母の死
母が2025年6月3日16時58分亡くなった。 職場を早退させて頂き、電車で向かっている途中で危篤の知らせを受けた。着いた時はまだ母は息をしており、口を動かしていたが、もう言葉にはならなかった。眼が黒ではなく、濁った緑のような色をしていたので、いよいよ、と思った。口を開くので、何度も聞き取ろうと耳を寄せたがマスク越しだ。「ごめんなさい!お母さん、聞き取れない!」と言った。それから間もなく呼吸の感覚が間遠になり、息を引き取った。 ところが、看取ったのは叔父である。危篤の報を受け、叔父叔母に連絡をすると、叔父はすぐ来てくれた。叔母は離れた所におり、一人では来られない。「残念だね」と言われた。私はちょうど早退して向かう途中の電車で連絡を受け、16時15分に着いた。そのあと叔父が来てくれた。医師から家族に説明をしたいと言われ、席を離れて戻ったら亡くなっていた。仕事先からかけつけた妹は、ちょうど病院の前の道で、二つ前の車が曖昧な動きをしてなかなか動かず、その次のバスと共に動けなかったそうだ。かけつけた時には医師が死亡宣告しており、まったく予測していなかった妹は、私と叔父が葬儀の話をしていると、「その話待ってもらっていいですか!」と怒り出したので、廊下に出て打ち合わせをした。長女はやはり泣けなかった。ドラマのヒロイン枠を持っていったのは叔父、段々冷たくなっていく母の傍にいたのは妹。私は葬儀の手配を済ませなければならなかった。これから暑くなる。火葬場の手配を一刻も早くしなければならない。亡くなってしまったからには、病院にはいられないのだ。 2023年8月に入院し、都内の病院で心臓カテーテルの手術をした。しなければ余命3年と言われた。難しい手術で母は怖がっていた。医療者でもある妹は積極的に勧めた。「皆成功して、ちゃんとその後長生きしているから」私は「大変な手術だと思う。できるなら受けてほしい。でも、最後に決めるのはお母さんだから、決断を優先する」と言った。夏休みが始まったら7月中に宿題を終えるような用意周到な母である(そして自身もその性格を多分に受け継いでいる)。本を借り、看護師をしている姪に話を聞き、資料を集めた。 手術は成功して9月に退院したが、その月に高熱が出て、救急車で近くの病院に運ばれた。菌血腫と言われ、私が帰ったのは午前1時過ぎだった。タクシーは呼べなかったので歩いて夜道を帰った。 その後11月に退院の予定だった。病院でもリハビリをしており、家では在宅介護をする予定だった。しかし、途中でラインの文言がおかしくなった。帰宅後、明らかに言動がおかしくなり「死にたい」といい、ものを食べなくなった。仕事を休む予定もなかったので、帰宅する際に食料をいろいろ買って、作るのだが、殆ど食べてくれない。その後で自分の食事を作るが、疲れていてあまり食べる気にならない。母がちゃんと食べろと言うので「そんな事を言うならお母さんがちゃんと食べて!」と怒鳴ってしまった。この頃が本当に地獄だった。家に帰ったら死にたいという母がいて、自分は会社に行かなければならない。夜も母と一緒なのでよく眠れない。途中で妹が介護休暇を取ってヘルプに入ってくれた。 12月に心臓カテーテルの手術をした都内の病院の精神科への入院が決まり、妹がつきそい、私は見送った。「行ってくるね」というと「いつ帰ってくるの?」と母が聞き、妹が涙を流した。帰って来られないのは母の方だった。 落ち着いたが、一人で家に置いておけないので、近くの病院の地域包括病棟に2024年3月14日に転院し、様子を見ることに。2か月後、そこの介護医療院に入ったが、リハビリは行わず、まだ歩ける状態の母は、あまり見てもらえなかった。面会は週1回で20分ほど。都内の病院の面会時間は少し余裕を見てくれたが、こちらは厳格。右目がほとんど見えないのに自分で点眼薬をさせといわれ、母は心細がって泣いていた。 妹が決断し、面会ができてリハビリができる有料老人ホームに入ることにした。介護医療院から5月13日に退院し、入所。料理レクや脳トレもあり、もちろんリハビリもできた。何より家から駅で一駅だったので、通うのに便利。面会は自由。もし一人で家にいられるまで回復したら、在宅介護を利用して、家で暮らすことを目指していた。母も積極的にリハビリに参加し、歩こうとしていた。実際駅まで歩けたので、「これだったら本当に頑張れば家に帰れるのでは」とホームの人たちも言っていた。母はホームの費用を心配していた。少し認知が入っており、数字の感覚がわからなくなっていた。何度説明しても金額を10倍に想定し、デジタル時計の時刻が読めなくなっていた。事実よりも金額を多く想像していたから、「これでは娘がつぶれてしまう」と年内退所を目指して頑張っていた。実現したかもしれなかった。 ところが10月の都内の病院の心臓手術後の検診で、母がかゆみと不眠を訴えた。医師は心配なら精神科の受診を、と勧め、施設でも母が落ち着かなくなったので、再び同じ病院に12月16日に入院、1月16日に退院した。今度の精神科は若い患者もいたため、母は自立を促されて苦労していた。一人で排泄ができないのに、できることはやれ、と若い患者と同じことを言われた。