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カテゴリ:美術館・博物館
17歳で親方になったラファエロは、花の都フィレンツェへ行き2人の偉大な芸術家に出会います
ラファエロ・サンティ Raffaello Santi 『一角獣の貴婦人』1505年〜1506年頃 カンヴァスに油彩(板から移行)65.0cmx51.5cm (フィレンツェ時代) ローマ「ボルゲーゼ美術館」所蔵。 ラファエロの「フィレンツェ時代」 若きラファエロは、フィレンツェで、 二人の偉大な先人に出会うという幸運に恵まれた。 1500年代初頭、 レオナルド・ダ・ヴィンチは、 すでに50代の円熟期にあり、 30代のミケランジェロは、 まさにキャリアのピークを迎えようとしていた。 ラファエロは、 この貴重な機会を逃さなかった。 彼は確実に、 レオナルドのほぼすべての作品を見ている。 そして貪欲に、 巨匠の様式をとり込み始める。 たとえば、 レオナルド工房で多作された 『レダと白鳥』のポーズは、 のちの『ガラティアの凱旋』などの原型となる。 とりわけ、 レオナルド・ダ・ヴィンチ Leonardo da Vinci Vinci,1452-Amboise,1519 La Gioconda(La Joconde) 『モナ・リザ』(ラ・ジョコンダ)で打ち出された 「四分の三面観」や、 手の配置、 背後の風景などには衝撃をうけたようで、 彼のその後の肖像画は、 ほぼすべて、 『ラ・ジョコンダ』との共通点を持つまでになった。 ミケランジェロは・・・ ラファエロがフィレンツェにいた1504年、 フィレンツェ政庁からの注文である 『ダヴィデ』を完成させている。 それをどこに置くかを審議するためだけに、 ボッティチェリやレオナルド、ペルジーノらが、 召集されたことをみれば、 この作品がフィレンツェにとって いかに貴重なものだったかがわかる。 ラファエロがこの巨人に無関心でいられるわけもなく。 たとえば、 ラファエロ・サンティ Raffaello Santi 『バリオーニの祭壇画』1507年 に描かれた、 マリアを下から支えようとしている女性は、 ミケランジェロの『トンド・ドーニ』(ウフィツイ美術館) を学んだ結果であり、 激しく身を回転させるその動きは、 まさに彫刻的である。 古代に学んだミケランジェロのエッセンスが、 こうしてラファエロにとりこまれていく。 ラファエロが古代への憧憬を募らせ、 次にローマを目指したのは当然の帰結といえる。 この点で、 古代彫刻の『三美神』 に触れたことは、 ラファエロにとって大きな転換点となった。 紀元前3~2世紀頃の ギリシャのオリジナル彫刻が、 ローマ帝国時代の3世紀頃に 大理石でコピーされた作品である『三美神』は、 1502年、 フランチェスコ・ピッコローミニ枢機卿 (翌年教皇ピウス三世となる)によって、 ローマの邸宅から、 シエナ大聖堂の内部に移されていた。 シエナの隣国フィレンツェにいたラファエロは、 さっそくこの古代彫刻に学んだ。 その成果が、 『三美神』である。 現存するラファエロの最初の俗主題 (=聖書を題材としない)作品である『三美神』は、 『騎士の夢』と一対をなしていた。 三人の美神は、 それぞれゆるやかなS字と、コントラポスト (両足をずらして体重をかける古代彫刻ならではのポーズ)をとり、 全体的に美しいまとまりを獲得している。 (参考文献:新人物往来社・ラファエロの世界より) (写真撮影:ほしのきらり) 世界遺産にぽち お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022.08.06 00:10:09
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