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「きらりの旅日記」

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プロフィール


ほしのきらり。

2021.09.29
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カテゴリ:美術館・博物館
​​​​​​​​​​​​​日曜画家アンリ・ルソーは、アンデパンダン展の会員であることをとても誇りとしていました。宣伝ポスターも描いています手書きハート

Henri Rousseau
​​

L'Enfant a la poupee  1892

『人形を持つ子供』1892年​

油彩 カンヴァス 67.0cmx52.0cm

パリ「オランジュリー美術館」所蔵。

​アンリ・ルソー​
Henri Rousseau

​1844年5月21日〜1910年9月2日(66歳没)

19世紀末〜20世紀初頭に自由な画法で制作。

フランス『素朴派』の代表的な画家。

パリ市の税関吏(ぜいかんり)​​
​を務め、

退職後41歳で本格的に画家となる。

画家として認められたのは、

最晩年の数年であった。


パレット​『アンデパンダン展』ルソー​パレット

ルソーが描いた宣伝ポスター

『第22回アンデパンダン展への参加を呼びかける自由の女神』


1774年に『アンデパンダン展』が設立するまで、


フランスでは・・・

『サロン』と呼ばれた『官展』のほかに

公募展は存在しなかった。


サロンは・・・

すべての画家にとっての登竜門であり、

そこに入選しなければ画家として認められず、

従って絵は売れず、

生活することはできなかったショック


当時、サロンが持っていた絶大な権威は、

今日では一寸想像しにくい!!


サロンの歴史は・・・

17世紀に遡る。

第1回は・・・1667年、ルイ14世の治下、

宰相コベールの八起によって開かれた。


王政時代、出品の権利を持つのは・・・

王立美術アカデミーに属する画家たちであリ、

観衆も宮廷の人々に限られていたほえー


ちなみに、フランス語で

展覧会のことを『サロン』​salon​と言うのは・・・


この頃会場に、ルーヴル宮の

​「サロン・カレ」Salon Carre( 四角い客間の意味)​

宛てられていた事実によるグッド


フランス革命に至って、

『サロン』は、国家の事業となり、

審査委員は投票で選ばれたが、


第一帝政下には、

美術アカデミーの管轄に入った。


そして、ナポレオン一世の宮殿画家である

ルイ・ダヴィッドが下向き矢印画壇に君臨した。

Jacques-Louis David(1748年8月30日〜1825年12月29日)76歳没


有名な大作は下向き矢印ルーヴル美術館にある

『ナポレオン一世の戴冠式と王妃ジョセフィーヌの戴冠』1805年〜1807年

ベルギー王立美術館にある下向き矢印

『マーラーの死』1793年

ダヴィッドの「新古典主義」にもとづく一つの体制を作り上げた。


王政復古→七月王政→第二共和政→第二帝政→第三共和制と

政体が大きく揺れ動いたにも関わらず、

19世紀の大半を通して、

この体制には、根本的な変化は無かった。


サロンは、全く偏った審査の下に開かれた。


アカデミズムにそむいて、

新しい試みをしようとする画家たちの多くは、

落選の憂き目を見たショック


アカデミックな意味での技術の水準の高さ、

一見堂々たる画面構成とは裏腹の

発想の陳腐さ、俗悪さ加減が目立つアカデミック作品は、

国家に買い上げられたが、現在では

美術館の奥深くに積み重ねられたまま眠っている。


19世紀のフランス絵画史は・・・

バルビゾン派、クールベ、マネから

印象派に至る革新的な画家たちの、

サロンに対する戦いの歴史であったと

​言っても過言ではない!!​



長〜くサロンの組織を支えたのは・・・

当時のフランスのブルジョワ社会の

驚くべき保守性と趣味の低俗さだった。


「印象派」のすべてが光の露と化したかのような、

輪郭線の全くない、色鮮やかな作品は・・・

堅固な社会秩序に対する挑戦!!

