2021.10.17

サルバドール・ダリ 8歳〜19歳 少年ダリの初めてのアトリエ ダリの芸術的才能のめざめ 美術アカデミーで学ぶが失望! プラド美術館のベラスケスに刺激を受ける

カテゴリ:美術館・博物館
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​ダリ少年は、自宅の洗濯部屋をアトリエとして熱心に制作していますね〜ダリの才能が開花するまでを知りましょう手書きハート

DALI,Salvador(19歳〜20歳のころの作品)

Pierrot con guitarra

Pierrot with Gaitar,1923-1924

oleo sobre carton

スペイン「ティッセン・ボルネミッサ美術館」所蔵。

サルバドール・ダリ
​Salvador Dali​
​​
1904年5月11日〜1989年1月23日(84歳没)

シュルレアリスムの代表的な画家・写真家・版画家・作家。

スペイン・カタルーニャ地方「フィゲラス」出身。


​​1912年7月​、​一家は​

ムントリオル通りの別のマンションに引っ越しする。

屋上には、テラスがあり、

王冠​小さな王様ダリ8歳は、​

そこからの眺めをぞんぶんに味わった。

「遥かロザス湾までひろがる

 景色の全てが私に服従し、

 私の眼差しを頼みとしている

 ように思えたのだ」



母の説得に​​成功したダリは、

​屋上の古い洗濯部屋をアトリエとして使い始める。​


それは、小さな部屋だったが、

彼は精力的に活動した。

セメントでできた洗濯槽の中に座りこんで絵を描き、

晴れひどく暑い夏の日には、

腰のところまで水を溜めた雫


時には洗濯に使われた板を台ににし、

おばの店でもらった

帽子の箱に色を付けることもあったパレット


ダリのアトリエには、

ゴーワンズの美術全集が置かれていた。

父の選んでくれたその全集は一般向けとは言えず

文章はほとんどなかった。


1冊につきひとりの偉大な芸術家が取り上げており、

人物の歴史はビジュアルで表現され、

60枚の白黒の絵画が掲載されていた。


少年ダリの目には・・・目

そこにある絵画はどれも現実に思えるほど鮮明だった。

のちにダリは、アングル
(1780年〜1867年、フランス新古典主義の画家)の巻に掲載された

『The Fountain』に描かれる

裸の少女に​『恋をした』​と回想している。


それはまるで、

彼がその絵の中に住んでいたのではないか?

と思わせるような語り口だ。


ダリはこの全集のことを振り返りながら、

​「私は確かに、

 画家のワトー​
(1684年〜1721年、フランス、ロココ美術の画家)

 の描く陰影のある空き地でピクニックをしたり、

​ ティツィアーノ(1490年頃〜1576年、イタリア、ヴェネツィ派の画家)

