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「きらりの旅日記」

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美術館・博物館

2021.10.21
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カテゴリ:美術館・博物館
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​一度見たら忘れられないダリの絵「柔らかい時計」です〜荒野でどうして時計がふにゃふにゃになっているのでしょうね〜理解不能!?

​​時計ふにゃふにゃ時計が告げるのは・・・時計

Salvador Dali(27歳)

The Persistence of Mamory,1931

La persistencia de la memoria,1931

『記憶の固執』​(柔らかい時計)1931年

oil on canvas  24.0cmx33.0cm

「ニューヨーク近代美術館」MOMA所蔵。

​​​​​
サルバドール・ダリ 
​Salvador Dali​

1904年5月11日〜1989年1月23日(84歳没)

スペイン、カタルーニヤ地方フィゲーラス出身。

シュルレアリスムの代表的な画家・彫刻家・作家。


ダリが​『記憶の固執』​を描く間上向き矢印

ガラは、ビデオ 映画に出かけていた。


彼女が帰宅するなり、

ダリは椅子に座って目目を閉じるようにと指示する!!


もったいぶったカウントダウンの後、

目を開けるようにと告げられ、

キャンヴァスを見たガラ。


一目見るなり、

彼女はこう評価を下した。

「この絵を一度見れば、

 誰もが二度と忘れられなくなるわ」


溶けゆく時計は観るものを落ち着かない気持ちにさせるが、

この象徴的なイメージは、

ある程度の明快さを持ち合わせている。


この作品には、ポルト・リガにある

彼らの「我が家」に流れる精神が表現されている。


時計そこでは時間がゆったりと流れ、

あるいは「溶け」ており、

ダリがガラの中に見つけた安らぎで満ちている。

「私を保護する貝殻を作り上げたガラ。

 そして私は、柔らかい、

 それもかなり柔らかいものに守られながら、

 その中で年を取っていけるようになった。

 だからこそ時計を描こうと決心した私は、

 その時計を、

 ふにゃふにゃと柔らかくしたのである」

と記したダリ。


この時計には・・・

匂いの強いチーズも反映されていた。


というのも、この絵を描く直前、

ダリはとろとろのカマンベールチーズを食べており、​

その溶けたチーズのさまを、

溶けた時計として顕在化させたのである。


柔らかい形と硬い形。

それは、ダリが強く魅せられた要素である。


「わが秘められた生涯」では、ほうれん草の

「まったくもって無定形な性質」に対する

不快感についての勿体ぶった語りから始まる。


その対比として書かれているのが、

ロブスターのまとう「鎧」だ。


この機知に富んだシュルレアリストは、

人の予測や期待を弄(もてあそ)ぶことが好きだった。


普通ならば、

硬くて頑丈な金属で作られる公共芸術を

食べることのできる

柔らかいパン生地で完成させたダリ。


夕食で動物の骨を噛んでいる時も、

「小鳥の小さな頭蓋骨を

 ガリガリと嚙みくだくのは、

 なんと素敵なことだろう!

 脳を食べるにはこれに限る!」

と、発言し、

同席者をうんざりとさせたこともあるほえー


しかしこの『溶けゆく時計』は、

ジョークにとどまるものではなく、

​もっと哲学的な意味を帯びている。​


時間は・・・

人類がずっと関心を抱いているテーマのひとつだ。


アルベルト・アインシュタインも、

アンリ・ベルクソン(1859年〜1941年、フランスの哲学者)も、

時計の刻む時間の妥当性に疑問を呈したが、

ダリの描く時計は、

ベルクソンが言うところの​「持続」、​

すなわち​「時が持つ真の流動性」​を表現しているのだ。


ダリは、少しずつ力を蓄えていくかのごとく、

「超現実的」現実に対する理解を深めていった。


彼は当初、

それは荒々しく素晴らしい造形の巨岩のような

「自然物」だと捉えていたのだが、

その後、

フロイト的無意識の世界に持論を当てはめるようになる。


ダリ本人が語るところによると、

​『記憶の固執』​によって彼は、構想を得たのだという。


​​1930年代、​​ダリは

「偏執狂的批判的方法」と言う考えを発展させていく。

そして、

不思議を紐解くには狂乱状態に陥る必要がある、

と主張するまでになる。


​彼は、自分を狂人になぞられるのを好んだ。​

狂人は幻覚を見て、

多様な現実を解き明かすからだ。

また、

「私と狂人たちとの唯一の違いは、

 私が狂人ではないと言う点」

であるとも語ったダリ。


ブルトンは、

ダリの手法の可能性を支持しながらも、

狂気を賛美するというやり方については

無神経だと感じていた。


(参考文献:芸術家たちの素顔僕はダリより)
(写真撮影:ほしのきらり)


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​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​






最終更新日  2021.10.21 00:10:08
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2021.10.20
カテゴリ:美術館・博物館
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​小さな王様「ダリ」は、10歳年上の人妻「ガラ」と会った途端に恋に落ちてしまいますダブルハート危険な恋の始まりです。

手書きハートダリ』恋に落ちる​​!!手書きハート

​​Salvador Dali(25歳)
Great Masterbator ,1929

El gran masturbador,1929


 ​だいじいしゃ​
​『大自慰者』1929年​

油彩 カンヴァス 110.0cmx150.0cm

スペイン「国立ソフィア王妃芸術センター」所蔵。


画面全体を占める巨大な顔は上向き矢印

『記憶の固執』でも登場するダリの内面の自画像。


顔の鼻から下、口元にあたる部分には、

大きなイナゴがとまっているが、

その腹部には蟻がたかり、すでに腐敗している。


ダリは、イナゴ恐怖症であり、

不愉快で恐ろしく嫌悪すべき存在として描いた。


右上には男の下半身が描かれ、

その股間に向かって女が顔を寄せている。

この作品は、

ガラと出会ったばかりの頃に制作されたもので、

ここにはダリの性に対する強い欲望と期待、

それに反する恐怖心と葛藤が表現されている。

​​​​サルバドール・ダリ
​Salvador Dali​

1904年5月11日〜1989年1月23日(84歳没)

スペイン、カタルーニヤ地方フィゲーラス出身。

シュルレアリスムの代表的な画家・彫刻家・作家。


仕事に疲れ果て、故郷カダケスへと戻ったダリ。

そこに、

フランスの詩人:ポール・エリュアルと

その妻:ガラが、訪れたのである。


ダリは出会うなりガラに心を奪われどきどきハート

彼女もまたダブルハート

ダリが控えめに記した表現を借りるならば・・・

​「私のことを天才だと考えていた」​ようである。


のちにダリはこう記している。

「クレウス岬の岩の間を散策しながら、

 危険極まりない岩々のてっぺんに、

​ 私は情け容赦なくガラを立たせた。

 地上は、遥か下にある。

 頂上を目指してよじ登る時、

 とりわけ、『ワシ』と名づけた

 巨大なピンクの花崗岩塊

 (それは、両翼を広げたワシのような

  姿で奈落に張り出していた)

 の頂上に立った時、私の心の中は、

 明らかな犯罪的意図が潜んでいた。

 その岩の絶頂で、

 あるゲームを思いついた私は、

 それにガラを付き合わせたのだ。

 そのゲームではまず、

 大きな花崗岩のカタマリを押し転がす。

 そしてそのカタマリが、

 岩棚を滑って虚空へと吸い込まれ

 下方の岩々に当たって砕け散るまで、

 あるいは海の深くに姿を消してしまうまで、

 その一部始終をひたすらじっと眺めるのである」


二人の恋はダブルハート

まるでシュルレアリスムの劇のように展開した。


ダリがデートのために用意したファッションは、


​かなり奇抜なものだった・・・びっくり


切り裂かれたシルクのシャツと、

水泳パンツに身を包み、

首には真珠のネックレス。

​体には膠(にかわ)

ヤギの堆肥を混ぜたものを塗りたくり、​


ワキの下は血と青色染料で色を付けて完成!!


