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大阪の下寺町(したでらまち)にある源聖寺でのお彼岸の施餓鬼(せがき)法要が終った後、いつも、車で通り過ぎていた谷町台地を初めて歩いて来ました。 天王寺七坂の一つ源聖寺坂を上り、織田作之助の小説で有名な口縄坂、愛染坂、清水坂と、上り下りしました。 まず、戦前の昭和十三(1938)年公開され、大ヒットした田中絹代、上原謙(加山雄三の父)主演の松竹映画の主題になった愛染かつらに、愛染堂で、対面して、感激しました。 第一回大阪大空襲で、表面焼けたが、生き残ったと説明されていました。 YouTubeから映画愛染かつら総集編を転載しました。 主題歌、旅の夜風も、霧島昇とミス・コロンビアの松原操(後の霧島夫人)のジュエットで大流行しました。 天神坂では、真田幸村戦死の跡地で、幸村の銅像に触れ、一心寺では、祖母の骨仏も眠っている骨仏を拝み、四天王寺へお参りしました。 一心寺からアベノ・ハルカスが望めました。 聖徳太子の時代は、この鳥居の前まで海で、隋の大使を迎える港での迎賓館の役目していました。 四天王寺は、聖徳太子が建てた七大寺の一つで、法隆寺より前に建てられましたが、たびたび災害に見舞われています。 戦国時代の天正四(1576)年には、石山本願寺攻めの兵火で焼失し、豊臣秀吉によって再建されましたが、慶長十九(1614)年の大坂冬の陣で焼失、江戸幕府の援助で再建されましたが、幕末の享和元(1801)年の落雷でまたも焼失、文化九(1812)年再建されました。 文化九年に再建された伽藍(がらん)は昭和まで残っていましたが、昭和九(1934)年の室戸台風で、五重塔と中門が倒壊し、金堂も大被害を受けました。 五重塔は昭和十四(1939)年に再建されましたが、昭和二十(1945)年三月の大阪大空襲で、国宝の東大門他伽藍とともに焼失しました。 現存の中心伽藍は、昭和三十二(1957)年(1957年から再建にかかり、昭和三十八(1963)年に完成しました。 飛鳥建築の様式を再現した鉄筋コンクリート造です。 五重の塔の五重から本堂を見下ろした光景 亀の池の亀を見ると昭和初期の四天王寺を思い出します 先日は、徳川家康が完全に地中に埋めた秀吉時代の大坂城の石垣を見学して来ました。 上町台地は、何度も戦乱で、焼き払われています。
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Last updated
2014.03.25 11:19:55
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