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カテゴリ:美術館・博物館
『フェルメール年譜』ヨハネス・フェルメール・・・とは?ザックリ理解できる【保存版】
![]() ヨハネス・フェルメール Johannes Vermeer ![]() 『レースを編む女』1669年〜1670年頃(ルーヴル美術館所蔵) ![]() ![]() ヨハネス・フェルメール Johannes Vermeer (1632-1675) ![]() 1632年10月31日?〜1675年12月15日?(43歳) Jan van der Meer van Delft ヤン・ファン・メール・ファン・デルフト van Delft ファン・デルフトは「デルフトの」という意味。 当時は、他の人と間違えないように地名を入れている。 父は、レイニエル・ヤンスゾーン・フォス フォスは、Vos=キツネを意味するものだが、 のちにファン・デル・メールに性を変更し、 ファン・デル・メール・ファン・デルフト それを短縮して「ヨハネス」に短縮した。 なぜ短縮したかは・・・不明。 フェルメールは・・・ オランダ(ネーデルラント共和国)の画家。 バロック期を代表する画家のひとり。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 【フェルメールの年譜】&その時代の出来事 ・・・オランダ独立から黄金時代へ・・・ 1568年〜1648年、オランダ独立戦争 旧教国スペインから、ネーデルラント北部7州が独立し、 新教国「ネーデルラント連邦共和国」(オランダ)を成立する。 1602年、東インド会社が設立。海洋貿易で栄える。 1627年頃から、父はデルフトの運河沿いで、 酒場兼用の宿屋「空飛ぶ狐亭」を営む。 1652年〜1654年、1665年〜1667年、英蘭戦争。 1631年、父は、画家工芸家のギルド「聖ルカ組合」に属して画商を営む。 1632年10月31日?(フェルメール=0歳)デルフトに誕生。 父=レイニエル・ヤンスゾーン・フォス 母=ディフナ・バルテンスの 第2子として、ヨハネス・フェルメール誕生。 10月31日、デルフトの新教会で洗礼を受ける。 父は、絹織物職人を務める傍ら、パブと宿屋を経営。 1641年(9歳)4月、父がデルフトの マルクト広場に面した住居兼宿屋「メーヘレン』を購入。 1647年(15歳)この頃、おそらく デルフトを出て、画家として修行を始める。 総督フレデリック・ヘンドリック逝去。 1648年(16歳)ミュンスターの講和。 オランダが外交的に独立を認められる。 この頃から50年代前半にかけて、 アムステルダム新庁舎、 ハーグのハイス・テン・ボスを飾るため、 多くの物語画の注文が出される。 1650年(18歳)議会派と総督派が争い、 議会派が勝利。無総督時代が始まる。 1652年(20歳)第一次英蘭戦争(〜1654年)。 建国以来、初めての不況に見舞われる。 10月12日、父死去。新教会に埋葬。 宿屋と画商を引き継ぐ。 おそらくそれを機にデルフトに戻る。 1653年(21歳)4月、裕福なカトリック家の娘、 カタリーナ・ボルネス(21歳)と結婚 ![]() デルフトの有名画家レオナールト・ブラーメルが立会人。 カタリーナの母マーリア・ティンスが結婚に反対したため フェルメールはプロテスタントから、カトリックに改宗。 4月22日、デルフトでへーラルド・テル・ボルフと 同じ証書に証人として署名。 12月29日、デルフトの「聖ルカ組合」に親方画家として加入、 入会金6ギルダーのうち1ギルダー10スタイフェルを払う。 ![]() 作品販売、弟子をとることができるようになる。 1654年(22歳)10月12日、デルフトで火薬庫の大爆発 ![]() 初期の作品の多くを消失した?(現存する作品の少ない理由) フェルメールに影響を与えたと言われる カレル・ファブリティウス(1622〜1654)死去。