しかし、

いざガラと会う段になって、

すっかり涙ぽろり自信をなくしたダリは、

素早く体を洗い、

もっと控えめな格好にしたそうだ。


アルプスおろしの北風が吹きすさぶ中、

ワシ岩を見せるため、

ダリは、ガラを連れてクレウス岬を歩いていった歩く人ダッシュ歩く人ダッシュ


後年、ダリは交際相手のアマンダ・リアに対し、

「王妃のように宝石をまとって

 着飾ったガラを見るのが、

 私は大好きだ」

と話していたという。

運命的な出会いからほどなくして、

ガラは夫と幼い娘を残し、

ダリのもとに留まる。

ダリより10歳年上だった彼女は、

高圧的な母親のようにダリの面倒を見た。


ふたりが出会ったばかりの頃、

彼女はこう告げている。

​「私の坊や!私たちはもう離れられないわ!」​


子どもに戻ったダリは・・・

1ペニーも持たずに生涯を過ごし、

ガラは全ての金を手にした賞金


ダリが彼女に調子を合わせて合わせて楽しんでいることは、

明らかだった。

「ダリは小切手を受け取ると、すぐにガラに渡し、

 彼女はそれをさっとハンドバッグに入れた」

と、リアが回想している通りに。

ガラは、

美術作品や著作のプロモーションを行ってパトロンを確保し、

売上と展覧会を取りまとめ、

ダリ帝国拡張の主導権を握ったぐー


ダリは、しばしば作品に、

「ガラ・サルバドール・ダリ」とサインするようにもなる。


ガラの支配的なやり方は、周囲の反発を買った。

美術史家:ジョン・リチャードソンも、

ほとんどの人は、

「(ガラを)知るということが、

 彼女を嫌いになることと同じだということに、

 きっと異論を持たないであろう」

と書いている。


しかしガラが管理者だとすれば、ダリは君主であった。

ダリ曰く、

激しい雨を浴びながら

車のタイヤを付け替えるガラを、

彼は車中から眺めるだけだった。

のちにこの出来事についてリアと話したダリは、

​「私は根っからのブタ野郎だね」​

と語ったという。


(参考文献:芸術家たちの素顔・This is Daliより)
(写真撮影:ほしのきらり)




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​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​






最終更新日  2021.10.20 00:10:09
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2021.10.19
カテゴリ:美術館・博物館
​​​​​​​​​​​​​​​​​ダリは1920年代には考えられないほどに緻密な作品を描くようになります。それには現実を正確に映し出すカメラを活用していますスマイル

カメラダリの『カメラを使った緻密な作品​​​​カメラ

Salvador Dali(23歳〜24歳頃)
​​
​Futile Efforts 1927-1928

『小さな遺骸たち(不毛な努力)』1927年〜1928年


​『小さな燃え殻(セニシタス )』​

板 油彩 63.0cmx47.0cm

​​スペイン「国立ソフィア王妃芸術センター」所蔵。

​​​​サルバドール・ダリ
​Salvador Dali​

1904年5月11日〜1989年1月23日(84歳没)

スペイン、カタルーニヤ地方フィゲーラス出身。

シュルレアリスムの代表的な画家。


​​1920年代中頃から、​​

​ダリは・・・​

​「小さな写真機に宿る澄みきった客観性」​​

の時代の到来を叫び始める。

現実そのままの痕跡を残すことができ、

驚くほどの​「正確さ」​で物事を伝えられる

​フィルム​というものに、

ダリは、大いなる可能性を感じたのだ!!


写真や映画表現に敏感だったダリは、

自身の芸術作品においても

その技術を効果的に使用した。


​『小さな遺骸たち』​では上向き矢印

カメラカメラのクローズアップが使われている。


そこでは、

顕微鏡を覗いたような目緻密さで人体が描かれており、

見苦しいシワが刻まれた胴や、

硬い毛が生えた肌が写し出されている。


自著の「写真、精神の純然たる創造」の中で、

写真の詩的な効果について触れているダリ。


そこでは、

ブルトンが自身の作品で探求している驚異を、

写真がどのようにもたらすかということについて書かれている。

​​「クローズアップ」​​

「ちょっとした縮尺の変化が、

 突飛な類似、

 すなわち思いがけないアナロジー

​ (をいかに引き起こすか)」​


について、語ったダリは、別の評論では、

ラースロー・モホリ=ナギの著書から

「アフリカハゲコウの目」という写真をひとつの例に挙げている。


この素晴らしい作品の中には、

​同時に複数の世界が存在する。​

まるで溝の掘られた地表のように見える

アフリカハゲコウのシワの寄った肌。

黒い瞳孔の奥には帽子を被った男の影が映り、

その背後には木立が姿を見せる。


アフリカハゲコウの目に投影された重層的な世界のように、

​『小さな遺骸たち』​では様々な現実の事物が、

「驚異的」な形で並列する。

もっとも、

こちらはかなり気味の悪い世界が描かれており、

断片的な胴の合成物や、

切断された頭部、

分解されていく動物と血の海は、

情緒不安定で偏執狂的な精神状態を連想させる。


(参考資料:芸術家たちの素顔2「僕はダリ」より)
(写真撮影:ほしのきらり)



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​​​






最終更新日  2021.10.19 00:10:11
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2021.10.18
カテゴリ:美術館・博物館
​​​​ダリは18歳の時マドリッドの王立サン・フェルナンド芸術アカデミーに入学し、学生寮での生活が始まりますスマイル

学校​​ダリ18歳の​『大学デビュー』​​​学校

Salvador Dali(21歳)

Muchacha en Ventana,1925

​『窓辺に立つ若い娘』1925年​​

『窓辺に立つ少女(妹・アナ・マリア)』


油彩 カンヴァス  103.0cmx74.0cm

スペイン「国立ソフィア王妃芸術センター」所蔵。

ダリの妹:アナ・マリアを描いた。

この時期は、妹をモデルにした絵画を何点か制作している。


サルバドール・ダリ
​Salvador Dali​
​​
1904年5月11日〜1989年1月23日(84歳没)

