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「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

ほしのきらり。

カテゴリ

2022.08.15
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カテゴリ:美術館・博物館
ラファエロはどんな環境で育ったのでしょうか?〜幼少期の彼についても詳しく知りたいですねスマイル



「ラファエロの初めの師は、

 父ジョヴァンニ・サンティと

 マルケの風景であった」


・・・美術史家:オスカー・フィッシュは、

このような一文で、

彼の初期の活動について切り出す。

若き日のラファエロが置かれていた環境を示す、

端的な一文である。


ラファエロ・サンティ
​Raffaello Santi​

最晩年(左=36歳の時)

1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)

イタリアのウルビーノ公国に生まれる。

盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。

レオナルド・ダ・ヴィンチと、

ミケランジェロとともに

盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。

八頭身の長身でイケメン、

誰にも好かれた人柄であった。

【代表作】

『アテネの学堂』


『システィーナの聖母』



パレット​ラファエロの誕生と幼少期​パレット

ルネサンス時代のイタリア画家に限らず、

芸術家を語る際には、

多くの場合、

地域的な環境が前提として重要となる。


地域ごとに特徴的な様式が根付き、

そこから画家の個性が育まれていくためである。


ラファエロは・・・

イタリア中部に位置する

マルケ地方の都市​「ウルビーノ」​に生まれた。


標高485mの山間に位置する、

この小都市は、

緑豊かな田園に囲まれた、

風光明媚な風土である。


​ウルビーノは・・・​

15世紀中頃より、

モンテフォルトロ家に統治された公国で、

公爵一族の住まうドゥカーレ宮殿が、

城壁に囲まれた都市の中心にそびえ建つ。


​ラファエロの父は・・・​

この公爵家に仕えた文人画家:

ジョヴァンニ・サンティ(1440頃〜94年)を父に、

1483年4月6日に誕生した。


母親は、

マジア・ディ・バッティスタ・チャルラという

ウルビーノの女性で、

ラファエロの前に、

男児と女児を一人ずつ出産していたが、

いずれも幼年で死去していた。


ウルビーノ公国の地位は・・・

傭兵隊長として武勲が知られた

フェデリコ・ダ・モンテフェルトロ三世、

(1422〜82年)が他界すると、

嫡男グイドバルド(1472〜1508年)が後継を担う。


ラファエロが生まれたのは・・・

侯爵が交代した時期、

フェデリコの死から一年後にあたった。

ラファエロの父:ジョヴァンニが仕えた

ウルビーノの宮殿では、

小規模ながら洗練された文化が展開していた。


絵画の分野では・・・

ピエロ・デッラ・フランチェスカ(1416/7~92年)のような、

イタリア出身の画家だけでなく、

アルプス以北からも、

芸術家が招かれ活動していた。


宮殿の画家による絵画では、

フェデリコ・ダ・モンテフェルトロと、

幼いグイドバルドが描かれている。

ガウンの下に甲冑を身に着けたまま

書物を読むフェデリコの姿には、

軍人ながら教養を備えた、

知的な君主のイメージが反映されている。


父:ジョヴァンニ・サンティもまた、

宮殿に仕えた画家であったが、

後世に評価されているのは

文人としての功績であり、

代表作は、

公爵フェデリコの業績を記念する「韻文年代記」である。


父親の職業を考えると・・・

ラファエロは幼い頃から

宮殿文化に接する機会に恵まれていたと見るのが自然だろう。


ちなみに、

​ラファエロの出生時の苗字は、​

​サンティ(Santi)​だが、

のちに人文主義的趣向から、

ラテン語風に

​サンツィオ(Sanzio)​と署名するようになる。


今日、一般的に

​ラファエロ・「サンツィオ」​と表記するのは、

本名ではなく署名にちなんでいるわけだ。


家ラファエロの生家は・・・

現在もウルビーノ市内に残され、

美術館として一般に公開されている。


画材を扱ったと思しき場所や、

幼少の頃のラファエロが描いたのではないかと

いわれる壁画が残されている。


サンティ家は・・・

急な坂道に面しているのだが、

その坂を下り、

しばらく道を進むと、

ドゥカーレ宮殿の広場に数分でたどりつく距離である。


父:ジョヴァンニが、

幼いラファエロの手を引いて、

宮殿まで連れて行ったこともあったかもしれない?


いずれにせよ、

ラファエロは両親と、

そう長い時間を過ごすことはできなかった。


ラファエロの生母マジアは、

1491年、ラファエロの8歳の時に他界、

ジョヴァンニは後妻として、

ベルナルディーナ・ディ・バルデを娶り、

エリザベッタという女児を授かる。


しかし、

ジョヴァンニ自身もまた1494年に死去し、

まだ​11歳​だったラファエロの後見は、

以降、母方の伯父が担う。


幼少の頃から、

絵画の才覚に恵まれていたと言われるラファエロが、

父と同じ画家の職業へ進んだことは、

そう不思議ではないだろう。


当時、

絵や彫刻の専門職になるためには、

工房に入るのが一般的だった。


親方のもとに若年のうちから弟子入りし、

画材の準備などの下働きを通じて

徒弟・見習いとなるシステムである。


そして、

絵画術の基礎を身につけた後は、

親方の制作の一部を手伝い、

徒弟期間を終えれば、

独立して自身が親方になる道も開けた。


修行時代のラファエロについては・・・

史料が乏しく不明な部分が多い。


だが、

幼年期に画家でもあった父:ジョヴァンニから

直接手ほどきを受けたと考えられるだろう。


父の死後は、

ジョヴァンニの工房で助手を務めていた、

エヴァンジェリスタ・ダ・ピアン・ディ・メレート

という画家に学んだと推測されている。


(参考文献:中公新書2614ラファエロ-ルネサンスの天才芸術家より)
(写真撮影:ほしのきらり。)


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最終更新日  2022.08.15 00:10:10
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