「きらりの旅日記」

2023/05/07(日)00:10

野鳥が来る回遊式林泉庭園 清澄庭園 Kiyosumi Gardens 古い清澄園記を発見! 涼亭 Ryoutei House 清澄庭園・・・とは? 涼亭を建てた訳は? どんな野鳥が来るの?

東京寺社&庭園散歩♪(180)

東京にもこんなに広々とした日本庭園があったのですね〜野鳥が飛んでくる『清澄庭園』 ​きよすみていえんき りょうてい​ ​清澄庭園記・涼亭​ 2023年2月11日(土)朝の訪問 【清澄庭園内の地図】涼亭あたりを歩いています 大泉水という大きな池をぐるっと周って歩く日本庭園です ​どんな野鳥が来るのでしょうか?​ 冬の野鳥は・・・キンクロハジロ ​​ ホシハジロ、オナガガモ、ヒドリガモ、など。 夏の野鳥は・・・ツバメ、など。 通念見られる野鳥は・・・キジバト、ヒヨドリ、 オナガ、ムクドリ、シジュウカラ、アオサギ、 ゴイサギ、カワウ、ユリカモメ、など。 地図と標識を確認しながらの・・・まったりお散歩。 この庭園は、起伏が少ないので楽ちんです。 標識を確認しながら・・・「涼亭」Riyoutei方向へ 樹木に囲まれた場所まで入って来ました 大きな一枚岩に記された文字には・・・何が 清澄庭園についてとても古く昭和4年に記された文字です。 どこまで読めるかしら? ​清澄園記​ 本園はもと岩崎男爵の別墅になりしを 大正一三年六月東京市に公園として 寄附せられたるものなり 江戸地圓を案するに寛延二年前におりては 松平大炊の名見ゆるも以後は 久世大和守の下屋敷となり 明治維新後は久しく荒廃に帰せしを 明治十一年に岩崎彌太郎君始めて 附近一帯と併購して別邸を構へ庭園を拓き 殊に奇巌珍石を全國より移し來りて 其景観を添へ名付けて 深川親睦園と伝ひ故舊内外紳士を会して その清娯を倶にし 又社員平日の勤労を慰むるの處とせられたり 十八年君榼逝の後彌之助君は、 今兄の志を紹?更?園池を???? ???文字が消えてもう読めない・・・・残念 昭和四年九月  東京市 95年前の石碑なので仕方ないです。 ​岩崎久彌・・・とは?​ ​いわさきひさや​ (1865年10月14日〜1955年12月2日) 明治から昭和にかけての実業家。 三菱の創業者:岩崎彌太郎の長男。 三菱財閥3代目、男爵。 清澄庭園を東京市に寄付したことを称えた石碑。 ざっくり、現代用語で説明すると・・・ 明治11年(1878年)に岩崎彌太郎が、 この邸地を含む一帯3万坪を取得し、 社員の慰安や貴賓を招待する場所として造園を計画、 明治13年(1880年)に『深川親睦園』を開園しました。 その後も、 造園工事は進められ、 隅田川の水を引いた「大泉水」をはじめ築山、 周囲には全国から取り寄せた名石を配して、 明治の庭園を代表する 「回遊式林泉庭園」として完成しました。 関東大震災後、 大正13年(1924年)、 震災被害の比較的少ない東半分が、 岩崎家から、東京市に寄付され、 『清澄庭園』として復旧、整備して 昭和7年(1932年)7月に、 東京市の公園として開園しました。 また、 昭和52年(1977年)には、 庭園の西側に隣接する敷地を 開放公園「清澄公園」として開園しました。 昭和54年(1979年)3月31日に『清澄庭園』は、 東京都の名勝に指定されています。 なお、 大正12年(1923年)9月の関東大震災や、 昭和20年(1945年)3月の大空襲の時には、 避難場所として多くの命を救いました。 重要な役割を今でも継承しているのですね  りようてい ​「涼亭」​ ​Ryoutei House​ 池に突き出るようにして建てられた数寄屋造りの建物。 (中は、自由に見学できないようです〜残念) これが・・・ この庭園を日本情緒豊かなものにしています。 「涼亭」は、 明治42年(1909年)に国賓として来日した 英国のキッチナー元帥を迎えるために 岩崎家が建てたものです。 震災と戦火の被害からまぬがれ、 今日に至りましたが、 昭和60年(1985年)に 全面改修工事を行いました。 集会場として利用できます。 平成17年(2005年)には、 「東京都選定歴史的建造物」に指定されました。 「涼亭」を色々な角度から撮影したので・・・もう一度 磯渡りからの「涼亭」 園内の富士山前からの「涼亭」 中の島から眺めた「涼亭」 大正記念館前から見下ろした「涼亭」 船着石の辺りから眺めた「涼亭」 大磯渡りをしながら見る「涼亭」 どこから見ても「清澄庭園」のシンボルです (写真撮影:ほしのきらり。) 三菱財閥・・・あちこちにお庭あり。 ​​ ​世界遺産にぽち​​​​​​​​​

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