 ​の描く風景の中を散歩したりしていたのだ」​

と述べている。


ビデオ映画や写真カメラジャーナリズムの幕開けとなった

「資格の革命期」と呼ぶべき時代に、

ダリはすくすくと育つ。

少年の心は新しい技術に釘付けだった。


最初の教師である「エステバン・トライテル」は、

ビデオ立体映像投影装置を持っており、

生徒たちにも使わせてくれていたのだが、

この不可思議な3次元映像を

見せてくれる装置にダリは興味津々となった。


​フィゲラスの街で初となる映画館は・・・​

ダリの生まれた年に開業しており、

少年時代の彼の楽しみは、

土曜日の朝、

ビデオ新作映画を観に連れて行ってもらうことだった。


歴史家の多くが言及するように、

初めて映画を観た人は誰でも、

混乱し、

叫び声を上げたものである。


当時の映画は・・・

ストーリーというものはなく、

その頃よく行われた屋外ショーを原型に作られた。


そこには資格的なギャグがちりばめられ、

何よりも観客を仰天させることが目的とされていた。


たいていの作品では、

まず「静止画」が映され、

それが様々な形に変化していくという手法を取っていた・・・


例えば、じっとしていた汽車が動き出し

煙を吐きながら観客に向かって来る、

といった具合に。


多くの人がそうであったように、

少年ダリも映画に夢中になった。

ダリの母親は手の平サイズの投影機を購入し、

よく家の壁にショート・フィルムを映写していたという。


この頃の「初期映画表現」とダリは、

実はとても深い関係で結ばれている。


観客を驚かすことが好きで、

物事の変化の過程を表現することに

強い興味を抱いていたダリ。

彼は映画や写真技術の進化を探求し、

その効果を自身の作品の中で再現し続けていたのだ。


​​​​​​​ダリの芸術的才能は、子ども時代に花開いた。

1916年6月、12歳のダリは​

家族ぐるみで交流のあった

ピショット家に滞在していたのだが、

​彼はそこで「印象派」に触れたのである。​


ピショット家の私有地・・・

麦畑とオリーブの木立ちがあった・・・は、

印象派の絵画に出て来るような風景であり、

印象派の先進的な色使いと

荒々しいタッチに痺れるほどの衝撃を受けたダリは、

「ぶ厚く、無定形に塗られた

 絵具を前にして、私の眼は、

 見たいもの全てを見て取れるほど

 成熟していなかった。

 ・・・誤って気管に

 のみこんでしまった一滴の

 アルマニック・ブランデーのように、

 それは喉の奥深くでじりじりと燃えていた」

と記している。

彼は水晶のデカンタ・ストッパーを

魔術師のように覗き込みながら目

ピショット家の敷地をあちこちと散策していた。

そうやって歩くと、

水晶の中に印象的な

幻の断片が映し出されるからだった。


ピショット家で過ごした後に描かれた作品に、

『パニ山からのカダケスの眺め』がある。

これは、典型的な印象派の絵画であり、

色彩豊かで、特徴的な筆致が

光の効果を描きとめている。


しかし、

印象派の実験は長くは続かなかった。

牧歌的な田園風景よりも、

ドラマティックな魅力を持つカダケスの風景が、

ダリの心をさらったからだった。


ラモン・ピショットの勤めに従い、

ダリの父は息子を、フィゲラス市立美術学校へと入学させる。


その学校の美術教師:ファン・ヌニェスは、

ダリの才能を高く買い、

その指導下でダリの技術は磨かれた。

ヌニェスこそが・・・

芸儒家として成長する上で

最も重要な指導者だったと語るダリ。


一方で、芸術家としてのヌニェスも、彼は評価していた。

入学した年の終わり、

ダリは優秀賞を獲得。

その入賞を祝し、

父はフィゲラスの自宅で展示会を開いてくれた。


​​1921年(17歳母が子宮ガンで亡くなると、

ダリは成功への意志をますます強く抱くようになる。

「いつの日か、

 わが栄光の名のまわりに荒々しく

 輝きわたるであろう光の剣を引っ下げ、

 死と運命から母を奪い返すのだ。

 そう、自らに誓いを立てたのである」


1922年(18歳)​​、家を出て、ダリは・・・

マドリッドの「王立サン・フェルナンド芸術アカデミー」に入学。

だが、彼は入るや否や、

「名誉や勲章に飾られた老教授たちから

 教わることなど何もないことを、

 たちどころに悟って」しまい、

大きな失望を覚える。


教授たちはフランス印象派を追求していたが、

ダリにとってそれは、

もはや終わったものだったのだ。


王冠小さな王様が語るところによると、

「1923年、新任教師の能力に

 疑問を呈して停学→その3年後、


 自分の作品を審査するだけの資質が

 教師たちにはないと言い放ち、


 退学処分を受けた」そうである。

それでも、

マドリッドでの経験は、

ダリにとって有意義なものだった。


プラド美術館のベラスケス(1599年〜1660年、17世紀スペイン最大の画家)

のコレクションは、刺激的だったし、

中でもいちばんの収穫は、

「学生館」と呼ばれる寮での社交生活だった。


(参考資料:芸術家たちの素顔2僕はダリより)
(写真撮影:ほしのきらり)


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最終更新日  2021.10.17 00:10:09
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