シュルレアリスムの代表的な画家・写真家・彫刻家・作家。

スペイン・カタルーニャ地方「フィゲラス」出身。


1922年(18歳)​​ダリの大学デビュー。​​​​​​​​​​​​

アルベルト・ヒメネス・フラウトの運営する​​「学生寮」は、

学校オックスフォード大学や、

学校ケンブリッジ大学の制度を、

モデルとした刺激的なカレッジだったグッド


そこでは、アルベルト・アインシュタインのような、

先駆的な偉大な思想家を招いての講義が行われ、

図書室には最新の論文が揃えられていた。


ちょうどその頃、

ジークムント・フロイトの著作がスペイン語に翻訳され、

それを読んだダリと仲間たちは、

何時間も講論を戦わせた。


ダリが所有するフロイト著『夢判断』の写しには、

下線と注釈がびっしりと書き込まれている。

ダリは、

​「わが生涯における最も重要な発見のひとつ」​

としてこの本を振り返り、

数年後、自らの作品の中で、

フロイトの思想を探求し始める。


自分と同じような思考回路を持つ人間と、

ダリはそこで出会う。


彼が仲間入りした芸術志向のグループには、

映画監督のルイス・ブニュエルや、

詩人のフェデリコ・ガルシア・ロルカらがいたのだが、


嫉妬や対抗意識の塊のような連中ばかりだったため、

人間関係はスムーズにはいかなかった。


当初、王冠小さな王様(ダリ)は、

グループのリーダーであった

ロルカを苦々しく思っていたようである。

「ロルカが狂気の燃え立つ

 ダイヤモンドのように光り輝くことが、

 もはやわかっていた。

 突然、私はその場を走り去り、

 その後3日間、誰ひとりとして

 私の姿を見かけるものはいなかった」



ダリとロルカは、だんだんと惹かれあっていく手書きハート

ロルカは自作の詩の中で、

​​「オリーブの声を持つサルバドール・ダリ」​​​

と称え、


ダリはロルカを、

​聖セバスティアヌスの神々しい姿​

に見立てて描いた。

彼らは、共に芸術論を発展させた。


美術史家:メアリー・アン・コーズは、

「ダリが自身の絵について描いた中で、

 特に深く書かれている文章は、

 この詩人に宛てたものだ」

と指摘する。


もったいぶらず、

心を込めてロルカに語りかけたダリ。

「私は草や棘に手の平が触れ、

 太陽に耳が赤く染まると愛を感じる」

という言葉からも感じ取れるように、

そこには温かみのある、詩的なダリが表れている。


ロルカは、ダリを口説こうとしたが、

ダリが語るところによると、

特にふたりの間には何も起こらなかったという。


彼の母は、敬虔なカトリック教徒であり、

同性愛は禁忌だった・・・それで、

ダリは恐れをなしたのかもしれない。


彼らの関係はダリが未来の妻と出会うことで、

事実上、終わりを迎えることになる。


自分の性同一性を頑に守っていたダリだったが、

後年にはミューズである男たちと

ちょっとした火遊びを楽しみ、

覗き見的な性的興奮を得ることもあったというほえー


ダリの新しい友人たちは、

誰もが都会的なセンスを身につけていた。

彼らは優雅な生活を送り、

スマートな着こなしで知られていた。


アカデミーに来た当時のダリは・・・

ロマンテックな芸術家を気取り、

上から下まで黒一色で、

肌は白く塗り、

髪は黒く染め、

目にはコール墨で縁取りをする、

という装いをしていたが、

友人たちのダンディな装いに可能性を感じたダリは、

​「明日からは、みんなのような服装をするぞ」​

と決意。


王冠王様らしく振る舞えば、

王冠王様らしく扱ってもらえるだろうと考えたのである。

これは、どうやら功を奏し、

学生らしい収入しかないのに、

ダリはマドリッド屈指のホテルで、

もてはやされるようになる。


その派手な暮らしを経済的に支えたのは、

友人と家族と美術収集品だった。

ダリの金と名声に対する執着は、

後々、美術界を悩ませることになる。


アカデミー時代、

「ダリが、相反するふたつの手法を

 使い分けているのは明らかだった。

『伝統的な手法』と『大胆な手法』だ」

と、詩人:ホセ・モレーノ・ヴィリャは語っている。


研究に努力を重ねたダリは・・・

ついにヨーロッパの前衛的スタイルに辿りつく。

印象派を経た後、

彼は新印象派、

未来派、

キュビスムの実験を試みていたのだ。


展覧会で、

様々な表現方法の作品を発表したダリ、

その奇妙でごちゃ混ぜのスタイルは、

しばしば批判の対象となった。

​​​​​​​​​​

ダリ自身の視線は・・・妹:アナ・マリア上向き矢印

私的な肖像の連作にはっきりと出ている。

​『窓辺に立つ若い娘』​で、

彼はカダケスの海の景色を眺める妹を描いており、


灰色と青色で調和したこの作品は、

古典的で飾り気がない。


それぞれの要素は絶妙な均衡を保ち、

海岸線は水平に走る窓ガラスの桟と重なる一方で、

床板と窓枠や桟の配置が

消失点(遠近法・透視図法で透視した平行直線群が集中して一点となった点)

を決定している。


この整然とした世界の内側には・・・

​「異常なまでのリアリズム」​がある。


妹の髪から服のシワ、

窓ガラスに映る建物に至るまで、

彼はあらゆる要素を驚くほどの正確さで記録している。


その細部ひとつに向かう注意深い視線は・・・

まるで凍り付いてしまったような

「超現実的」な効果を生み出している。


​​1826年(22歳、​​彼の描く対象は、

家庭から再びカダケスの風景へと立ち戻ったのだが、

そこでも、

ダリは同じように強烈な自然主義表現で描いた。


サラ・ダルマウ・ギャラリーで開かれたダリの初個展で、

​ピカソ​『窓辺に立つ若い娘』​と出会う。


大いにこの作品を気に入った彼は、

友人の美術商:ポール・ローゼンバーグや、

ピエール・ロエブにダリを推薦し、

ロエブは最新作を観るためだけにスペインへと訪れた。


その美術商がダリの作品を買い付けることはなかったが、

その後もピカソは献身的にダリを支え続けた。


ダリがパリに居を移すと、

ピカソは再び彼の力になろうと、

今度は自分のパトロンである

ガートリード・スタインを紹介。


だがスタインとの出会いもまた、

ダリにとって実りあるものにはならなかった。


やがてピカソは用心深くなっていき、

この派手なシュルレアリストとの距離を置くようになる。


(参考資料:芸術家たちの素顔「僕はダリ」より)
(写真撮影:ほしのきらり)
 


妹アナにおとめ座​​
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最終更新日  2021.10.18 00:10:09
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2021.10.17
カテゴリ:美術館・博物館
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​ダリ少年は、自宅の洗濯部屋をアトリエとして熱心に制作していますね〜ダリの才能が開花するまでを知りましょう手書きハート

DALI,Salvador(19歳〜20歳のころの作品)

Pierrot con guitarra

Pierrot with Gaitar,1923-1924

oleo sobre carton

スペイン「ティッセン・ボルネミッサ美術館」所蔵。

サルバドール・ダリ
​Salvador Dali​
​​
1904年5月11日〜1989年1月23日(84歳没)

シュルレアリスムの代表的な画家・写真家・版画家・作家。

スペイン・カタルーニャ地方「フィゲラス」出身。


​​1912年7月​、​一家は​

ムントリオル通りの別のマンションに引っ越しする。

屋上には、テラスがあり、

王冠​小さな王様ダリ8歳は、​

そこからの眺めをぞんぶんに味わった。

「遥かロザス湾までひろがる

 景色の全てが私に服従し、

 私の眼差しを頼みとしている

 ように思えたのだ」



母の説得に​​成功したダリは、

​屋上の古い洗濯部屋をアトリエとして使い始める。​


それは、小さな部屋だったが、

彼は精力的に活動した。

セメントでできた洗濯槽の中に座りこんで絵を描き、

晴れひどく暑い夏の日には、

腰のところまで水を溜めた雫


時には洗濯に使われた板を台ににし、

おばの店でもらった

帽子の箱に色を付けることもあったパレット


ダリのアトリエには、

ゴーワンズの美術全集が置かれていた。

父の選んでくれたその全集は一般向けとは言えず

文章はほとんどなかった。


1冊につきひとりの偉大な芸術家が取り上げており、

人物の歴史はビジュアルで表現され、

60枚の白黒の絵画が掲載されていた。


少年ダリの目には・・・目

そこにある絵画はどれも現実に思えるほど鮮明だった。

のちにダリは、アングル
(1780年〜1867年、フランス新古典主義の画家)の巻に掲載された

『The Fountain』に描かれる

裸の少女に​『恋をした』​と回想している。


それはまるで、

彼がその絵の中に住んでいたのではないか?

と思わせるような語り口だ。


ダリはこの全集のことを振り返りながら、

​「私は確かに、

 画家のワトー​
(1684年〜1721年、フランス、ロココ美術の画家)

 の描く陰影のある空き地でピクニックをしたり、

​ ティツィアーノ(1490年頃〜1576年、イタリア、ヴェネツィ派の画家)

