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ほしのきらり。

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2022.08.19
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カテゴリ:美術館・博物館
19歳のラファエロが故郷ウルビーノからフィレンツェへ移動する時の怪しい「紹介状」を見てみましょうスマイル

ラファエロ・サンティ
​​Raffaello Santi​

『聖母子と洗礼者ヨハネ』

(美しき女庭師)1507年

板に油彩 122.0cmx80.0cm

(フィレンツェ時代の作品)

パリ「ルーヴル美術館」所蔵。


ラファエロ・サンティ
​Raffaello Santi​

1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)

イタリアのウルビーノ公国に生まれる。

盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。

レオナルド・ダ・ヴィンチと、

ミケランジェロとともに

盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。

八頭身の長身でイケメンで、

謙虚で礼儀正しく、

誰にも好かれた人柄であった。

【代表作】

『アテネの学堂』


『システィーナの聖母』



ラファエロのフィレンツェへの移動と

関連する史料として、

従来は、

ラファエロが携えていたとされる「紹介状」が、

常に引き合いにされてきた。


​「紹介状」・・・内容とは?​

グイドバルド・ダ・モンテフェルトロ

(ウルビーノ公)の姉:

ジョヴァンナ・フェルトリア

(1463年〜1514年)から、


フィレンツェ共和国の終身国家主席:

ピエロ・ソデリーニへ宛てた、

1504年10月1日付の書簡である。

その文面は、

次のような、

画家に便宜をはかるよう依頼するものだ。


本状を持参する者は、

ウルビーノの画家ラファエロです。

この者は、


その職の才能に恵まれ、

​修行のため一定期間

フィレンツェに滞在することを決めました。

知るところでは、

彼の父親は、

たいへん優れており、

大切な人物です。

同じく息子も

謙虚で礼儀正しい若者です。

あらゆる点で、

この者をこの上なく好ましく思い、

善き完遂へと

到達することを望んでおります。

そのため、

長官閣下に率直に、

心より出来得る限りの

お願いとして申し上げます。

必要な折には彼に手助けと便宜を

何卒お計らいくださいますように。

閣下から受け取るご配慮と厚意すべては

私自身へのものと受け止め、

お願い申し上げたことを

有難く受け取る所存でございます。

( J.Shearman,Raphael in Early Madern Sources

(1483-1602),New Haven and London,2003より拙訳)


しかし、注意すべきは、

この文書は、

18世紀の一研究者によって引用されたものの、

その後所在が不明となり、

現在では検分が不可能となっている点だ。


また、

すでに他界している父:サンティについて、

現在形を用いて説明している

(「彼の父親はたいへん優れており、大切な人物です」)

ことから、

信憑性に疑問符がつけられるようになった。


つまり、

ラファエロが1504年に

フィレンツェにやってきたという、

推測される歴史的出来事を支持するために、

​捏造された史料ではないか​

という議論があるのである。


確実に言えるのは・・・

ラファエロは、

1504年〜08年まで

フィレンツェには滞在していたが、


故郷ウルビーノ、

そしてペルージャにも、

仕事の都合でたびたび顔を出しており、


さらに、

古代美術の知見を深めるため

ローマにも足を延ばしているということである。


記録上、

ラファエロは、

1505年〜07年まで、

毎年一度は、

ウルビーノに留まっていたことが確認され、


1505年には、

少なくとも二度、

作品制作の関係で、

ペルージャを訪問している。


この間、

紹介状の宛先であった

フィレンツェ共和国政府が、

ラファエロに接触し、仕事を注文した。

という事実は確認されていない!


そのため、

近年では、

紹介状の資料としての真正性を否定、

あるいは慎重な立場をとる研究者が多い。


共和国政府は、

公的モニュメントの制作を企画するなど、

芸術パトロンとしての重要な役割ももっていた。


ラファエロもおそらく、

そうした大規模な装飾事業を請け負うような

画家となることを目指していたのだろう。


だが、

フィレンツェでは、

あくまで他の地域出身の新参者、

貴族など富裕層からの

プライヴェイトな作品受注を中心に活動することとなった。


彼の名声の一部をなす、

優雅な聖母子の代表作の一部は、

この時期・・・

1505年〜07年に制作されたものだ。


フィレンツェで、

ラファエロの活動を切り拓く

重要なパトロンとなったと思われるのは、

裕福な商人:タッデオ・タッディ

(1470年〜1529年)である。


1508年、

タッディがウルビーノに滞在する際、

ラファエロは伯父の書簡のなかで、

彼を歓待するようにと伝えていることから、

良好な間柄がうかがえる。


ヴァザーリによると、

ラファエロは、

タッディのために

二点の聖母子画を制作し、

両作品の間には様式の変化が見られる、

とされる。


フィレンツェにおける作風の

飛躍を示すエピソードと言えるだろう。


初の公の注文となったのは、

『天蓋の聖母』と呼ばれる祭壇画である。


この祭壇画は、

サント・スピリト聖堂

ディ礼拝堂のために注文された作品だが、

ラファエロは、

未完のまま残すことになった。


1508年の秋、

教皇の治める教会国家、

ローマへと活動拠点を移すことになったからである。


1520年4月に他界するまで、

彼はこの地に留まることとなる。


なお、

この間レオナルドは、

拠点としていたフィレンツェを

1506年には去っている。


その年、

フランス人総督が支配するミラノへと再び赴き、

1513年には、ローマへ移動し、

ラファエロと再会したと思われる。


1516年には、

フランス王フランソワ一世に​請​われて

アンボワーズへ赴き、

その地で1519年に他界した。


一方、

ミケランジェロは、

1508年初夏から、

1512年秋までは、ローマにて

システィーナ礼拝堂天井画装飾に従事するが、

1513年、新教皇レオ10世から

フィレンツェでの仕事を任命されると、

フィレンツェに戻った。


その間も、

しばしばローマや他の都市に赴き、

ラファエロとローマ滞在時期が重なることは多かった。

ミケランジェロの最期の地もやはり、

ローマで、

1564年、88歳にて他界した。


(参考文献:中公新書2614ラファエロ-ルネサンスの天才芸術家より)

(写真撮影:ほしのきらり。)




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最終更新日  2022.08.19 00:10:11
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