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「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

2022.05.21
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カテゴリ:美術館・博物館
​『フェルメール年譜』ヨハネス・フェルメール・・・とは?ザックリ理解できる【保存版】スマイル

ヨハネス・フェルメール
​Johannes Vermeer​

『レースを編む女』1669年〜1670年頃​​​​(ルーヴル美術館所蔵)​

パレットフェルメール・・・とは?パレット

ヨハネス・フェルメール
Johannes Vermeer
(1632-1675)


1632年10月31日?〜1675年12月15日?(43歳)

​​ Jan  van  der  Meer  van  Delft​​
​​​ヤン・ファン・メール・​ファン・デルフト​​​​


van Delft ファン・デルフトは「デルフトの」という意味。

当時は、他の人と間違えないように地名を入れている。


父は、レイニエル・ヤンスゾーン・フォス

フォスは、Vos=キツネを意味するものだが、

のちにファン・デル・メールに性を変更し、

ファン・デル・メール・ファン・デルフト

それを短縮して「ヨハネス」に短縮した。

なぜ短縮したかは・・・不明。


フェルメールは・・・

オランダ(ネーデルラント共和国)の画家。

バロック期を代表する画家のひとり。


四つ葉四つ葉​​​​・・四つ葉・・四つ葉四つ葉四つ葉・・四つ葉・・四つ葉四つ葉・・四つ葉・・・四つ葉

​​

​​【フェルメールの年譜​&​​その時代の出来事​

​・・・オランダ独立から黄金時代へ・・・​

1568年〜1648年、オランダ独立戦争

旧教国スペインから、ネーデルラント北部7州が独立し、

新教国「ネーデルラント連邦共和国」(オランダ)を成立する。

1602年、東インド会社が設立。海洋貿易で栄える。


1627年頃から、父はデルフトの運河沿いで、

酒場兼用の宿屋「空飛ぶ狐亭」を営む。


1652年〜1654年、1665年〜1667年、英蘭戦争。

1631年、父は、画家工芸家のギルド「聖ルカ組合」に属して画商を営む。


1632年10月31日?(フェルメール=0歳)​​​​​デルフトに誕生。

父=レイニエル・ヤンスゾーン・フォス

母=ディフナ・バルテンスの

第2子として、ヨハネス・フェルメール誕生。

10月31日、デルフトの新教会で洗礼を受ける。

父は、絹織物職人を務める傍ら、パブと宿屋を経営。


1641年(9歳)4月、​父がデルフトの

マルクト広場に面した住居兼宿屋「メーヘレン』を購入。


1647年(15歳)​この頃、おそらく

デルフトを出て、画家として修行を始める。

総督フレデリック・ヘンドリック逝去。


1648年(16歳)​ミュンスターの講和。

オランダが外交的に独立を認められる。

この頃から50年代前半にかけて、

アムステルダム新庁舎、

ハーグのハイス・テン・ボスを飾るため、

多くの物語画の注文が出される。


1650年(18歳)​議会派と総督派が争い、

議会派が勝利。無総督時代が始まる。


1652年(20歳第一次英蘭戦争(〜1654年)。

建国以来、初めての不況に見舞われる。

10月12日、​
父死去。新教会に埋葬。

​宿屋と画商を引き継ぐ。

おそらくそれを機にデルフトに戻る。


1653年(21歳)4月
裕福なカトリック家の娘、

カタリーナ・ボルネス(21歳)と結婚ダブルハート

デルフトの有名画家レオナールト・ブラーメルが立会人。

カタリーナの母マーリア・ティンスが結婚に反対したため

フェルメールはプロテスタントから、カトリックに改宗。

4月22日、デルフトでへーラルド・テル・ボルフと

同じ証書に証人として署名。

12月29日、デルフトの「聖ルカ組合」に親方画家として加入、

入会金6ギルダーのうち1ギルダー10スタイフェルを払う。

星プロの画家として署名。

作品販売、弟子をとることができるようになる。


1654年(22歳)10月12日、​デルフトで火薬庫の大爆発爆弾

初期の作品の多くを消失した?(現存する作品の少ない理由)

フェルメールに影響を与えたと言われる

カレル・ファブリティウス(1622〜1654)死去。享年32歳。

地勢的に戦争の一大軍事拠点として、

大量の武器庫がデルフト周辺に備えられていた。

デルフトの3分の1が壊滅的な被害。

星「事故画」から新ジャンルの「都市景観画」が派生。

のちの風景画「古路」1658年〜60年頃、

「デルフトの眺望」1660年〜61年頃にも影響?