 ​の描く風景の中を散歩したりしていたのだ」​

と述べている。


ビデオ映画や写真カメラジャーナリズムの幕開けとなった

「資格の革命期」と呼ぶべき時代に、

ダリはすくすくと育つ。

少年の心は新しい技術に釘付けだった。


最初の教師である「エステバン・トライテル」は、

ビデオ立体映像投影装置を持っており、

生徒たちにも使わせてくれていたのだが、

この不可思議な3次元映像を

見せてくれる装置にダリは興味津々となった。


​フィゲラスの街で初となる映画館は・・・​

ダリの生まれた年に開業しており、

少年時代の彼の楽しみは、

土曜日の朝、

ビデオ新作映画を観に連れて行ってもらうことだった。


歴史家の多くが言及するように、

初めて映画を観た人は誰でも、

混乱し、

叫び声を上げたものである。


当時の映画は・・・

ストーリーというものはなく、

その頃よく行われた屋外ショーを原型に作られた。


そこには資格的なギャグがちりばめられ、

何よりも観客を仰天させることが目的とされていた。


たいていの作品では、

まず「静止画」が映され、

それが様々な形に変化していくという手法を取っていた・・・


例えば、じっとしていた汽車が動き出し

煙を吐きながら観客に向かって来る、

といった具合に。


多くの人がそうであったように、

少年ダリも映画に夢中になった。

ダリの母親は手の平サイズの投影機を購入し、

よく家の壁にショート・フィルムを映写していたという。


この頃の「初期映画表現」とダリは、

実はとても深い関係で結ばれている。


観客を驚かすことが好きで、

物事の変化の過程を表現することに

強い興味を抱いていたダリ。

彼は映画や写真技術の進化を探求し、

その効果を自身の作品の中で再現し続けていたのだ。


​​​​​​​ダリの芸術的才能は、子ども時代に花開いた。

1916年6月、12歳のダリは​

家族ぐるみで交流のあった

ピショット家に滞在していたのだが、

​彼はそこで「印象派」に触れたのである。​


ピショット家の私有地・・・

麦畑とオリーブの木立ちがあった・・・は、

印象派の絵画に出て来るような風景であり、

印象派の先進的な色使いと

荒々しいタッチに痺れるほどの衝撃を受けたダリは、

「ぶ厚く、無定形に塗られた

 絵具を前にして、私の眼は、

 見たいもの全てを見て取れるほど

 成熟していなかった。

 ・・・誤って気管に

 のみこんでしまった一滴の

 アルマニック・ブランデーのように、

 それは喉の奥深くでじりじりと燃えていた」

と記している。

彼は水晶のデカンタ・ストッパーを

魔術師のように覗き込みながら目

ピショット家の敷地をあちこちと散策していた。

そうやって歩くと、

水晶の中に印象的な

幻の断片が映し出されるからだった。


ピショット家で過ごした後に描かれた作品に、

『パニ山からのカダケスの眺め』がある。

これは、典型的な印象派の絵画であり、

色彩豊かで、特徴的な筆致が

光の効果を描きとめている。


しかし、

印象派の実験は長くは続かなかった。

牧歌的な田園風景よりも、

ドラマティックな魅力を持つカダケスの風景が、

ダリの心をさらったからだった。


ラモン・ピショットの勤めに従い、

ダリの父は息子を、フィゲラス市立美術学校へと入学させる。


その学校の美術教師:ファン・ヌニェスは、

ダリの才能を高く買い、

その指導下でダリの技術は磨かれた。

ヌニェスこそが・・・

芸儒家として成長する上で

最も重要な指導者だったと語るダリ。


一方で、芸術家としてのヌニェスも、彼は評価していた。

入学した年の終わり、

ダリは優秀賞を獲得。

その入賞を祝し、

父はフィゲラスの自宅で展示会を開いてくれた。


​​1921年(17歳母が子宮ガンで亡くなると、

ダリは成功への意志をますます強く抱くようになる。

「いつの日か、

 わが栄光の名のまわりに荒々しく

 輝きわたるであろう光の剣を引っ下げ、

 死と運命から母を奪い返すのだ。

 そう、自らに誓いを立てたのである」


1922年(18歳)​​、家を出て、ダリは・・・

マドリッドの「王立サン・フェルナンド芸術アカデミー」に入学。

だが、彼は入るや否や、

「名誉や勲章に飾られた老教授たちから

 教わることなど何もないことを、

 たちどころに悟って」しまい、

大きな失望を覚える。


教授たちはフランス印象派を追求していたが、

ダリにとってそれは、

もはや終わったものだったのだ。


王冠小さな王様が語るところによると、

「1923年、新任教師の能力に

 疑問を呈して停学→その3年後、


 自分の作品を審査するだけの資質が

 教師たちにはないと言い放ち、


 退学処分を受けた」そうである。

それでも、

マドリッドでの経験は、

ダリにとって有意義なものだった。


プラド美術館のベラスケス(1599年〜1660年、17世紀スペイン最大の画家)

のコレクションは、刺激的だったし、

中でもいちばんの収穫は、

「学生館」と呼ばれる寮での社交生活だった。


(参考資料:芸術家たちの素顔2僕はダリより)
(写真撮影:ほしのきらり)


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最終更新日  2021.10.17 00:10:09
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2021.10.16
カテゴリ:美術館・博物館
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​ダリは、とても裕福な家に生まれて小さな王様のように育てられたと言われます王冠どうしてなのでしょう!?

​​王冠ダリ』幼少期の興味深い話​​王冠

Salvador Dali(21歳の作品)

Muchacha de Espaldas,1925

モデルは、ダリの妹:アナ・マリア

​​​​サルバドール・ダリ
​Salvador Dali​

1904年5月11日〜1989年1月23日(84歳没)

Salvador Domenec Felip Jacint Dali i Domenech
サルバドール・ドメネク・フェリペ・ハンシント・ダリ・イ・ドメネクは、

1904年5月11日、スペイン・カタルーニャ地方の

小都市「フィゲラス」の裕福な家に生まれた。


父:ドン・サルバドール・ダリ・イ・クーシは、
(Salvador Dali  i Dusi・1872-1950)

フィゲラスの公証人で町の有力者だった。


当時のカタルーニャは、

19世紀後半に始まる自治の獲得と

独自の言葉(カタラン語)の復権を目指す運動

「ラナシェンサ」が高まっており・・・


ダリの父も、そうした運動に共感する

自由思想の持ち主だった。


母:ファリーバ・ドメネク・フェレス(1874-1921)も

裕福な商家の出身で、ユダヤ系の血筋と思われる。​​​


ダリが生まれる9ヶ月前に・・・

胃腸炎で、1歳10ヶ月で亡くなった

「サルバドール」という名の兄がいた。


ダリは​「サルバドール・ダリ」​という

死んだ兄と同じ名前を付けられたことで、

ダリは生涯、

自分は兄の身代わりだという意識にとらわれることになる。​


ダリの下には・・・​

「アナ・マリア」という妹がひとりいた。​​​


父は、公証人として成功をしていたため、

裕福な家庭でダリは育ち、

10歳までは、スペイン北東部フィゲラスの

ムントリオル通り6番地で暮らしていた。


本人曰く、彼は王冠家庭の王様王冠だった。​


「私は好き勝手に振る舞うことを許されていた。

 8歳になるまで、

 ただそうすることが楽しいという

 理由だけで、

 おねしょをしていた。

 家の絶対君主だった私は

 満ち足りることを知らず、

 父も、母も、私を

 ひたすら神のごとく崇めていた」


深く愛された​​ダリは・・・

どんな気まぐれも叶えられた。

目を覚ますたび、

母は、こう尋ねた。

​「坊や、何が欲しい?お前の望みはなんだい?」​​


父は、4歳になったダリを、

公立の小学校へと進学させる。

貧しい家庭の生徒が多い中、

王冠王子様のようにめかしこんだダリは目立ち、

いじめの格好の標的となったショック


小さな子どもにとって

それはかなり辛い経験だっただろうが、

ダリは自伝『わが秘められた生涯』の中で、

「自分が他人よりも優れていたからこそ

 孤立し、孤独だったのだ」と記している。


ダリにとって初めての教師となる

「エステバン・トライテル」は、

澄んだ青い目と左右対称に揃った

三つ編みのあご髭(膝まで垂れていたそうだ)を持つ、

「浮世離れした人物」だった。


トライテルは、

古い教会を漁って手に入れた宝物を

学校に持ってきては、

生徒たちに披露していた。


そんな彼の美術収集品に魅了されたダリ。

中でも特に心を奪われたものは、

毛皮に身を包んだロシアの少女の絵である。


ダリの中でその絵は、

未来の妻:ガラのイメージと重なっていた。


しかし、

2年間に渡るダリの小学校生活は、

完全な失敗に終わるしょんぼり

母から教わっていたはずのアルフファベットさえも

ろくに覚えていない息子に激しく腹を立てた父は、

彼をフィゲラス郊外のさびれた土地にある学校へと転校させた。


だが、この学校では

全ての授業がフランス語で行われていたため、

ダリの混乱はいっそう深まってゆくほえー


授業中、彼はひたすら空想に耽った。

窓の外のイトスギを眺めては、

​「葡萄酒に浸したみたいな、

 黒ずんだ赤色だ・・・」​


といった思考を巡らせ、

家に帰るとさらに空想にのめり込んだ。


少年ダリは、

何時間もベッドに横たわって

天井の湿った茶色い染みを見つめ、

様々な形を想像する遊びに没頭する。


ダリの家族は・・・

​過去を感動的に脚色してしまう癖があった​!!


​​​​​父:サルバドール・クーシは、

自分の父は医者だと触れ回っていたが、

実際は、コルク製造者として商いを営んでいた。


また、ダリの祖父は、

建物から飛び降りて自殺を図ったが、

家族の話では、

悲劇的にも脳障害で亡くなったということになっている。


こうした一家の伝統にならい、

ダリは自らの神話を想像した。


自伝『わが秘められた生涯』では、

彼は幼少時代に脚色を加え、

興味をそそられるような、

天才画家にふさわしい

翳りのある物語に仕立てあげている。


ダリは・・・

​亡くなった兄の存在に取り憑かれていた​​​​​​​​​​!!

「二人目のサルバドール」という

動かしようもない事実は、​

彼の心を完全に支配していた。


少年時代、兄の墓へと連れて来られては、

​「お前の兄の生まれ変わりなんだよ」​

と父母から聞かされてたダリ。


兄の陰で育った影響を、

彼はのちに語っている。

「兄と私は2粒の水滴のように似ていたが、

 その水滴の反映の仕方が違っていた。

 私同様、

 ひとりの天才だった兄は、

 驚くほどの早熟さを垣間見せていた。

 そしてそのまなざしには、

 至高の知性につきものの憂鬱さがあった。

 私には兄ほどの知性は備わっていなかったが、

 そのぶん、

 何ごともじっくりと熱考するようになった」


やがてダリは・・・

力への執着を強めるようになる。

『わが秘められた生涯』には、

妹を蹴飛ばし、

別の子を橋から突き落としたことが書かれている。

(もちろん、作り話の可能性はあるが)。


その後もダリの冷酷な欲望は、

どんどんと膨れ上がり、

大人になってからも、

その専制的な振る舞いは続いた。


彼はベルを持ち歩き

いつも鳴らしていたという。

「私が来たことを皆に気付かせる手段は、

 他にないだろう?」


自分はあらゆる権利を持っているんだ!そう、

少年ダリは感じていた。

妹:アナ・マリアは・・・

「幼い頃から、

 兄はプレゼントをもらうことが大好き。

 人にあげることなど滅多になかったわ」

と語る。

ごく稀に、

自分の気まぐれが満たされないことがあると、

ダリは烈火のごとく怒った怒ってる


たとえば、

おいしそうに連なったキャンディーが店先に飾られているが、

もう閉店しているので買えない、

なんて時には。

ダリがひどく腹をたてると、

誰にもなだめることはできない。

母:フェリーバの対応はいつも同じで、

叱らずに、ただひたすら慰めていた。

ダリは支配と征服の術に長けた、

まさに王冠幼き王様王冠だったのだ!!


