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「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

ほしのきらり。

カテゴリ

2021.11.30
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カテゴリ:美術館・博物館
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​ゴッホとロートレックは11歳という年の差があるのにも関わらず友情を深めたという意外な事実がありますスマイルスマイル彼らが出会う前のそれぞれの環境と共通点とは!?

​Vincent Willem van Gogh​


スマイル​​ゴッホとロートレック同時進行の年譜​​​スマイル


ロートレックが生まれた年にゴッホは何をしていたのでしょうか!?

フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ
​Vincent Willem van Gogh​

1853年3月30日〜1890年7月29日(37歳没)


1864年、ゴッホ(11歳​

しばらくフロート・ズンデルトの公立学校に学んだ後、

10月1日、近くのツェフェンベルヘンの学校に寄宿生として入り。


​​​2年後、​​​ティルバルフのホーヘン・ブルベル学校(高等学校に担当する)に転じた。

この間、フランス語・英語・ドイツ語を学んだが、


​1868年、​学業を棄てて両親のもとへ帰った。

なぜ学業をやめたかについては・・・

彼の協調性の無さと、さまざまの憶測がある。


ロートレックは、この年に誕生するのです下向き矢印

​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
​Henri de Toulouse-Lautrec​

1864年11月24日〜1901年9月9日(36歳没)​

​​1864年、ロートレック(誕生0歳​)​

11月24日、南フランスのアルビで、

トゥールーズ=ロートレック・モンファ伯爵家の長男として生まれた。


正式名は・・・

アンリ・マリー・レイモン・ド・トゥールーズ=ロートレック・モンファで、

父は、アルフォンス・シャルル、

母は、アデル・マルケット・タピエ・ド・セレイラン。


トゥールーズ=ロートレック・モンファ家は・・・

その家系を中世のシャルルマーニュ帝時代に遡り、

フランス王家の血統をひく名家である。


母のタピエ・ド・セレイラン家も、

12世紀以来つづいている。


18世紀以降、両家の間には数組の結婚が行われ、

ロートレックの両親もいとこ同士である。


彼の家系には・・・

早くから芸術的素養もあらわれ、

曽祖父の描いたスケッチなど残っており、

以来その子孫の多くは、

貴族としての乗馬や狩猟の趣味のかたわら

絵を描く人が多い。

ロートレックにもその才能は早くからあらわれている。


1867年、ロートレック(3歳)​

8月末、弟リシャール・コンスタンタン生まれる。
(翌年、誕生日の前日死亡)

