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「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

ほしのきらり。

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2022.01.27
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カテゴリ:美術館・博物館
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​カンディンスキーは、第一次世界大戦で友人たちを失い母国ロシアへ帰り若いニーナ・アンドレーフスキーと結婚しますダブルハートが・・・


​​Pari​

Vassily Kandinsky​

ワシリー・カンディンスキー

1866年12月4日〜1944年12月13日(78歳没)

ロシア出身の画家・理論家・美術評論家。

抽象絵画の創始者である。


カンディンスキー48歳のとき、

1914年7月28日​、第一次世界大戦が勃発し、

大戦はこうした実り多かるべき理想の

ほとんどすべての実現の可能性を失わせた。​


マルクとマッケは、戦場に倒れた。


クレーは、1916年に徴兵された。


外国人は、ドイツを退去しなければならなかった。


カンディンスキーは・・・

1914年12月にロシアに帰った。


1915年〜1921年にかけての時期は、

おそらく彼の生涯でも

最も危機的なものであった。



彼が1915年になぜ油彩画を

1枚も描いていないのかについては・・・

満足な説明はできない。


そのうちの何点か、

たとえば『白い緑のある絵』

聖ゲオルギウスのテーマを取り上げた

ウィーンのアルベルティーナにある水彩などは、

明らかに以前のヴァリエーションである。


彼は1915年のクリスマスから、

1916年の3月半ばまで

ガブリエーレ ・ミュンターとストックホルムで過ごした。

これがふたりの最後の対面であったバイバイ


1917年の2月、カンディンスキーは、

モスクワでニーナ・アンドレーフスキーと結婚ダブルハート

1944年にパリで死ぬまでこの若く美しい女性と暮らした。


彼が、ストックホルムで製作した6点のドライポイントは、

彼のすぐれた版画家としての才能を示す作品である。

その内の4点は抽象的、

2点は具象的で、

このことは次に来る彼の対立的な葛藤の時代を予告している。


彼は1916年にストックホルムで、

自ら『バカテル』と呼んだ一連の水彩に着手し、

そのあと1917年1918年には、

ガラス絵を何点か描くが、

これらふたつのシリーズは共に、

20世紀初めの木版画とテンペラ画同様、

その精神においてロマンティック、

その様式において具象的である。

たとえば1917年『青い緑のある絵』は、

主題にも様式的にも

1913年『小さな喜び』を思い出される下向き矢印

Small Pleasures(Kleine Freuden)June 1913


しかしながら、1917年には

彼はまた『射手のいる絵』下向き矢印

Picture with an Archer 1909


『聖ゲオルギウス』を描いたが、

これらはいずれも抽象絵画が

まるで存在していないかのように、

またあたかもカンディンスキー自ら

自分の最も誇りとする作品を

否定でもするかのように描かれている。


1917年〜1920年にかけて、

カンディンスキーはまた、

クレムリンを見下ろすモスクワの

自分のアパートからの眺めを含む

10点以上の散文的な風景を描いているが、

これもその真意は解し難い。

1918年にはまたしても、油彩画は1点も描かれなかった。


かつて経済学の学生で、

「労働賃金の合法性」と題する学位論文を書き、

またのちに実際的な労働問題にも

接したことのあるカンディンスキーが、

マルキシズムに詳しかったことは言うまでもない。


伝道者的な熱意をもって新しい、

より理想的な世界の創造を夢見、

近い将来に精神の啓示があると

信じていたカンディンスキーであれば、

ニコライ二世の退位によって

500年以上にわたるツァーの支配が終わりを告げた

1917年2月のロシア革命を歓迎したとしても不思議はない。


レーニンの政治的天才によって始められ、

完遂された1917年10月の共産主義革命は、

より良い世界の実現へのもう一歩をしるすものであろうか?


