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李香蘭こと、山口 淑子が9月7日に、心不全で、94歳の波乱の人生を閉じました。 戦前の大正九(1920)年2月12日に、満州の奉天省の炭坑の町、撫順で、満鉄(南満州鉄道株式会社)で中国語を教えていた佐賀県出身の父、山口文雄と福岡県出身の母・アイの間に生まれました。 南満州鉄道(満鉄)の特急アジア号は、大連ーハルピン間を8時間で結び、当時世界一の早さでした。 戦後、この満鉄技師と、ゼロ戦こと、海軍零式艦上機を造った技師たちで、東京ー大阪間の弾丸列車、今の東海道新幹線を造りました。 小学生の頃に家族で奉天市(現瀋陽市)へ移住し、家族ぐるみで交流のあった瀋陽銀行の頭取・李際春将軍(後に漢奸罪で処刑)の義理の娘分(乾女兒)となり、李香蘭(リー・シャンラン)という中国名を得ました。 当時、中国の旧習で、縁を深める為にお互いの子供を義子とする習慣があったからで、戸籍は日本名でした。 終戦を上海で迎えた彼女は、漢奸(かんかん、中国人として祖国を裏切った)容疑で中華民國の軍事裁判に掛けられたものの、日本人であることが証明され、漢奸罪は適用されず、国外追放処分となり、日本に帰国出来ました。 この間の事情は、劇団四季の李香蘭で上演されています。 YouTubeより、映画さよんの鐘より、台湾軍の歌を転載しました。 昭和十三(1938)年、大日本帝国台北州蘇澳郡蕃地大字リヨヘン社に駐在していた日本人の巡査で、村の学校教師だった田北正記に召集令状が届きました。 下山する際の荷物運びを村の青年たちが申し出て、その中に17歳の少女サヨン・ハヨンもいました。 一行は悪天候の中出発しましたが、途中の川に掛かった丸木橋を渡る際、荷物を背負っていたサヨンは足を滑らせて増水た川に落ち、死亡しました。 出征する恩師を見送るために、少女が命を犠牲にしたことから、台湾先住民の愛国美談となって広まり、台湾総督によってサヨンを顕彰する鐘と碑が、サヨンの鐘と、愛國乙女サヨン遭難の碑として、遭難現場付近に建てられ、松竹映画、台湾総督府、と満州映画とで、映画化されました。 戦前、戦中の満州地方(中華民國と満州國)と日本、 戦後の香港では、李 香蘭(り こうらん、リ・シャンラン、Lee Hsiang Lan)の名で、 戦後の米国ではShirley Yamaguchiの名で映画、歌などで活躍しました。 帰国後は、旧姓山口淑子の名前で芸能活動を再開しました。 アメリカや香港の映画・ショービジネス界で活躍、昭和三十三(1958)年、外交官大鷹弘と結婚のため芸能界を引退しました。 昭和四十四(1969)年、フジテレビのワイドショー、3時のあなた、の司会者としてマスメディア界に復帰、昭和四十九(1974)年3月まで務めました。 昭和四十九(1974)年から平成4(1992)年までの18年間は、本名の大鷹淑子として、参議院議員を務め、日中平和に務めました。
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Last updated
2014.09.25 22:33:21
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