結婚するまで槍兵の士官であった父は、

乗馬と狩猟を趣味とする誇り高い貴族・・・と言うより、

奇矯の人でもあった。

一方、母は濃やかで繊細な感情をもつ、

つつしみ深く教養ある女性であった。


​ロートレックは、​

近親結婚によるこの一家の長子として生まれ、

幼時からからだは弱かったが、

明るく、何ごとにも興味をもち、

いくつも動きまわっているので、

「かわいい宝石」とよばれて、

一家の、一族のマスコットでもあった。


しかし、性格的に合わない両親の不和は、

この年の秋あたりから決定的になり、

別居が多くなり、

母にとってロートレックの成長が生きがいであった。


1869年、ゴッホ(16歳)​

7月30日、セント伯父の世話で、

画商:グーピル商会のハーグ支店の助店員として勤める。

グーピル商会の本店はパリで、

ハーグ、ブリュッセル、ロンドン、ベルリンに支店があった。

ハーグ支店はセント伯父と共同経営の形態であり、

(セント伯父は間も無く隠居した)、

上司は8歳年上のテルステークスで、

その指導のもとに、

主として複製美術の販売を熱心に行い、

また読書にふけり、盛んに美術館通いをした。


1872年、ゴッホ(19歳)夏、​

前年は、はじめからブラバントの小村

ヘルフォイルトに就任していた両親の家で休暇を過ごし、

近くのオーテルウィックの学校にいる弟:テオにも会った。

テオも8月、ハーグに兄を訪ねたが、

これを機会に二人の終生変わらぬメールする文通が始まった。


ロートレック(8歳)​

1870年の戦争とコンミュンの乱が収まってから、

ロートレック一家はパリに出て、

まずポワシー・ダングラ街のべレイ館、

ついでヌイイに移った。

10月1日、ロートレックは、リセ・フォンテーヌ(現在のコンドルセ)に入学。

ここには既に、母方のいとこルイ・パスカルが通学しており、

また、富豪の息子モーリス・ジョワイヤンとは同じクラスで、

すぐに親しくなった。


のちに著述もし、

1890年以降はゴッホの弟テオの店を引き継いで画商となり、

当時の前衛画家たちを支持したジョワイヤンについて、

本文ではほとんど触れていなかったが、

ロートレックとの関係は生涯にわたって極めて深い。


彼の初期の展覧会の面倒をみたのもジョワイヤンであれば、

ロートレックの死後、その作品を収集整理して、

ガブリエル・タピエ・ド・セレイランとともに

アルビのロートレック美術館に力をつくし、

彼に関する基本的文献ものこした。


そしてさらに、ロートレックの父から息子の

遺言執行者に指名されたのもこのジョワイヤンである。


1873年、ゴッホ(20歳)1月1日、​

弟テオはグーピル商会のブリュッセル支店に努める。

6月、ゴッホはハーグからロンドン支店に転勤。

9月、牧師の未亡人:ロワイエ夫人の下宿に移る。

未亡人は娘:ウージェニーと、

子供のために小さな塾を経営していた。


弟テオが彼と同じように画商の道を選んで

1月1日から勤務することを知ったゴッホは、

暮れの12月13日、テオに宛てて

メールする次のような祝福の手紙を書いている。

「親愛なるテオ、おめでとう。

 いまお父さんの手紙で吉報を知ったところだ。

 きっと、その仕事が気にいるようになるだろう。

 実に立派な仕事だ(・・・)。

 ぼくらがともに同じ職業につき、

 同じ商会に努めることになるというのはとても嬉しい・・・」。
  (書簡二)