​『マリアとマルタの家のキリスト』​1654-55​ 

まず、キリスト教の宗教画を描く。

『ダイアナとニンフたち』1655-56



1656年(24歳​制作年が記された初の作品

『取り持ち女』1656 

​​
星歴史画から風俗画に移行する過渡期の作品。

7月、レンブラントが、自己破産申請をし認められる。

7月14日、聖ルカ組合の入会金未払い部分を完済。

『聖女プラクセデス』1656


『眠る女』1656-57 



1657年(25歳)​アムステルダムの画商レニアルムの

財産目録にフェルメールの『聖墳墓詣り』の記載あり。

11月20日、パトロンのピーテル・ファン・ライフェンから

2000ギルダーの借金。

『窓辺で手紙を読む女』1658-59


『士官と笑う女』1658-59


『牛乳を注ぐ女』1658-59


『紳士とワインを飲む女』1658-59


『小路』1658-59


『デルフトの眺望』1659-60


1660年(28歳)​イギリス王政復古。

デルフト新教会へのカリヨン取り付け工事が始まる。

12月27日、子どもを亡くす。旧教会に埋葬。

その際の住所には、アウエ・ランゲンデイク、

つまり妻の実家の住所となっていた。

『2人の紳士と女』1660-61


『稽古の中断』1660-61



1661年(29歳)​妻の母(義母)が結婚を承認。

すでに義母の家で生活し、金銭的援助を受けていた。

アトリエは2階北向きの部屋。


1662年(30歳)​聖ルカ組合の理事(任期2年)。

組合史上、最年少の理事だった。

『音楽の稽古』1662


『窓辺で水差しを持つ女』1662-65


『青衣の女』1662-65


『真珠の首飾り』1662-65


『天秤を持つ女』1662-65


『リュートを調弦する女』1662-65


1663年(31歳)​フランス人美術愛好家で旅行家の

バルタザル・ド・モンコニーが来訪するが、

彼の日記には「彼は自分の作品を1点も持っていなかった」

とあり、在庫がほとんどない人気作家だったと思われる。

自宅には作品がなく、パン屋で1点を見る。

彼はパン屋が支払った値段600ギルダーを高いと日記に記した。


1664年(32歳)2月、​薬屋に借金。絵具代?

ハーグの彫刻家ジャン・ラルリンの遺産中に評価額10ギルダーの

「フェルメールのトロニー、1点」あり、


1665年(33歳)​ファン・ライフェンの妻が

フェルメールに500ギルダーの遺贈を決める。

星【成熟期】多くの代表作が描かれる。

『赤い帽子の女』1665

​​
『手紙を書く女』1665-66


『真珠の耳飾りの少女』1665-66


『合奏』1665-66


1666年(34歳)​フランス・ハルス没。

『絵画芸術』1666-67

『絵画芸術』が制作される。

1667年(35歳)​ブレイスウィック著、

「デルフト市誌」で、存命画家として言及され、

ファブリティウスの後継者として賞賛を受ける。

7月、息子である乳児が死亡。旧教会に埋葬される。

『女と召使い』1667-68



1668年(36歳)​『天文学者』を制作。(年紀あり)

『天文学者』1668


5月14日および6月21日、P.テーデング・ファン・ベルクハウトが、

この両日の日記に「フェルメールという有名な画家を訪問し、

作品を見た」と記す。5月の訪問の折には、おそらくハイエンスも同行。


1669年(37歳)​『地理学者』制作(年紀あり)

