ、

ルネサンスやバロックの名品を鑑賞し影響を受け

新古典主義の時代に突入してゆく

年譜で確認しました。


​ピカソが・・・

キュビスムから、具体的な絵画に戻ってきたのは

ロシア・バレエ団の公演にピカソが参加した事である。

『アルルカン』1923年

アルルカンに扮する画家ジャシント・サルバド

この頃のバレエ団は・・・時代遅れで

新しい要素を取り入れようと

若い外国人芸術家を採用しようとしていた。


ピカソは、キュビスムによる対象の解体が

単なる装飾や抽象になってしまうことで悩んでいて

新たなスタイルを模索していた時であった。


イタリア旅行が彼に新しい芸術の方向を示してくれた。

そして、私生活もそのヒントとなる。

『アルルカンに扮するポール』1924年

Paul en arlequin

​​​​​1918年7月12日、ピカソは、オルガと結婚し、

1921年2月4日、息子:ポールが生まれる。

かずかずの女性遍歴を経てきたピカソは40歳にして

初めて知った父親の感触。


妻:オルガと、息子:ポールに注ぐ眼が、

必然的に今まで分からなかった絵画の領域を気づかせた。


非日常的なアルルカンの紛争をさせて、

そこに息子の思わぬ新鮮な姿を発見する親の楽しみ。

日常と非日常の意外な遭遇である。


(参考資料:集英社・ピカソ美術館2より)
(写真撮影:ほしのきらり)
今日は長いブログになってお付き合いに感謝。


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最終更新日  2021.08.01 00:10:08
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