ロートレック(9歳)​

健康のため、

父のすすめによって習いだした乗馬ではあるが馬

動くものに興味を持つロートレックは、

すぐに馬に夢中になり目がハート

一方、父の友人である

動物画家:ルネ・プランストーの教えを受けるパレット


1874年、ゴッホ(21歳)​7月、

ウージェニーに求婚したが断られ失恋

絶望してオランダに帰った。

同年半ば、妹:アンナとロンドンに戻ったが、

仕事に興味を失ったゴッホは宗教書を読みふける。

10月、叔父のはからいで、

気分転換のためパリ本店へ一時的に勤務したが、

12月末、突然ロンドンに戻った。


ロートレック(10歳)​

病弱のため退学。

母とともにアルビに戻って家庭教師から教育を受ける。

その後、アルビやル・ポスクのシャトーで、

そのときどきを大勢のいとこたちと幸せに暮らし、

乗馬にも夢中になったが、

一番熱中したのは「描く」ことであった。


1875年、ゴッホ(22歳)​

ロンドンでは次第に店のもてあまし者となり、

5月、最終的にパリ、シャプタル街のグーピル商会に勤務した。

しかし、仕事に関心をはらわず、

同僚や客との口論は絶えず、

モンマルトルの自室では聖書や宗教書を耽読する。

また、美術館や画廊をまわって、

コロー、ミレーや17世紀オランダ絵画に熱中する。

12月、クリスマスツリークリスマス期を迎えて勝手に休暇をとり、

10月以降、新たに父の任地となっているオランダのエッテンに帰った。


1876年、ゴッホ(23歳)1月、​パリに戻ったが、

相変わらず仕事には全く興味を示さない。

4月1日、ロンドン郊外のラムスゲートに行き、

ストークス氏の経営する貧しい子供たちをあずかる

小さな寄宿学校の助教師となり、

フランス語とドイツ語を教える。

7月〜12月、ストークスの学校の新たな移転先、

ロンドンの労働者街アイルワースで過ごす。

同時に、同地区のメジスト派牧師ジョーンズの説教助手となり、

11月4日、はじめて説教を行い、

貧者に対する福音伝道者となることを志す。


1877年、ゴッホ(24歳)1月、​再び、セント叔父の口利きで、

ドルトレヒトの書店に務めたが、

ここでも、勤務中も夜も聖書を読んだり、

これをさまざまの言葉に翻訳することに熱心で

(その間、デッサンも続けたらしい)、

4月、早くも辞めてしまった。

伝統者への想いが増すばかりである。

5月9日、父の許しを得てアムステルダムへ行き、

海軍の叔父のもとで、やがて牧師になるため、

大学神学部に遊学試験の準備を始めた。

伝道者を志す彼の意思について、

既に3月、弟テオに次よように書いている・・・

「・・・あらゆる意味において

 クリスチャンの家族だった我が家では、

 知られている限りの古いころから

 代々いつでも福音を説く人がいた。

 こうした家族の一人が、

 いまどうしてこの奉仕に召されたと感じて

 悪いことがあろう(・・・)。

 お父さんやおじいさんの精神が

 ぼくにも宿るようになること、

 ぼくがキリスト者に、

 そしてキリストの労働者になること、

 ぼくの生活が、

 いま名を挙げた人たちの生活に

 ますます似てくるようになること、

 これがぼくの切なる祈りであり、

 願いである・・・」(書簡89)

しかし、アムステルダムでの

入学試験のための勉強には気が進まないショック

特に数学やギリシャ語、ラテン語は、

一生懸命に励むのだが見につかぬ、

いや、退屈であるショック

そして、いよいよ文学書を読みふけり、

足繁く美術館に通う・・・歩く人ダッシュ

画商のコル叔父の店も魅力である。


1878年、ゴッホ(25歳)​

アムステルダムでの一年半余りの受験勉強は、

空しいカラ廻りであったしょんぼり

7月、神学部入学を諦めてエッテンに帰った歩く人

「生きている人間、

 現実に苦しんでいる人間に対する献身的な

 愛と情熱に魂の炎を燃え上がらせているフィンセントに、

 牧師になるための勉強は、

 あまりにも空虚であり、死んだ学問であった」

8月、折良くエッテンを訪れたジョーンズ牧師の紹介で、

ブリュッセルの短期牧師養成所へ入る。

ここでは、3ヶ月の課程で伝道師の資格をくれるのであるが、

その3ヶ月が過ぎても、

彼の気質が衝動的で協調性の無いとの理由で、

資格を与えられなかったショック

それでも彼はみずから志願して、

誰も行きたがらない

南ベルギーの貧困なボルナージュ炭鉱地帯に赴き、

まさに献身的に伝道に従事した。

年末になって、

ブリュッセルの伝道委員会は彼の犠牲的行為を認め、

非聖職者のまま、伝道師として6ヶ月の任務を与えた。


ロートレック(14歳)5月30日、​

アルビの家の広間で、椅子から立ち上がったとき、

つまづいて転び、左大腿部を骨折した号泣

回復は思うに任せず、

療養のため母は彼を連れて温泉めぐりをつづけ、

アメリー・レ・バン、ニース、バレージュ等に滞在した。


Vincent Willem van Gogh

1878年、ゴッホ(26歳)​

貧困と病苦と搾取のこの炭鉱地帯で、

全く自己を犠牲にしての奉仕であったが、

炭鉱夫たちに同情のあまり、

経営者に激しく立ち向かいもした。

しかし、こうしたことは、

かえってブリュッセルの伝道委員会の気に入らず、

彼は説教師としての資格に乏しいとの理由で、

それ以上の任期延長を打ちきられた。


彼は一時ブリュッセルに出たが、

間もなくボルナージュに戻り、

それから翌年にかけて、全くの放浪生活を続けた。

それは彼の生涯のうちで最もみじめな時期である。

と同時に、まさしく転換期である!!


次第に信仰は薄れ、

伝道師への情熱は消え、

食うや食わずの放浪の中に、

弟テオとの文通も一時期とだえた。

しかもこの間、

ディンズ、ユーゴ、シェクスピアを耽読する​​​​​​​​​​​​​​​​​​​ノート一面

炭鉱夫たちのデッサンに熱中した。


ロートレック(15歳)8月、​

バレージュで母と散歩中、転んで溝に落ち、

今度は左脚の大腿骨を折った!

それ以後両脚とも発育はとまった。

いや、そればかりではない!

時とともに顔にも異常があらわれた・・・

鼻は大きく、唇はぶ厚くなったのである。


そして、あれほど好きだった乗馬もあきらめ、

專ら描くことに生活のリズムをとるようになった。

バレージュでの療養中に知り合った若い友人

エティエンヌ・ドヴィスムの短編「牡馬(ココット)」の挿絵を描いたのは、

この年か?あるいは翌80年か?