享年32歳。 地勢的に戦争の一大軍事拠点として、 大量の武器庫がデルフト周辺に備えられていた。 デルフトの3分の1が壊滅的な被害。 ![]() のちの風景画「古路」1658年〜60年頃、 「デルフトの眺望」1660年〜61年頃にも影響? 『マリアとマルタの家のキリスト』1654-55 ![]() まず、キリスト教の宗教画を描く。 『ダイアナとニンフたち』1655-56 ![]() 1656年(24歳)制作年が記された初の作品 『取り持ち女』1656 ![]() ![]() 7月、レンブラントが、自己破産申請をし認められる。 7月14日、聖ルカ組合の入会金未払い部分を完済。 『聖女プラクセデス』1656 ![]() 『眠る女』1656-57 ![]() 1657年(25歳)アムステルダムの画商レニアルムの 財産目録にフェルメールの『聖墳墓詣り』の記載あり。 11月20日、パトロンのピーテル・ファン・ライフェンから 2000ギルダーの借金。 『窓辺で手紙を読む女』1658-59 ![]() 『士官と笑う女』1658-59 ![]() 『牛乳を注ぐ女』1658-59 ![]() 『紳士とワインを飲む女』1658-59 ![]() 『小路』1658-59 ![]() 『デルフトの眺望』1659-60 ![]() 1660年(28歳)イギリス王政復古。 デルフト新教会へのカリヨン取り付け工事が始まる。 12月27日、子どもを亡くす。旧教会に埋葬。 その際の住所には、アウエ・ランゲンデイク、 つまり妻の実家の住所となっていた。 『2人の紳士と女』1660-61 ![]() 『稽古の中断』1660-61 ![]() 1661年(29歳)妻の母(義母)が結婚を承認。 すでに義母の家で生活し、金銭的援助を受けていた。 アトリエは2階北向きの部屋。 1662年(30歳)聖ルカ組合の理事(任期2年)。 組合史上、最年少の理事だった。 『音楽の稽古』1662 ![]() 『窓辺で水差しを持つ女』1662-65 ![]() 『青衣の女』1662-65 ![]() 『真珠の首飾り』1662-65 ![]() 『天秤を持つ女』1662-65 ![]() 『リュートを調弦する女』1662-65 ![]() 1663年(31歳)フランス人美術愛好家で旅行家の バルタザル・ド・モンコニーが来訪するが、 彼の日記には「彼は自分の作品を1点も持っていなかった」 とあり、在庫がほとんどない人気作家だったと思われる。 自宅には作品がなく、パン屋で1点を見る。 彼はパン屋が支払った値段600ギルダーを高いと日記に記した。 1664年(32歳)2月、薬屋に借金。絵具代? ハーグの彫刻家ジャン・ラルリンの遺産中に評価額10ギルダーの 「フェルメールのトロニー、1点」あり、 1665年(33歳)ファン・ライフェンの妻が フェルメールに500ギルダーの遺贈を決める。 ![]() 『赤い帽子の女』1665 ![]() 『手紙を書く女』1665-66 ![]() 『真珠の耳飾りの少女』1665-66 ![]() 『合奏』1665-66 ![]() 1666年(34歳)フランス・ハルス没。 『絵画芸術』1666-67 ![]() 『絵画芸術』が制作される。 1667年(35歳)ブレイスウィック著、 「デルフト市誌」で、存命画家として言及され、 ファブリティウスの後継者として賞賛を受ける。 7月、息子である乳児が死亡。旧教会に埋葬される。 『女と召使い』1667-68 ![]() 1668年(36歳)『天文学者』を制作。(年紀あり) 『天文学者』1668 ![]() 5月14日および6月21日、P.テーデング・ファン・ベルクハウトが、 この両日の日記に「フェルメールという有名な画家を訪問し、 作品を見た」と記す。5月の訪問の折には、おそらくハイエンスも同行。 1669年(37歳)『地理学者』制作(年紀あり) 『地理学者』1669 ![]() 7月、子どもを亡くす。