もちろん、

この一家にものんびりした時間はあった。

音符音楽をこよなく愛していた父:サルバドール・クーシは、

サルダーナ(カタルーニャ地方に古くから伝わる輪踊り)の民謡を集めており、


よく近所の人を招いては、

夜ごと音楽会を開いていた。

その日ばかりは子どもたちも夜更かしを許され、

揃ってダンスをしていたという。


一家は、クレウス岬での長い休暇も楽しんだ。

初めのうちは、

家族ぐるみの友人宅に滞在したが、

その後、

カダケス近くの海辺に別荘を購入。

そこで、ダリはとても幸福な時間を過ごした。


幼きダリの、学校でのこんな記述が残っている。

「このところ、

 カダケスのことしか考えられない。

 ウキウキとカレンダーを眺めては、

 あと何日であそこへ行けるだろうかと

 指折り数えているんだ」


世界中様々な都市に住んだダリだったが、

クレウス岬が彼にとっての楽園であり続けた。

「この地だけが私の故郷だ。

 他の場所は、

 仮住まいにすぎない」


アルプスおろしの北風と海水の侵食により、

カダケス沖の巨岩は幾度も変身を繰り返した。

地元の言い伝えにも登場する。


人間のような形をしたこの有機的で壮大な岩を、

ダリはいつも見つめていた。

やがて彼は、

「カダケスの岩々を、頭の中できっちりと再現」

するようになる。


ダリ的思考の源をつかさどる「イメージの事典」の材料を、

彼はこの巨大な岩から得た。

そして、

その質感や見事な形態を絵画の中で描いたのだグッド


ダリは、

「船を漕いで岩に近づくにつれ、

 その先端は丸みを帯びてくる。

 そして、ついには

 女性の乳房そっくりになるのだ」

と語っている。

次々と変形してゆくその様子こそが、

まさしくこの巨岩の決定的な特徴だと考えたダリ。


のちに彼は、

絵画や映画の中で、

様々な形で「変化」の方法を模索している。


当時、カダケスへの道は・・・

まったく整備されていなかった。

そして、

周囲から隔絶されたその村には、

素朴な魅力が溢れていた。


おもちゃのブロックを積み重ねたような質素な白い建物が並び、

魚の骨で舗装された道が続く村の風景。

昔ながらの生活を営む村人たちは、

井戸水を使い、

ロウソクの灯りで暮らしていた。


自由気ままに過ごしていたダリは、

見知らぬ村人の後をくっついて回る。

漁師たちは親切で、

彼を船に乗せ、

巨岩を巡ってくれた。


村の密輸業者(アトリエ用にと、ダリに小屋を貸してくれた)や、

「土地の魔女」であるリディア・ヌゲラスとも

親交を深めていったダリ。


自伝『わが秘められた生涯』の中に、

「床に座り込んだリディアは、

 あざやかな手さばきでハサミを

 鶏の首に突き刺すと、

 血のしたたるその頭を

 深いテラコッタの器に落とした」

という描写がある。

彼は、

リディアの荒っぽい振る舞いに敬意を評していた。

彼女の偏執狂的な精神状態が、

自分の「偏執狂的批判的方法」のもとになったとも語っている。


カダケスで築いた少年時代の交友は・・・

彼の人間関係の基礎となった。


ダリはいつだって極端な性格の人間に惹かれた。

それは、

ダリのミューズであり、

友人でもあった「カルロス・ロサノ」が、

「明らかに、普通の人とはダリの怒りを買った」

と認める通りだった。


王冠小さな王様は・・・

楽しませてもらいたたかったのだ!!

ダリはこう話す。

「あなたがここに存在するのは、

 喜びを与え、

 また、授かるためです。

 何か私に、面白いことを

 話さねければなりません。

 だって私は、

 永久に知的興奮の状態にあるのですから。

 ・・・そう。

 植物の種を植え、

 栄養を与えて栽培するように、

 物語も育てる必要があるのですよ」



(参考文献:芸術家たちの素顔僕はダリより)
(写真撮影:ほしのきらり)


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最終更新日  2021.10.16 00:10:08
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2021.10.15
カテゴリ:美術館・博物館
​​​ダリが活躍した頃は、どんな時代だったのでしょうか?ダリに対する私たちのイメージってどうかしら!?

​​Salvador Dali(25歳の頃の代表作)
Great Masterbator ,1929


​​​​サルバドール・ダリ
​Salvador Dali​

「ダリの自画像」

1904年5月11日〜1989年1月23日(84歳没)

スペイン、カタルーニヤ地方フィゲーラス出身の画家。

シュルレアリスムの代表的な作家。


​ダリが活躍した20世紀初頭は・・・​​

美術の潮流が、

大きくうねりを帯びた時期であったほえー


目の前の現実をそのまま写し取る

絵画の伝統的価値観が揺らぎ、

芸術における既存の秩序を否定NG


破壊しようとした「ダダ」がおこった。

さらにその思潮を受け継ぐかた地で、

内面の世界や目に見えない存在を

描き出そうとする​「シュルレアリスム」​が誕生したグッド


ダリは、シュルレアリスムの体現者として、

自身の内面を爆弾爆発的に発露させていくことになる。


しかし、彼のそうした内面の表現は・・・

露出狂的な言動や、

奇怪なパフォーマンスとなって表れ、

人々を大いに惑わセルことになった。


誇張と虚飾に満ちた自伝や評伝もまた、

その困惑に一役買っている。


​「天才を演じよ、されば天才になる」​

という彼の​有名な言葉からもわかるように、

ダリは、狂人を装うこと、

あるいは世間から狂者と思われることで、

天才の偶像を作り上げようとした。


作品を難解な言葉で語ったり、

特異な芸術論で演出がかった講演を

行ったりしたのもそのためである。


ダリの実像は・・・

ますます撹乱され、

真実は派手な外見と

過激な言動の陰に隠されていった。


そしてこのことは、

後世におけるダリの画家としての

正当な評価を遅らせる要因ともなってしまった​​​​​​​ショック


今日では・・・

ダリ流のパフォーマンスは、

芸術表現のひとつとして確立されている。


そう考えると、

結果的に彼のふるまいは、

「パフォーマンス」や「ハプニング」といった

芸術分野の先駆けになったと言えるだろう。


ダリの評価は、

21世紀になって、

ようやく正当に行われるようになったが、

むしろ時代の感覚に

追いついてきたのかもしれない。


さて、

​素顔のダリは実は真面目で・・・​

実直で、

繊細な人だったスマイル


作品に描かれているのも、

彼の個人的な記憶や願望、

強迫観念や、

愛や、

憎しみなどを、

心に宿ったイメージそのままに、

純粋すぎるほどの筆で

再現したものばかりである。


​一般にダリの絵が「難しい」と評価されるのは、​

誰も知りえない

彼のパーソナルなイメージが、

作品をかたち作っているためだろう。


​​​一方、ダリが見せる世界は・・・​​​

​不思議と誰もが夢で見たことのあるような親しさがあり、​

普遍的で、

共感できるようなところも多い。


​このギャップこそがダリの最大の魅力なのだと思う。​

人には言えない過去のトラウマや、

コンプレックスでさえ、

時にユーモラスに、

時に辛辣にさらけ出してしまう。


だからこそダリの作品は、

鑑賞する私たちの心にまで入り込み、

​『記憶の固執』​となって、

強く本能に訴えてくるだけのパワーを持ち得たのだ。


サルバドール・ダリの作品をもっと理解するべく

ブログを進めてまいりましょう〜スマイル


(参考資料:東京美術、もっと知りたいサルバドール・ダリより)
(写真撮影:ほしのきらり)



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最終更新日  2021.10.15 00:10:09
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2021.10.14
カテゴリ:美術館・博物館
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​ダリの歴史と作品を追ってまいりました〜長いですね!新しい知識は得られたでしょうか手書きハート

時計​​ダリ、最晩年の出来事と作品​​時計

Salvador Dali

Mostro molle in un paesaggio angelico,1977

Soft Monster in Angelic Landscape,1977

oil on canvas  76.0cmx101.0cm

『天使の風景の中の柔かい怪物』1977年​

ローマ、ヴァチカン市国「ヴァチカン美術館」所蔵。
​​​​​​​​​
サルバドール・ダリ 
​Salvador Dali​

1904年5月11日〜1989年1月23日(84歳没)


