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カテゴリ:美術館・博物館
パブロ・ピカソは66歳頃、地中海の町ヴァロリスを訪問してから陶芸に魅せられます〜こんな作品をいっぱい焼いていました
Pablo Picasso ロシア「エルミタージュ美術館」所蔵。 『ヴァロリス期』・・・とは? Vallauris 地中海沿岸の地域では、 古くから良質の土が取れたことから、 陶器が製造されていました。 ピカソは、夏になると南仏を訪問していたので 南仏の陶器の町“ Vallauris”に立ち寄り “ヴァロリス” で陶芸にのめりこみます Pablo Picasso パブロ・ピカソ 1881年10月25日〜1973年4月8日(91歳没) 1947年(66歳)前年からのフクロウのモティーフ作品を描く。 鳩も作品に現れ始める。 3月、ルーカス・クラナッハ(1472年〜1553年)の作品をもとに リトグラフ『ダヴィデ』と『バティシバ』を制作。 5月、パリ国立近代美術館に油彩画10点を寄贈。 5月15日、フランソワーズとの間にクロード生まれる。 夏、フランソワーズと共にゴルフ=ジュアンに行く。 ヴァロリスのマドゥーラ陶房の ジョルジュ・ラミエの窯で作陶活動を開始。 1年足らずの間に約2000点近い作品を制作する程の熱の入れよう。 ジュアン・ラレーア著『ゲルニカ、パブロ・ピカソ』が、 ニューヨークで出版される。 12月、ピカソの舞台装置による ソフォクレス(前497年頃〜前406年)の悲劇『オイディプス王』が パリのシャンリゼ劇場で上演される。 ロンドン画廊での「キュービスムの精神とその時代展」に出品。 1948年(67歳)テリアード(1897年〜1982年)によって 125点のピカソのリトグラフ挿絵による ピエール・ルヴェルディー(1889年〜1960年)の 詩篇『死者の歌』が刊行される。 夏、フランソワーズと共にヴァロリスの丘の上の ラ・ガロワーズのアトリエで過ごす。 8月末〜9月、旧友の作家:エレンブルグ(1891年〜1967年)の招聘により ポーランドのブレスラウでの国際平和会議にエリュアールと共に出席。 アウシュビッツ、クラコフ、ワルシャワなどを訪れる。 ポーランドの大統領より勲章を授与される。 パリのフランス思想家会館で陶芸展。 ロンドンのアート・カウンシルで 「ピカソのリトグラフ1945年〜47年展」開催。 1949年(68歳)1月、パリのシェン社より カーンワイラー著『ピカソの彫刻』が出版。 1月9日に制作された鳩のリトグラフが、 共産党に指導的立場にいた 詩人:ルイ・アラゴン(1897年〜1982年)によって、 4月、パリで開かれる国際平和会議のためのポスター図案として採択され、 「平和の鳩」として有名になる。 メリメ(1803年〜1870年)の小説『カルメン』の 38点のピカソの銅板画入り挿絵本が刊行される。 3月8日〜4月2日、ニューヨークの ブーフホルツ画廊で彫刻の近代展が開かれる。 4月19日、フランソワーズとの間に娘:パロマ誕生。 パロマは、スペイン語で鳩を意味する。 7月、フランス思想家会館で近作展。 秋から、陶芸に集中。 1950年(69歳)フランソワーズの妊娠を記念して 冬、粘土などで『妊婦』を制作する。 この作品は、1955年にブロンズが鋳造される。 2月、ギュスターヴ・クールベ(1819年〜1877年)や エル・グレコ(1541年〜1614年)の作品から主題を得た作品を描く。 春、ヴァロリスや付近を散歩しては珍しいものを見つけて 『雌山羊』や『乳母車を押す女』や『縄跳びをする少女』 などのコラージュ作品を手がける。 ヴァロリス市の名誉市民に推され、 8月6日『羊を抱える男』のブロンズ像が、 ヴァロリスの中央広場に立てられる。 10月、イギリスのシェフィールドで開かれた 第2回国際平和会議に出席する。 11月、レーニン平和賞を受賞。 11月〜翌年にかけて、パリのフランス思想家会館で、 「ピカソの彫刻と素描」展が開かれる。 カタログの序文はルイ・アラゴン(1897年〜1982年)が書く。 1951年(70歳)前年に勃発した朝鮮戦争に対して、 アメリカが朝鮮に介入したため、 1月18日、大作『朝鮮の虐殺』を描く。 5月、パリで開かれたサロン・ド・メに 『朝鮮の虐殺』が出品され話題となる。 6月、フランスのヴァンスにマティス(1869年〜1954年)が 装飾したロザリオ礼拝堂が献堂されるが、 ピカソは記念式典に出席する代わりに、 病床のマティスを見舞う。 夏、パリのラ・ポエシー通りの部屋を立ち退き ゲ=リュサック通り9番地に新しい部屋を借りる。 晩夏、ヴァロリスに戻る。 冬、パリで過ごす。 1952年(71歳)2月19日〜3月15日、 ニューヨークのヴァレンティン画廊で展覧会。 朝鮮戦争に対して義憤を感じていたピカソは、 4月、ヴァロリスの14世紀の礼拝堂を 平和の殿堂として装飾することを思い立ち、 戦争と平和を主題とする構想を練る。 秋、ひとりでパリへ行く。 フランソワーズ・ジローとの関係がこの頃から次第に悪化。 11月18日、旧友の詩人:ポール・エリュアール(1895年〜)死去し 葬儀に参列。 11月25日作のリトグラフ『オノレ・ド・バルザックの肖像』を バルザック(1799年〜1850年)作の 小説『ゴリオ爺さん』の口絵に使う。 12月上旬、ヴァロリスに戻り、 平和の殿堂のための2枚の大きな作品を完成する。 1953年(72歳)1月30日〜4月9日 パリ近代美術館『1907-14年のキュビスム展』で 「アヴィニヨンの娘たち」など展示。 冬、ヴァロリスで彫刻を制作。 3月5日、死去したスターリン(1879年〜)のピカソによる素描が 3月12日、「レ・レトル・フランセーズ」紙に掲載。 5月〜7月5日、ローマ国立近代美術館で大規模な回顧展。 カタログは、美術史家:リネルロ・ヴァエントゥーリ(1885年〜1961年)が執筆。 6月、リヨン美術館で回顧展。 8月、ピレーネ山脈のベルビニャンで過ごし、 マドゥーラ陶房のジョルジュ・ラミエの夫人の従妹に当たる若い ジャックリーヌ・ロック(2926年〜1986年)に出会う。 コリウールに立ち寄り、闘牛を観戦する。 9月下旬、フランソワーズはクロードとパロマを連れて ピカソのもとを離れる。 9月20日〜11月20日、ミラノのパラッツォ・レアーレで回顧展。 これは、前記のローマでの回顧展が巡回したもので、 新たに『ゲルニカ』や 『朝鮮の虐殺』などが追加出品される。 Massacre en Coree 『朝鮮の虐殺』1951年1月18日 11月28日〜翌年2月上旬、画家とモデルを制作する。 12月13日〜翌年2月20日、サンパウロの現代美術館で回顧展。 秘書のハイメ・サバルテス(1881年〜1968年)が、 マラガ美術館とバルセロナ市に自分の所蔵する ピカソ作品やピカソについての蔵書を寄贈。 (参考資料:集英社、ピカソ美術館4より) (写真撮影:ほしのきらり) ピカソにぽち お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021.08.04 00:10:06
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