母の希望で年末年始家で過ごした。年越しそばを食べ、お雑煮は食べられなかったがお正月料理を食べて、近所の神社に初もうでに行った。最初31日の午後に迎えに行く予定だったが、母が病院を嫌がっていて、31日10時に迎えに行き1日午後2時くらいに家を出た。これが母が家に戻ってきた最後だった。 施設でコロナが流行し、予防接種を受けていた母もついにかかってしまった。直近の病院でも食欲が落ちていたが、熱でさらに食欲が落ち、何も食べなくなった。とろみ剤を使っては?と言われたり、家から好きなものを持ってきては?と言われて夜討ち朝駆けでカリン水や自分で作った魚のスープを持っていったこともあった。母の好きなものは全部知っている。これなら食べる、と思ったが栄養はない。母はどんどん痩せていった。頑健だったが、転びやすくなり、ついに車椅子を使用した。母はずっと“食べたいのに食べられない”と訴えていたが、施設の看護師は「無理に食べさせるのは虐待だとおっしゃるので、スタッフも引いてしまって。こちらから積極的に勧めるのはやめます」と言われ私と妹は焦った。これでは日干しである。弱っている母は、誰かが口に運ばなければ食べることもできない。それをじっと見ていることが、施設スタッフの仕事なのかと憤りを感じた。医療施設ではないので、限界があるのかもしれないが、それでもただ見ているとはひどすぎる。施設の限界もあったろう。それでも、もう少し病気の母に寄り添ってほしかった。妹は点滴できる病院へつないでくれるよう、必死でかかりつけ医に頼んだ。精神を患っているため、なかなか受け入れ手がなかった。以前入院した都内の病院も断られて、覚悟した。 やっと見つかり、都内の健康長寿医療センターに3月19日入院できた。会社を退社して6時に向かい、病院で施設から来た母と合流し、入院手続きをした。後から妹もやってきた。転院先を相談する相談員さんに、認知症の診断が出そうですから、そうしたらおすすめの病院がありますよ、と言われた。退院する際にレビー小体認知症と診断された。食べられないのは認知症のいち症状だった。そしてこの認知症は、抗精神薬に弱い。母は、ずっと本当の事を言っていた。食べたいのに食べられないのだ、病気のせいで。 5月8日に転院し、副院長が診察し、かなり深刻な状態であると告げた。妹は泣いた。面会制限なしと言われた。認知症の数値がかなり極端に下がっており、食べられない状態は続く。最期が見えてきた。しかし妹は「いつも、危ない所でいい病院に見つかって助かってきたから、今度も必ず復活するはず」と信じていた。医療者の妹が奇跡を信じ、私は最期を意識した。 入院してからは、ずっと自己肯定感の低い人だった。具合が悪くなったと知らせがあったので530日早退して病院に行き、2時間ほどいた。「他力本願で情けない。娘に迷惑をかける、ダメな人間だ」と言いまくる母を、ひたすら肯定しまくる娘という、逆転の構図だった。「これまで本当にありがとうね。」というと「何いってんの」と返された。今から思えば、虫の知らせだったのだ。 この日から毎日、病院に通った。日曜日、名前を呼んでも反応がないと言われたので病院に向かった。その時に職場の上司に初めて事態が深刻であることを伝えた。 亡くなる前日の6月3日、職場の上司から「早退していい。これからはできるだけ早退してお母さんのそばにいてあげたほうがいい」と言われた。職場なので号泣はしなかったが、涙があとからあとからこぼれてきて「涙腺決壊しました」と言った。「当たり前だよ、はりつめているんだもん」と言われた。夕方病院につくと、ちょうどアイスクリームを看護師さんが持ってきた。「娘さんが来ると反応が違いますね」と言われ、母の目が輝いた。その後歯磨きをして「歯がきれいですね」と言われてまた笑顔になり、殆ど反応が示せないながら、昨日は特に笑顔が多かった。あるポーズがロダンの「考える人」っぽかったので「上野の森美術館に行ったよね?」というと「行きましたよ」と少し茶目っ気ありでちゃんと答えた。認知になってから、母はかわいくなった。私が母で、母が娘だった。 帰る前に「あなたは他力本願でもない。情けなくもない。あなたが悪いのじゃなくて病気が悪いんだからね。あなたは立派な娘で母親なんだからね。」というと目を閉じて頷いた。とはいっても、すぐ自己否定に走るので、またリバウンドしたのかもしれないが。帰りに「もしできたら、明日くるからね」というと「来るの?」と聞いた。母は、亡くなるその日も、生きて私たちを迎えるつもりだった。母は、最後まで戦っていた。 後悔しないように、沢山施設や病院に通って話をした。元気な頃の写真も見せた。施設に入ってからは、好きなせんべいも差し入れした。「家に帰ったら一緒に料理をしようね。お母さんは監督ね。」と話をした。 母も最期まで頑張ってくれた。二人ともやり切った感があると思っているのは私だけなのか。2023年11月から2025年6月まで、共に戦った仲間をやっと送り出す。 ちゃんと約束は果たしたよ。とりあえず細い体でよく頑張った!ゆっくりお休みくださいな。そして、縁があったら、またお会いいたしましょう。