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昨日に続いて、NHKスペッシァル原爆投下・活かされなかった極秘情報の続きです。
広島に原爆が投下された翌日の八月七日、アメリカ政府は広島に原子爆弾を投下したと、発表しました。 しかし、帝国陸軍の中枢部は、普通の爆弾を大きくした程度だと、過少評価して被害を小さく見せようとしました。 東郷茂徳(しげのり)外務大臣は、原子爆弾と認めて、対策せよと迫りましたが無視しました。 翌日の八月八日、広島に原爆を投下したヱノラ・ゲイのコール・サインを突き止めた陸軍特種情報部を表彰していますから、大本営陸軍部は、原爆と分かっていました。 認めようとしなかったと理由は、戦争を始めた東条英機首相が、兼務している陸軍大臣として、理化学研究所の仁科博士に原子爆弾の開発を命じましたが、遠心分離機の開発が精一杯で、失敗したからです。 帝国陸軍で出来ないことが、アメリカでも出来ないと勝手に思っていたからです。 敗戦後、占領軍が真っ先に飛び込んだのが、理化学研究所と京都帝国大学です。 近畿では、和歌山の雑賀岬の海岸に上陸用舟艇で強行上陸したアメリカ海兵隊が、旧国道26号沿いに、大阪に着き、即、京都帝国大学に突入して、遠心分離機を大阪湾に捨てました。 放射能は大丈夫だったのか、今でも心配しています。 八月九日未明には、広島に原爆を落とした敵B29爆撃機と同じV600代のV675のコール・サインが、発信されました。 この暗号無線のコール・サインV675を傍受したのは、大田新生(あらお)中尉(90歳)で、陸軍中枢部に伝達したと述べています。 陸軍参謀本部の井上忠男少佐は、梅津参謀総長に伝達したと、手記に残しています。 戦争末期、軍都広島と呉海軍鎮守府を護衛のために、松山に、源田実(後の参議院議員)の松山紫電改で有名な松山海軍航空基地、 長崎造船所など九州全域を護るために、海軍大村基地の海軍局地戦闘機紫電改が頑張っていました。 高度一万メートル以上を飛ぶB29爆撃機を攻撃出来るのは、一万メートル以上まで飛べる紫電改だけです。 大村海軍航空基地で、紫電改のパイロットだった本田稔さん(88歳)は、兵庫県から大村へ帰る途中で、広島上空で、紫電改が吹き飛ばされて、500メートル上空で、操縦が出来るようになり、機体を立て直せたと述べています。 赤黒いきのこ雲が見え、さっき見た広島市が様変わりしているのを目撃したと述べています。 原爆を積んだB29爆撃機を見つけたら、体当たりして、撃墜する覚悟だったのべています。 続く
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Last updated
2011.08.08 12:30:41
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