2021/10/17(日)00:09
toxic parent(毒親)にならないために~小説『わたしはイザベル』
みなさん、こんばんは。自民党の豊田議員の映像見ましたか?酷いですよね。言葉の暴力です。病院に逃げ込んでますけどずるい。
こちらの作品に出て来る母親も酷いのです。
わたしはイザベル
I for Isobel
エイミー・ウィッティング
岩波書店STAMPBOOKS
作者が原稿を持ち込んだ際編集者が「実の子供にこれほどつらく当たる母親がいるはずがない」と一度は刊行を取りやめたいわくつき。確かに親―とりわけ母親―は子供に優しく、それが当然と思われている。しかし著者自身も小説のヒロイン、イザベル・キャラハンと同じに、実の両親から毎年「今度の誕生日は、プレゼントはありませんよ!」と言われたそうだ。‘当然’はありえない。たとえ家族の間でも。
せめて嫌われる‘理由’があれば良かった。常に母親に反抗的な態度を取る。非行に走る。自分が嫌いな誰かと親しくしている。そうすれば、イザベルも「何をすれば/何をしなければ母親に好かれるか」がわかった。ところが母親は一切理由を言わず、時と場合を選ばず悪意をぶつけてくる。やがてイザベルを嫌ったまま、母親は彼女が9歳の時にこの世を去る。ここまでが作品の第一章。さあ、これでヒロインは解放された。今までのツケを取り戻すかのように、幸せな日々が始まるに違いない。
普通なら、そうだ。だが違った。
心の傷は、まだ塞がっていなかった。しかし彼女のこれまでを知らない人の前では、傷があるなんておくびにも出せない。傷を庇って、取り繕って、今ある傷も、ない振りをする。でも本当は痛くてたまらない。一方で、傷つかない方法だけは知っているので、似たような事態に遭遇しても、如才なく切り抜ける。しかしそのことで、彼女は周囲から違和感を抱かれる。なぜ彼女は傷つかないのか、あんな事をされているのに。‘普通’がわからないイザベルは、遠回りをしてやっと原点に辿りつく。
児童虐待やDV、家庭内暴力が様々な事件によって公になり、皮肉な事に「必ずしも親が子供を愛せるわけではない」「必ずしも親が正しいわけではない」という事が、現在では広く認知されている。日本でもドラマ化された萩尾望都さんの漫画『イグアナの娘』で母子の確執が描かれた。作者が書くことによって過去に向き合えたように、イザベルも‘書くこと’をきっかけに、迷路から抜け出る。誰もが容易く見つけられるわけではない。しかし必ず出口は見つかる。願わくば子供自身ではなく、周囲の大人が出口を見つけるよう助けられる、そういう社会になれば良い。
自分の気持ちをうまく表現できない思春期の読者よりも、思春期を乗り越えた読者の方が、本書を読んで「ああ、実はこういうことだったのか」と理解できるのではないか。
【楽天ブックスならいつでも送料無料】わたしはイザベル [ エイミー・ウィッティング ]楽天ブックス