いずれにせよ、この年から翌年いっぱいをニース、

アルビ、セレイランで過ごし、

油絵を、デッサンを、ひたすら描いている。


1880年、ゴッホ(27歳)​ついに画家になる決意をする!!

7月、当時すでにパリ本店に転勤しており、

彼への送金をつづけていたテオとの文通を再びはじめ、

画家への送金を打ちあけた。

と同時に、炭鉱夫たちのデッサンにいよいよ熱をあげ、

他方、ブルトンやミレーの複製による模写も、

解剖学や透視画法の勉強もはじめた。

10月、ブリュッセルに出たゴッホは、

(おそらくテオの紹介)画家のウイレム・ルーロフスと、

11月には、彼よりずっと若い

同国人アントン・ファン・ラッパルトと交友を結んだ。

そしてルーロフスのすすめであろうが、

本格的に絵画の基礎を学ぶために、

美術学校に入学の手続きをした。

しかし、実際に通学した証拠は何もない。

したがって、もっぱらボルナージュのときの継続である。


1881年、ゴッホ(28歳)4月12日、​

テオの帰郷を知ってエッテンに帰る。

再びブリュッセルには戻る気もなく、

風景と人物(モデルが見つかった時だけ)を描く。

5月、ラッパルトが訪ねてきて、

15日間、ともに描いたり、散歩したりしているし、

また、ハーグに従兄弟の画家アントン・マウフェを訪れたりもする。

(ゴッホがはじめて油絵の手ほどきを受けたのは、

 このマウフェからである)。

夏、未亡人になって間もない、

アムステルダムの牧師ストリッケルの娘であり、

ゴッホには従姉に当たるケイ・フォス・ストリッケルが、

保養のため、子供を連れてエッテンのゴッホ家に来た。

彼女との不幸な愛については・・・

彼女との問題から、彼は父母とも不和になり、

クリスマスツリークリスマスには、

父と激しく争い無断で家を出てハーグに移った。


ロートレック(17歳)7月、​

バカロレア(大学入学資格試験)には失敗するが、

11月、合格した。

しかし、大学へ進む気は次第になくなった。


1882年、ゴッホ(29歳)​

ハーグでは、マウフェが彼を快く迎え、

助言とともに、ときに金銭的援助もしたオーケー

しかし、ゴッホが石膏デッサンを拒んだことから、

早くも二人の関係は冷却し、

3月、マウフェから絶交を言い渡された。

その直接の原因は・・・

ゴッホの、街の女シーンとの同棲だと思われる。

1月末、ゴッホは、シーンを知ったと思われる。

その後の1年半余りに及ぶハーグ時代は、

両親やマウフェばかりか、テオにまで厳しく反対されながら、

6月、性病をうつされて入院しながらも、

この子持ち女シーンとの生活は、

ゴッホの生涯における彼自身の唯一の家庭生活であった。

(なおこの時期、彼の愛読書がゾラ、ミシュレであった)


ロートレック(18歳)3月、​

パリに出たロートレックはブランストーのすすめで、

当時の官学系の人気画家レオン・ボナのアトリエに入り、

厳しいデッサンの指導を受ける。

夏、セイランで過ごした後、

9月、ボナが教室を閉じたので、

友人たちとともに彼もコルモンのアトリエに移った。


1883年、ゴッホ(30歳)​貧困と病気に疲れ果て、

また、シーンを更生させようとの努力も徒労に帰し、

テオの計らいによって、ようやくシーンと別れ、

北オランダの泥炭地ドレンテに移ったのは

9月、しかし、ここの風景の荒涼と貧しさ、

暗さは、彼を孤独に誘いこむのみであるしょんぼり

農民や泥炭坑夫の数枚の油絵、かずかずのデッサンを描いたが、

12月初め、両親の新しい任地ヌエネンに移った。
(両親は9月に赴任)

そしてここで2年間を過ごし(〜1885年11月まで)

油絵だけでも、約200点を制作している。

(彼がまずアトリエとして使用したのは牧師館付属の洗濯所である)