『地理学者』1669


7月、子どもを亡くす。旧教会に埋葬。

10月4日、レンブラント63歳で没する。

アムステルダム市の委託医ヤン・シスムス作成の画家リストに

「ファン・デル・メール、上流の若者たちと城」の記載あり。

『少女』1668-69


『レースを編む女』1669-70

​​

1670年(38歳)2月、​母が亡くなる。

5月、姉が亡くなる。新教会に埋葬する。

400ギルダーの遺産を受ける。

宿屋「メーヘレン」を相続。

10月「聖ルカ組合」理事(任期2年)。

第二次英蘭戦争(〜1674年)

無総督時代が終焉し、ウィレム3世が総督に任命。

星明暗対比や小道具の寓意を強調するステイルに変化。

『恋文』1669-71


『ヴァージナルの前に立つ女』1669-71

​​

『手紙を書く女と召使』1670-72


1672年(40歳)1月24日、​亡くなった母より相続した

実家の「メーヘレン」を年間180ギルダーで賃貸に出す。

5月、イタリアの絵画の鑑定のため、

ヨハネス・ヨルダーンスとともにデン・ハーグに行く。

『ヴァージナルの前の女』1670年頃

​​

​​​・・・オランダの衰退・・・​​​

1672年〜1674年、第3次英蘭戦争。

1672年〜1678年、フランスからも侵略され、

政治が不安定になり、経済が逼迫する。

1660年代後半からフェルメールは・・・

家作や債券の利息で暮らす金利生活の義母の代理人として

資金運用や賃貸金の仕事に携わっていた。

経済の悪化で収入が滞り、

その取り立てのためにオランダ各地を回る。

制作に専念できず?


1673年(41歳)​この頃より没年まで、

義母の代理として貸金の回収に奔走する。

6月、子どもを亡くす。旧教会に埋葬される。

8000ギルダーに上る再建を売却。

絵は売れず!生活に困窮する。

『ギターを弾く女』1673-74


星古典主義が復活しはじめ、時代に適応しょうとした?

『信仰の寓意』1673-75



1674年(42歳)​この年までのデルフト市民防衛隊の名簿に

「ヤン・ファン・デル・メール」の名がある。

この年の義母の納税額は130ギルダー。

財産は逆算すると26,000ギルダーになる。

フェルメールの娘マリーアが結婚ダブルハート

7月20日、1000ギルダーの借金。


1675年(43歳)12月15日?

デルフト市の妻の実家で、
フェルメール死去。(死因不明)

11人の子ども(8人が25歳未満)が残された。

12月16日、旧教会に埋葬。

『ヴァージナルの前に座る女』1675

現存する最後の作品。


1676年(没後)、

2月、
デルフト市の公証人助手・J・ファン・フェーンが財産目録作成。

乳鉢、石机、白の毛皮縁つき黄色のサテンのガウン、

油彩画など詳細な記載。絵具自製の道具や絵のモティーフに使われたもの?

4月、妻カタリーナ・ボルネスが自己破産を申請。

妻の証言では、晩年のフェルメールは健康を害していたという。

「11人の子どもを抱え、そのうえに亡き夫は

 数年前のフランス国王との戦争以来、ほとんど

 あるいは全くの無収入の状態であり、

 購入し扱っていた絵も大損を覚悟で

 子どもの養育のために売却せねばならなかった。

 このため、かなりの借金を負っていた」。

9月、義母がすべての財産を

フェルメールの子どもに遺贈すると遺言状を書き換える。

アントニ・ファン・レーウェンフックが遺産管財人に任命される。


1677年(没後2年​

3月、カタリーナと義母が、

『絵画芸術』は手元に残すように訴えるが、

借金返済のために同作品も競売にかけることになる。

「聖ルカ組合」会館で遺産の絵画の売り立てを開催。


1696年(没後19年)​

5月、21作品がアムステルダムでディシウス競売にかけられる。


(写真撮影:ほしのきらり)



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最終更新日  2022.05.21 00:10:13
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