1970年(ダリ=66歳)​前年の暮れにクヌードラ画廊で

開かれた個展、アメリカのマスコミに大好評を博す。

フィゲラスに近々、ダリ美術館を創設すると発表。

同時に、シュルレアリスム美術館の設立を提案し、

自作50点を寄贈する旨申し入れる。

フランス鉄道の依頼でポスター6点制作。

開店したばかりのブランメル・デュ・プランタン書店で

著書「ドレージュのためのダリ」のサイン会。


11月、ロッテルダムのボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館で、

ヨーロッパ初の大回顧展開催。

E.F.W.ジェームス・コレクションの収蔵作品も展示される。

三次元芸術の探求を続け、フェルメールの現代版とも言える

オランダの画家:ジェーラル・ドウの作品を研究。

ドウの作品から二重(すなわち、立体鏡の)像を発見する。

そして、フレネルレンズを用いてこの二重像の作品制作に取り掛かる。

「幻覚を与える闘牛士」と金箔の「ナポレオンのデスマスク」ついに完成。

スペインの建築家:エミリオ・ペレス・ピニェーロと、

フィゲラスのダリ美術館の基本構想を練る。


1971年(67歳)​​クリーヴランド(オハイオ州)のダリ美術館開館。

ここにはレーノルズ・モース・コレクションの収蔵作品が大半展示されている。

マルセル・デュシャンに、歯と指を型どったチェスのセットを贈る。

「ヴォーグ」や「スカラブ」など、多くの雑誌に作品を寄せる。

フィゲラスのダリ美術館天井画の構想を練る。

こうした中で、ホログラフィの関心はますます膨らみ

デニス・ガボールがその業績によりノーベル賞を受賞したことで

それへの関心はさらに深まる。

翌年にかけて、ホログラフィの三構造の準備段階で

「デューラーへのオマージュ」と題する大版画展開催。

初のダリ選集「ウ!」刊行。


1972年(68歳)​​ニューヨークのクヌードラー画廊でホログラム展開催。

ロバート・ヒューズは「タイム」誌の中で、

これをまがいものの科学の先走りと非難し、こう述べている。

「・・・ダリは単に新しい手段を用いて

 自分の古びたマンネリズムを伝えただけである」。


8月、自分が所蔵する作品をすべてスペイン国に寄贈すると発表。

(自作か否かにかかわらず、ダリが所蔵する全作品の意)

ボッカチオ作「デカメロン」に挿絵を描く。


1973年(69歳)​モールスホテルで、クロノホログラムを発表。

4月、クヌードラ画廊に「ダリのホログラム室」設置、オープンする。

「不滅に関する10の処方箋」刊行。また、

「隠された顔」と「神聖なダリに関する解説」が初めてフランス語版で出る。

ドレージュ、「ガラの晩餐」出版。


6月22日、パリ私立近代美術館で

アンドレ・マルローの「王様、バビロニアでお待ちします」

(アルベルト・スキラ刊)が発表される。

ダリは、これに14点の挿絵を描いている。


1974年(70歳)​「魔術的な職人芸に関する50の秘密」刊行。

3月、フランクフルト・アム・マインのシュテーデル美術館で回顧展。

「神聖なダリに関する解説」出版。この本に関し、

ディディエール・ルコアンは、「文学ニュース」誌

​(1974年3月18日号)に次のように書いている。​

「素晴らしい本だ。不実と誠実が同時に存在している。

 二つの異なった水準を有する本であり、

 二つの声が調和を奏でている」。

9月28日、フィゲラスのダリ美術館開館。

本人の作品を中心に、エルスト・フォックス、アルノ・ブルケル、

アントニ・ピチョートなどの作品が展示されている。

この年の作品は・・・

『アンシェリカを解放するルッジェーロ』『変身』『隠者』『後ろ姿』

『大聖堂での信仰の爆発』『聖者の聖職受をじっと見つめる天使』など。


1975年(71歳)1月、​ダリ​製作の映画

「高地モンゴルへの旅」の最初の部分をアボリアスで公開。

ロベール・デシャルヌとマルク・ラクロワによる、

「ダリ、妄想症的・批判的方法、客観的任意性、大三次元」

をテーマにした写真展(ニコン提供)開かれる。

写真はダリ自身が選ぶ。


1976年(72歳)10月、​パリの国立図書館に著書「哲学者の錬金術」を一部贈る。

同じ月、評論誌「ソヴァージュ」に「ダリ曼荼羅」と題する記事が掲載される。

これはダリとの対話を記録したもので、

彼の言葉は今までの出版された中でも最も辛辣と思われる。


1977年(73歳)5月、​​モントルージュ第22サロンで回顧展。

11月、フランソワ・プティ、パリで「パルピニャン駅」展開く。

他に、初期の作品と近作も展示される。


1978年(74歳)4月、​​ニューヨークのグッゲンハイム美術館で超立体鏡的絵画

「ガラにヴィーナスの誕生を見せるため、地中海の皮を持ち上げるダリ」を発表。

5月、芸術アカデミーの外国人会員に選ばれる。

7月、フィゲラスのダリ劇場美術館について、

ヒウリオ・カミーロの「記憶の劇場」と

ラモン・リュルの「組み合わせた車輪」を参照しながら、

作家:イグナシオ・ゴメス・デ・リアーニョと対談する。

長時間に及ぶ対談の中で、ダリの有名な絵画

「記憶の固執」は金の羊毛の模範と解釈されている。


8月、ホアン・カルロス・スペイン王とソフィア王妃、

アステュリアス王子を伴い、フィゲラスのダリ美術館を訪問。


9月、フィゲラス市より金メダルを贈られる。

12月、モーリスホテルで開かれたクロード・ロレンへのオマージュ展の折、

フランソワ・プティ、ダリの絵画

『ガラに太陽の彼方のずっと遠くにある裸の夜明けを見せるため、

 雲の形をした金の羊毛を引っ込めるダリ』を発表する。

この年の作品には・・・

『球体の調和』『人工頭脳のオダリスク 』『月のピエロ』

『ガラのキリスト』『四次元を探し求めて』(翌年に完成)など。


1979年(75歳)5月、​​モーリスホテルでルイ・ヴェイラーより

芸術院会員の剣(ダリ自身のデザインによる)を贈られる。

翌日、フランス研究所の丸天井の下で、

「ガラ、ベラスケス、そして金の羊毛」と題し、

芸術院に入会のスピーチを読み上げる。

他に、ADN.ハイゼンベルク、ライプニツ、デカルト、R・トム、

エウへニオ・モンテス、そして記憶の劇場などについても語っている。


12月、パリのジョルジュ・ポンピドゥー・センターでの回顧展オープン。

センターのために特別デザインした「神人の祭」と題するセットも公開される。

この年の作品は・・・

『ラファエロ的幻想』『五角形のサルダーナ』など。


1980年(76歳)春、​​ロンドンのテート・ギャラリーで第回顧展開催。

10月、マドリッドのサルステラ宮に「夢みる王子」と

自ら名付けたスペイン国王の肖像を捧げる。

この作品には、シュルレアリスム、超リアリスム、サイバネティクス、

アナモルフィスムなど、いろんな技法が盛り込まれている。

また、この年には『快活な馬』も制作(現在、フィゲラスのダリ美術館に収蔵)

ハエがたかった廃物やアンプルダンの田舎の風景を配したこの絵は、

豊かな表現力と劇的な力に満ち溢れている。


1981年(77歳)冬の間、​​ニューヨークで患った病気も回復

(ここ2〜3年の激しい生活による疲労から病気はさらに悪化していた)


8月、スペインック国王ホアン・カルロス、ならびにソフィア王妃、

ポルト・リガトの自宅にダリを見舞い、

スペインのために長生きし、制作を続けるよう言葉をかける。


9月、ポルト・リガの自宅での社会活動からいっさい身を引き、

フィゲラスのダリ劇場美術館を訪問。さらに、

リュルの車輪や金の羊毛などを題材に芸術活動に戻る。


1982年(78歳)​​アンプルダンに戻り、自分自身の題材や

ベラスケスとミケランジェロから得た題材をもとに作品を描く。


2月、マドリッドのカヤ・デ・アオロス(銀行)のピエトロ・ルームで、

「サルバドール・ダリの文学的サイクル」展開催。


3月、セント・ピータースバーグ(フロリダ州)に、

レーノルズ&エレノール・モース夫妻が創設したダリ美術館開館。

カタロニア自治州政府主席:ジョルディ・プジョルより、

じきじきに金メダルを贈られる。


ガラ、バルセロナの病院に二度入院。

6月10日、50年以上にわたり、ダリの仲間で、ミューズ神で、

モデルであったガラが死亡する。

翌日の密葬で、遺体はヘロナ県ラ・ペラ村近くのプボル城の地下に埋葬される。

6月16日、プボルでスペイン政府カタロニア地区

代表委員ロビナ・タラソナの特別訪問を受け、

スペイン国の最高位であるカルロス3世の命による

大十字勲章を授ける旨の国王名による信任状を手渡される。

同じ日の午後、現代美術担当の部長:ペレス・デ・アルミシャンと

造形美術担当副部長:ベリスタインがダリを訪問。


翌月、バルセロナとマドリッドで開かれる予定の

代表作品展の契約書に署名を申し込む。

ダリの側の署名はアントニ・ピチョート、ロベール・デシャルヌ、

ミケル・ドメネク、イグナシオ・ゴメス・デ・リアー二ョ。


5月〜6月にかけて完成した。「ガラの栄光のある三つの謎」

「ローマ」は、ダリの最後の作品。

初めの作品に見られる、虹のような色と

反射を帯びた平坦な風景の中に並べられた、

ガウディの欄干か大昔の巨石のような三つの頭部像の輪郭線に見える。

また、「ローマ」は、ダリが数年間書き続けてきた未完成の悲劇

「殉教者」のような犠牲的な題材をモティーフに描かれている。


1983年(79歳)遺作となる『ツバメの尾』完成。

マドリッド、バルセロナ、フィゲラスにてスペインで最初の大回顧展。


1984年(80歳)​プボル城の寝室の火災で、重度の火傷を負う。

ダリ劇場美術館に隣接のガラテアの塔に移る。


1989年(84歳)1月23日、​ガラテアの塔で死去。

ダリ劇場美術館の地下聖堂に埋葬される。


(参考資料:美術出版社・SALVADOR DALIより)
(写真撮影:ほしのきらり)