当時のカンディンスキーはおそらくそう考えたか、

少なくともそう望んだに違いない。


ただし、これを裏付ける資料があるわけではなく、

ただいくつかの事実がそう語っているだけである。


レーニンの革命思想は、

カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスの哲学に基づいている。


彼らの終末論的な、

またユートピア的な理論・・・とりわけ革命は、

「精神と肉体の自由」を

一気に実現するという彼らの信念・・・は、


カンディンスキーの終末理論的なヴィジョンと、

また新しい時代の到来に対する

彼の希望と明らかに多くの共通点を有している。


「ヨーロッパを妖怪が徘徊している」という

『共産党宣言』1848年、の冒頭にある有名な言葉は、

カンディンスキーが『芸術における精神的なもの』の中で、

クービンについて語った

「この種の終末の見者の最たる例」という言葉と

取り替えてもおかしくないほどである。


カンディンスキーは、

個人的には控え目なタイプであったが、

芸術家としてはしばしば他人と協力して

その目的の達成に協力した。


彼はモスクワ大学の学生だった頃にすでに、

よくまとまったグループ全員の協力によって、

共通の目的を達成できることの希望を抱いていたが、

こうした考えはのちに1901年に彼が

ファランクス団の創立メンバーとなった時に実践された。


ファランクス団の試みが、主として財政難のため、失敗すると、


カンディンスキーは、

1906年〜1907年のパリ滞在中に「美術文芸国際協会」の会員となった。


1909年にミュンヘンに戻った彼は、

ミュンヘン新芸術家協会の会長として新しい試みに着手した。


カンディンスキーとマルクが、

その新しい理想を共同で実現すべく

「青騎士」を組織したのは、

彼らとそのごく親しい友だちが

この協会を脱退してからのことであった。


1918年3月14日、モスクワは新生ソ連邦共和国の首都となり、

カンディンスキーは、この新しい国家の芸術生活を建て直すため

最善を尽くしたようである。


彼は人民啓蒙委員会の中の

視覚芸術部門のメンバーのひとりとなった。

その美術組織と購入資金をつてに

カンディンスキーは作品購入と、

地方の22の美術館の整備に大いに力を発揮した。


彼はまた新設された国立芸術学校の教授に任命された。

(この学校の前身のひとつであるストロガノフ美術学校は

 1903年にカンディンスキーの最初の著作である

 『言葉のない詩』を出版した。)

Im Grau,1919[Dans le gris]

 
1920年、カンディンスキーは、

芸術文化研究所の創設に一役買い、

その実現のための長い計画案を書いたが、

これは1923年に多少の修正を加えて公判された。

絵画(または芸術)文化博物館は、その一環であった。


1920年、彼はモスクワ大学の名誉教授に任ぜられた。


彼自身の考えでは、

ロシアにおける彼の最大の功績は、

1921年の夏にモスクワに

ロシア芸術科学アカデミーを創設したことであった。

しかしその会長は、

共産党員という条件付きだったため、

彼がつとめたのは副会長の職であった。


レーニン自身は・・・

彼が計画していた社会の芸術的、

文化的生活には直接には干渉しなかった。


しかし人民啓蒙委員長のルナチャルスキーと

レーニンの妻のナデズダ・クルプスカヤの推奨もあって、

近代美術、とりわけ様々な形の構成主義は、

ロシア社会で重要な地位を締めることになった。


しかしながら、1921年の夏には共産党の下部組織が

あらゆる分野にわたって

「人民による、人民のための芸術」という

官僚的な理念をおしつけ、

ルナチャルスキーは、当時皮肉っぽく

「5カペイカは(100分の1ルーブル)の芸術」

呼ばれたものをつくるように芸術家に要請した。


カンディンスキーは、この「勇敢な新世界」には、

もはや自分を容れる余地がないことを速やかに感知した。


思想的にも、また心情的にも、

これは彼の生涯における最大の失望のひとつであったであろう。


(参考文献:Kandinsky TEXT BY HANS K.ROETHEL
   IN COLLABORATION WITH JEAN K.BENJAMINより)

(写真撮影:ほしのきらり)



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最終更新日  2022.01.27 00:10:09
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