旧教会に埋葬。 10月4日、レンブラント63歳で没する。 アムステルダム市の委託医ヤン・シスムス作成の画家リストに 「ファン・デル・メール、上流の若者たちと城」の記載あり。 『少女』1668-69 ![]() 『レースを編む女』1669-70 ![]() 1670年(38歳)2月、母が亡くなる。 5月、姉が亡くなる。新教会に埋葬する。 400ギルダーの遺産を受ける。 宿屋「メーヘレン」を相続。 10月「聖ルカ組合」理事(任期2年)。 第二次英蘭戦争(〜1674年) 無総督時代が終焉し、ウィレム3世が総督に任命。 ![]() 『恋文』1669-71 ![]() 『ヴァージナルの前に立つ女』1669-71 ![]() 『手紙を書く女と召使』1670-72 ![]() 1672年(40歳)1月24日、亡くなった母より相続した 実家の「メーヘレン」を年間180ギルダーで賃貸に出す。 5月、イタリアの絵画の鑑定のため、 ヨハネス・ヨルダーンスとともにデン・ハーグに行く。 『ヴァージナルの前の女』1670年頃 ![]() ・・・オランダの衰退・・・ 1672年〜1674年、第3次英蘭戦争。 1672年〜1678年、フランスからも侵略され、 政治が不安定になり、経済が逼迫する。 1660年代後半からフェルメールは・・・ 家作や債券の利息で暮らす金利生活の義母の代理人として 資金運用や賃貸金の仕事に携わっていた。 経済の悪化で収入が滞り、 その取り立てのためにオランダ各地を回る。 制作に専念できず? 1673年(41歳)この頃より没年まで、 義母の代理として貸金の回収に奔走する。 6月、子どもを亡くす。旧教会に埋葬される。 8000ギルダーに上る再建を売却。 絵は売れず!生活に困窮する。 『ギターを弾く女』1673-74 ![]() ![]() 『信仰の寓意』1673-75 ![]() 1674年(42歳)この年までのデルフト市民防衛隊の名簿に 「ヤン・ファン・デル・メール」の名がある。 この年の義母の納税額は130ギルダー。 財産は逆算すると26,000ギルダーになる。 フェルメールの娘マリーアが結婚 ![]() 7月20日、1000ギルダーの借金。 1675年(43歳)12月15日? デルフト市の妻の実家で、フェルメール死去。(死因不明) 11人の子ども(8人が25歳未満)が残された。 12月16日、旧教会に埋葬。 『ヴァージナルの前に座る女』1675 ![]() 現存する最後の作品。 1676年(没後)、 2月、デルフト市の公証人助手・J・ファン・フェーンが財産目録作成。 乳鉢、石机、白の毛皮縁つき黄色のサテンのガウン、 ![]() 油彩画など詳細な記載。絵具自製の道具や絵のモティーフに使われたもの? 4月、妻カタリーナ・ボルネスが自己破産を申請。 妻の証言では、晩年のフェルメールは健康を害していたという。 「11人の子どもを抱え、そのうえに亡き夫は 数年前のフランス国王との戦争以来、ほとんど あるいは全くの無収入の状態であり、 購入し扱っていた絵も大損を覚悟で 子どもの養育のために売却せねばならなかった。 このため、かなりの借金を負っていた」。 9月、義母がすべての財産を フェルメールの子どもに遺贈すると遺言状を書き換える。 アントニ・ファン・レーウェンフックが遺産管財人に任命される。 1677年(没後2年) 3月、カタリーナと義母が、 ![]() 『絵画芸術』は手元に残すように訴えるが、 借金返済のために同作品も競売にかけることになる。 「聖ルカ組合」会館で遺産の絵画の売り立てを開催。 1696年(没後19年) 5月、21作品がアムステルダムでディシウス競売にかけられる。 (写真撮影:ほしのきらり) ![]() フェルメールに ![]() ![]() ![]()
最終更新日
2022.05.21 00:10:13
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