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最終更新日  2021.10.14 00:10:07
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2021.10.13
カテゴリ:美術館・博物館
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​ダリの謎であった「柔らかい時計」と「焼いたベーコンのある柔らかい自画像」の詳しい意味を理解しましょう〜スマイル

Salvador Dali

L'Annuncio,1960
studio pen“II concilo Ecumenico"

The Trinity,1960
study for “The Ecumenical Council"

『三位一体』1960年
エキュミカル評議会のための研究

oil on canvas 54.0cmx59.0cm

ローマ「ヴァチカン美術館」所蔵。
​​​​​​​
サルバドール・ダリ 
​Salvador Dali​
​​
ダリ『焼いたベーコンのある柔らかい自画像』

1904年5月11日〜1989年1月23日(84歳没)


1960年(56歳)2月、​ニューヨークで

「クリストファー・コロンブスのアメリカ発見」を発表。

5月、
シュルレアリスムのメンバー、

「我々はその方法でそれを食べない」と題する記事を発表し、

ニューヨークのシュルレアリスム国際展へのダリの参加を拒否する。


12月、ニューヨークのカーステアーズ画廊で、

『世界公会議』を発表(この作品は定量化された

 リアリスム技法で描かれている。つまり、行動量とは、

 “抽象主義が伝統に寄与したかもしれないという非象徴的的体験でしかない”

 という考えに従っている)。

ロベール・でシャルヌの協力を得て、

『サルバドール・ダリの世界』に着手。

一方で、マリアーノ・フォルトゥニーを見直し、

「テトゥアンの戦い」の中に具体的表現を見つける。

この年は、『見えない鏡を見つける後ろ向きの裸のガラ』

『ハイパージオロカルな空』なども制作。


1961年(57歳)​ヴェニスで、

リュドミラ・チェリーナ主演「ガラのバレエ」

(舞台装置と衣装:ダリ、振付:モーリス・ベジャール)と、

スカルラッティの「スペインの貴婦人とローマの紳士」が初めて上演。

ポルト・リガの自宅に新しく“卵の応接間”が加わる。

これは完全にガラの創作によるもので、

ギリシア神話のレダに捧げられる。


1962年(58歳)​これまでとは違った題材と

技法に序々にのめり込んで行く。つまり、

アメリカン・ポップ・アートの成果や最新技術と化学の発見

(クリック、ウォトソン、ウィルキンスの三人、

 “分子生命体”であるデオキシリボ核酸の研究により

 ノーベル賞を受賞する)に目を向け、

これらを繰り返し研究、制作に取り掛かる。


​10月、​「テトゥアンの戦い」完成、バルセロナで発表する

(フォルトゥニーの同名の作品と並べて展示)。

ロベール・デシャルヌ、論文「ガラのダリ」を刊行、

12月に発表する。この折にはダリは、

自分と献呈本を受け取る人との結束の度合いを

はっきり測れるように、本の署名に“オシログラム”を

使っている。『ヴァレのキリスト』を描く。


1963年(59歳)​ニューヨークの

クヌードラー画廊で、最新作を集めた個展開催。

1933年の執筆後、ずっと置き去りにされていた

『ミレーの晩鐘の悲劇的神話』が出版され、好評を博す。

『亡兄の肖像』『ガラスデリャイデソンリボニュクレイカ

(崇高なガラ、アラーの神、デキシリボ核酸)』を制作し、

クリックとウォトソンが提唱した

二重螺旋分子構造の模型を作品に応用し始める。


1964年(60歳)​イザベル・ラ・カトリカ大十字勲章を授与。

5月、「天才の日記」刊行。

7月、「プレイ・ボーイ」誌の

長時間インタビューを受け、その中でダリは

時計​​​​柔らかい時計の意味​​​​時計

を次のように説明している。

​​「柔らかい時計は、​

 さらにはキリストの予想図でもある。

 というのは、両者は私が

 取り付かれていたチーズに似ているからだ。

(だが、このことを言ったのはダリ一人ではない)

 最初にこれを表したのは、

 聖アウグスティヌスで、

 彼はキリストの肉体を

 沢山のチーズと比較している。

 私が行ったことは、

 キリストの肉体をチーズの概念で

 再表現したことである。

 聖体拝礼では、

 肉体と血はパンとワインで象徴される。

 同じように、私の作品では、

 柔らかいチーズのような柔らかい時計は、

 キリストの肉体の表現である」。

また、このインタビューでは・・・

​サイと杖の意味​についても説明している。

9月、東京で毎日新聞主催による大回顧展開催。

Salvador Dali

​​『記憶の固執』(柔らかい時計)1931年​​​​​


1965年(61歳)​ニューヨークの近代美術画廊で、

レーノルズ・モースの個人コレクションに

収蔵されている初期の作品も含む、

これまででは最大級の回顧展が開かれる。


12月、クヌードラー画廊で最新作を発表。

この作品では、ダリ自身、​“これまでの最高傑作”​という

『ポップ・オップ・イエス・イエス・ポンピエ』
あるいは、『ペルピニャン駅』)。

「公開状」叢書の中に「サルバドール・ダリ への公開状」

を描くことで、アルバン・ミシェル出版社と出版契約を結ぶ。

聖書の挿絵として水彩による連作100点、ならびに

「エロティックな変貌」のためのペン画の連作を描く。

レーザー写真術と三次元芸術への関心を深める。

この作品は『ドルの神化』

『ポップ・オップ・イエス・イエス・ポンピエの作品の上に

 無重力状態でいるダリをじっと見つめるガラ』など。


1966年(62歳)​国連世界連邦の設立20周年を記念して、

国連の依頼で封筒をデザイン。また、パリの

サン・ジャック通り27番地に設置される日時計のデザインも手掛ける。


夏、ジャン・クリストフ・アヴリィ、

1972年にフランスのテレビで上映される

『焼いたベーコンのある柔らかい自画像』の制作に入る。

「ル・モンド」紙はこの作品の背景に関する

ダリとのインタビュー記事にこう書いている。

​「魅力ある柔らかさ。​

 サルバドール・ダリは

 柔らかい物に感じる

(生命は柔らかい。そして、

 あらゆる生き物も。だが、

 堅いものはすべて動かず、死んでる)。

 ベーコンを使ったのは、

 沢山の豚が画面に登場するからである。

 豚は動物の中で最も柔らかく、

 可食性に富んでいる。

 ダリは自分を一匹の豚と信じ、

 豚はそのままで亡霊にも

 精神錯乱にもなり得る

 唯一の動物だという」。

​​翌年いかけ、​代表作の一つマグロ漁』を制作する。​


1967年(63歳)11月、​モーリスホテルで行われた

メソニエへのオマージュ展に『マグロ漁』を出品。

メソニエのほか、ヌーヴィーユ、モローなどの作品が展示される。

同じホテルで、

E.S.S.E.C.の生徒を前にカール・マルクスについて講演。

また、プイフォキャット社とインド航空から

デザインの依頼を受ける。前者はカード、後者は灰皿

(象に変身する白鳥をモティーフにしている)