しかし、このヌエネンでの2年間こそ、

彼の故国オランダにおける最後の日々であった。


ロートレック(19歳)​コルモンのアトリエで、

アンクタン、ラヴァル、ゴージ、グルニエ、

ラシュー、エミール・ベルナール等と親しくなり、いわばグループを作る。

この頃になると、

コルモンのアトリエに近いモンマルトルの丘には、

カフェ・コンセールやキャバレーが増えて、

独特の開放的な雰囲気をもって賑わい出した。


そして、ロートレックはその仲間とともに、

昼はコルモンのアトリエで、

夜はモンマルトルの歓楽場で・・・と、

次第にモンマルトル界隈が彼の生活の中心となった。


日本の浮世絵版画を集めたのもこの頃

売春婦マリー・シャルルとの関係が出たのも、

この年の後半か?翌年のはじめ頃?と思われる。

5月、母がマルメロにシャトーを買った。

夏、ロートレックははじめてここで過ごした。


1884年、ゴッホ(31歳)1月17日、​母が脚を骨折し、

ゴッホは献身的に介護する。

​5月・11月、​それぞれ短期間、ラッパルトがヌエネンに滞在。

​8月、​隣家の娘​マルホット・ベーへマンとの恋愛​も、

周囲の反対にあって実らず、マルホットは自殺を図る。


ゴッホには師らしい師はなく、

また直接の弟子もいない。

しかし、このヌエネン時代の前半、

素人画家たち相手ではあるが、絵を教えている。


そして彼らとハーグをはじめ各地の美術館を訪れている。

彼の自我の激しさ、描くことの情熱、非強性調は、

ここでも、よく土地の人たちとトラブルを起こし、

彼の悲劇の原因となっているが、

それにしても、このヌエネン時代の前半は、

マルホットとの恋愛をはさみながらも、

比較的平穏であったと言えるのかもしれない。


ロートレック(20歳)​

制作も歓楽街への出現もいよいよ熱を帯びてくる。

快い安息の場であるが母との同居が窮屈になるほえー

ついに母の反対を(どころか父の反対も)押し切って、

フォンテーヌ街の友人グルニエ夫妻のところに移る

(そのアパルトマンの中庭の奥に尊敬するドガのアトリエがあった)

写真家フォレの庭を制作の場としたのは

この年の後半からか・・・。

そしてその年、赤毛のカルメンを知り、

彼女をモデルに描くことも多くなった。

になって、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ の大作

『聖なる森』のパロディを描いている。


1885年、ゴッホ(32歳)3月26日、​脳卒中により父死去。

4月〜5月、オランダ時代の

代表作『馬鈴薯を食べる人々』完成。

しかし、認められず、ラッパルトからさえも痛烈に批判され、

5年間つづいた彼との文通も交友も終わりをつげた。


この時期、農夫を描くとともに、

馬鈴薯や鳥の巣下向き矢印も描く。

しかも、絵筆は確実に成熟し、

次第に色彩の動きも意識するようになった。

しかし、土地の人々とは(家族とさえも)ますます不和になり、

11月、ついにオランダを棄てた(その直前3日間、

 彼はアムステルダムを訪れ、特に惹かれていた

 レンブラントとプラトンとフランス・ハルスの

 作品のある美術館下向き矢印に通う)。

【アムステルダム国立美術館】


ロートレック(21歳)7月、​

歌い手で詩人であり、キャバレーの経営者・・・

まさにモンマルトルの申し子ともいえる

アリスティード・ブリュアンが、

キャバレー「ミルトン」を開き、ロートレックと意気投合、

たちまち親しくなった。

ロートレックは彼のために、その店のために制作する。

そしてこの年、おそらく夏まえに、宿命的とも言える

彼とシュザンヌ ・ヴァラドンの出会いとなる。

二人はすぐに親しくなり、愛人関係になったダブルハート

ロートレックにおけるシュザンヌ は・・・

ゴッホにおけるシーンであり・・・

ゴッホとロートレック二人の、

全く違った、

しかも相寄る魂の対女性の象徴的存在である

(シュザンヌ との終局は恐らく1889年春だと思われる)。


(参考資料:朝日選書・嘉門安雄著・ゴッホとロートレックより)
(写真撮影:ほしのきらり)

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最終更新日  2021.11.30 00:10:08
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