とブルジョワたちには見えた。


「印象派」の画家たちは・・・

絵画の安寧をおびやかす危険分子だったのであり、

実際そのような扱いを受けたしょんぼり


彼らの重視した色彩の明るさは、

まさにアナーキーの表現そのものにはほかならなかった。


「色彩は、芸術のもっとも動物的な部分だ」と、

新古典主義の総師:アングルは言い放ったものだ。


アカデミズムの画家たちが、

その凡庸さの上にあぐらをかいていられたのは、

このようなブルジョワ社会のおかげだったのである。


しかし、19世紀も半ばを過ぎると・・・

さすがに、

特に若い世代において、

サロンに対する不満が鬱積していった。


マネの『草上の昼食』下向き矢印

出品された1863年の有名な『落選展覧会』も、

1874年にはじまった『印象派展』も、

このような不満の噴出のあらわれだった。


だが、「落選展覧会」は、1年きりであとがつづかず、

常設の落選展覧会の開設が待たれていた。


『アンデパンダン展』は・・・

若い画家たちの年来のこの希望にこたえるものだったのである。


『アンデパンダン協会展』
La Societe des Aristes Independants

の母体は、

1884年の春、テュルリー公園内の

バラックでひらかれた

『アンデパンダン・グリープ展』だった。
Groupe des Artistes Independants


無審査を看板にしたこの展覧会の作品募集のビラが

パリのあちこちの壁に張り出されると、

​​​​人々は、興奮した目がハート


「まさにラッシュでした。

 この時期には、

 若い画家たちのための展覧会も、

 画廊も、

 画商も、
 
 皆無だったからです」

と後年、ポール・シニャックは、

ギュスターヴ・コキオにあてて書いている。
 (コキオ『アンデパンダン展』1920年)。

 
「審査委員会の廃止を基礎として

 設立されたアンデパンダン展は、

 すべての芸術家が、

 その作品を自由に展示して、

 公衆の判断にゆだねることを

 その目的とする」


・・・アンデパンダン展は、

その会則の中でこううたっている。

この審査委員会の廃止こそは、

サロンの審査の独断と偏見と悪意とに

長いあいだ悩まされつづけてきた画家たちの夢であった。


月1フラン25サンチームの会費と、

10フランの展示費を払いさえすれば、

流派を問わず、

職業画家であると、

全くの素人であろうと、

どのような画家も、

その作品を展示することができた。


もちろん出品点数には限りがあり、

その年々によって変わる会場の大小に従い、

4〜10点と定められた。


近代美術史に名を残した数多くの画家たちが、

この展覧会に加わり、

この展覧会を通して

世に知られることとなった画家は・・・

スーラ、シニャック、クロス、デュポワ=ピエ、リュス、

セザンヌ、ゴッホ、ロートレック、ルドン、マティス、

マンギャン、ドラン、ヴァラマンク、マルケ、ルオー、

ブラック、レジェ、グレース、メッツァンジェ、

スゴンザック、シャガール・・・


『アンデパンダン展』の歴史を語るとは・・・


近代美術史を語るにひとしい!!


ルソーのような画家は・・・

もし、『アンデパンダン展』が存在しなかったら、

その作品を生涯公衆に示すことができなかっただろう。


その名は、知られず、

その作品は、埋没し失われて、

私たちの手まではとどかなかっただろう。


ルソーは・・・

1899年と1900年に2年間休んだだけで、

1886年から、死ぬまで毎年、出品をつづける。


彼の代表作の多くは、

この展覧会に出したものである。


ルソーとアンデパンダン展は、不可分だ。

ルソーがアンデパンダン展をいかに徳とし、

その会員であることを

いかに誇りにしていたかは、

「東京国立近代美術館」所蔵の​​


『第22回アンデパンダン展への
 参加を呼びかける自由の女神』1906年


が雄弁に語っている。

そこには、ラッパを吹き鳴らしながら

空を飛んでいる自由の女神のもと、

会場に作品を搬入する画家たちの列を背景にし、

一頭の大きな獅子の前で、

会長のバルトンと固く握手をしている

ルソーの姿が見られるのである。

(参考資料:新潮選書、アンリ・ルソーの謎より。)
(写真撮影:ほしのきらり)


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最終更新日  2021.09.29 00:10:08
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