同じ月、フリュール学院より名誉博士号を授与。


1968年(64歳)5月、​ルイ・ポーウェルとの共著「ダリの熱情」刊行。

また、この年の後半、著書「ドレージュのダリ」が刊行。

ドレージュのアトリエで大パーティが催される。

フランスにいたこの月(5月)は、

「わが文化革命」と題する小論文を書く。

この中で彼は、

美徳としてのブルジョア文化への反対を強調し、

ユネスコのような反快楽的機構に対し

わずかなビドーを加える必要性と、

堕落した愛の問題を初めて規制した聖ルイの保護のもと

その“超退屈な家庭”を真の性感帯の方に向ける可能性について語る。

そして最後を、次の有名な言葉で結んでいる。

「文化革命を経た所には、幻想の世界が必ず出現する」。

この年から翌年いかけて、ガラス彫刻を数点制作・・・

「サイクロップス」「悪の華」「肝心なのはバラ」など、

また、著書「歴史の芸術」のための資料集めをする。


1969年(65歳)​妄想症的・批判的方法を取り入れた

代表的な著書の一つ『エロティクな変貌』を出版。

7月、「パリ・マッチ」誌に

パリとバルセロナに関する特別レポートを寄稿。

その中の興味深い一節を見てみましょう。

「サルバドール・ダリは、ガウディを、

 我々の時代の最も有害な毒、つまり

 ル・コルビジェに対する

 解毒剤として見る。

 ダリによれば、将来の建築は

 ル・コルビジェの作品に見られるような

 プロテスタント様式における臨床的、

 実用的なものではなく、

 ガウディの作品や

 ローマカトリック時代の建築のような

 “柔らかく、でこぼこした”

 ものであるという」。

ペリア社の飲料水とランヴァンのチョコレートの

商業ポスターをデザインする。

12月、フランスの“弁護士会館”に名誉ゲストとして招待される。

議論されたテーマは、

「自分の作品の価値と独創性が

 自分自身の妄想症的状態から

 生まれたと信じる芸術家は、

 これに対して、

 この画家の経歴こそ

 彼が精神的に健全であることを

 最も確実に証明するものである、

 と記事中で主張したジャーナリストを

 名誉毀損で訴えることができるか?」。

ダリは、冒頭演説を終えた後どうだったか、

という問いに対し(彼はなんだか訳のわからない

同伴者を連れて、かなり遅れて到着した)、

会議の幹事フィリップ・ベルンはこう答えている。

「彼は一つ一つの演説に話を戻せば、

 それは期待以上に長いものでした。

 彼は、自分を“無政府主義者で、

 君主主義者で、消費社会の敵”

 だと宣言し、最後に突拍子もなく、

 “カタロニア語、つまりモン・リュエルの言語以外に心を動かす言葉はないから”、

 その言葉で、“発生的な”詩を暗唱するべきだと感じる、

 と明言し、演説を終えたのです。

 そして、カタロニア語で一篇の詩を暗唱した訳です。

 わかる人はいませんでしたが、

 サラ・ベルナールの響きに足るものだったに違いありません」。

『ガラの肖像』は、この年の作品。


(参考資料:美術出版社・SALVADOR DALIより)
(写真撮影:ほしのきらり)




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最終更新日  2021.10.13 10:00:55
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2021.10.12
カテゴリ:美術館・博物館
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​ダリは、古典絵画=特にベラスケスと西洋文化の宗教的な歴史を研究し独自の世界を作り上げてゆくのですスマイル

時計​​ダリの生涯と作品』その6​​時計

Salvador Dali

Crocifisso,1954

studio per “Corpus Hypercubicus"

Crucifixion,1954

study for “Corpus Hypercubicas"

oil on canvas  40.0cmx30.0cm

ローマ「ヴァチカン美術館」所蔵。

これは多分上向き矢印『三位一体』ですが

右後方にドン・キホーテらしき姿が・・・ほえー

​​​​​​サルバドール・ダリ 
​Salvador Dali​

1904年5月11日〜1989年1月23日(84歳没)

1954年(ダリ=50歳)​ローマ(パラヴィチニ宮)、

ヴェニス、ミラノで大回顧展。成功する。

記者会見の席上、“形面上学的キュビスム”を説し、

“ルネサンス”を目指すと発表。

写真家:フィリップ・アルスマンとの

合作「ダリの口髭」が完成。のちに出版される。

ロベール・デシャルヌとの合作映画

「レース編みの娘とサイの驚くべき物語」

(モンタージュ構成)の撮影開始。

「磔刑(あるいは、超立法形の肉体」の制作にあたり、

エル・エスコリアル宮殿で知られる

建築家:ホアン・デ・エレーラの

「立体図に関する小論」を参考にする。

また、「フェイディアスのイリューサスのサイ的崩壊」の

制作にもかなりの時間を費やす。この頃は、

すっかりサイの角(対数計算上完璧な曲線で構成されている)

に取り付かれている。


1955年(51歳)5月、​ヴァンサンヌ動物園で

フェルメールの「レース編みの娘」を妄想症的・批判的方法で描く。


12月、カリフラワーで飾り立てた

白いロールスロイスで、ソルボンヌ大学に乗り付け

「妄想症的・批判的方法の現象が来的様式」について講演する。

この年は、

『最後の晩餐』(ワシントン・ナショナル・ギャラリーが購入)


『フェルメールのレース編みの娘の妄想症的・批判的習作』を描く。



1956年(52歳)​エル・バルド宮でフランコと対談する。

近代芸術についての論文「古びた近代芸術のコキュたち」を出版。

「アーツ」誌(1956年9月12日号)に掲載された

「ダリは近代芸術を殺すか?」と題する記事の中に、

著者アレン・ジュフロイは次のように書いている。

「サルバドール・ダリの言動やほとんどの作品は、

 少なくとも、近代芸術には規則と限界があると

 考えている人々や、そうした問題に確信を持つ

 つもりもない人々を怒らせ、掻き立て、

 苛立たせる価値は持っている。(・・・)

 25年間、ダリの作品は、いわゆる、

 “絵画”の流れに逆らい、キュビスム、

 抽象芸術、表現主義などの現代様式を

 形造ってきた作品の価値を落とす方法へと

 傾いてきた。(・・・)彼は近代芸術を

 殺そうとする深い欲望を隠すどころか、

 はっきりと宣言する。だが我々は、

 彼が表現してきた、こっけいで

 狂ったような調子に騙されてはならない。

 ダリは大まじめであり、

 1936年にA.ブルトンをして

 絶対的に一級品と言わしめた

 彼のインテリジェンスは、

 "近代芸術”の威信を犠牲にした

 破壊的行動へと向けられてきたのである」。

7月、ベルギーのクノック・ル・ズゥート・カジノで回顧展。

12月、リトグラフの職人シャルル・ソルリエの協力を得て、

モンマルトルの街頭でリトグラフによる連作

「ドン・キホーテ」の1点をサイの角を用いて制作する。

通りすがりの人々、これを驚きの目で見つめる。

この連作の他のリトグラフにはインクをいっぱい混ぜた卵を使用。

この年の作品には・・・

『サイのような鳥肌』『生きている静物』

『スルバランの頭蓋骨』などがある。


1957年(53歳)​パリのジャックマール・アンドレ美術館で

「ドン・キホーテ」をテーマにした連作リトグラフ15点が公開。


1958年(54歳)​この年と翌年、

古典絵画(特にベラスケスの作品)と

西洋文化の宗教的歴史的題材について深く研究する。

また、独自の“視覚”芸術に着手し、

あらゆる種類の視覚的効果と幻覚を熱心に探究。

同時に、ハイゼンベルクの「コスミック・グレー」

について語り始める。

8月8日、モントレジク(スペイン)の

“天使の礼拝堂”で、宗教的儀式にのっとりガラと結婚式ダブルハート

11月、パリ駐在キューバ大使より、

「ドン・キホーテ」の功績に対し、フランス一等勲章を授与される。

12月、カーステアーズ画廊で個展。

この年の作品は・・・

『偉大なる聖ジェームス』『コロンブスの夢』

​(あるいは​​『クリストファー・コロンブスのアメリカ発見』)​

『聖母マリアのいる耳』

『マルガリータ女王の栄光の光と影に囲まれて彼女を描くベラスケス』

など。


1959年(55歳)​ローマ法王ヨハネ23世を謁見。

オリヴィエ・メルランは、「パリ・マッチ」誌

(1959年5月16日号)でこう述べている。

「月初め、ダリはヴァチカン宮殿で法王への謁見を許され、

 最近の大計画を報告した。それは、ギリシア正教会、

 カトリック教会、プロテスタント教会・・・などを

 一つに結ぶ全キリスト教会を象徴する

 大聖堂建設に関するものである。アメリカのサテライト

「ヴァンガード・・・」が示したような、

 地球の真の形を表した、

 地上30センチの高さのなし形のボールの上に

 建てられると言われる。このなし形は、

 ダリにとって、中世のキリスト復活、

 進歩の力、世界公会議の予想図、

 世界の論理統一などの象徴である」。

​​ロンドンとパリでの公演の後、

スキラの協力で評論誌「サイ」の出版を計画。

また、「聖ヨハネの黙示録」の制作にあたり、

壮大な構想を練る。

12月、クリスタル宮で「オヴォシペード」

(乗客一人一人の部屋を持つ窪んだプラスティックの

 球体から成る革命的輸送手段)を発表する。

その後、ペドロ・アントニ・デ・アラルコンの

「三角帽子」に挿絵を描く。


(参考資料:美術出版社、SALVADOR DALIより)
(写真撮影:ほしのきらり)

​​​


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最終更新日  2021.10.12 00:10:09
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