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今、猛烈な台風21号が日本に向かっていますが、釜ヶ崎騒動のあった昭和三十六(1961)年にも、その一か月後の9月十六日(土曜日)に襲来した第二次室戸台風や、日本最強の戦前の昭和九(1934)年9月21日に高知県室戸岬付近に上陸し、京阪神地方を中心として甚大な被害をもたらした台風の進路に近いので心配しています。
室戸台風では、聖徳太子の時代に作られていた四天王寺五重塔が全壊したのをはじめ、 人的被害は、死者2,702人、不明334人、負傷者14,994人。 家屋の全半壊および一部損壊92,740棟、床上・床下浸水401,157棟、船舶の沈没・流失・破損27,594隻という大被害を出しました。 9月21日午前5時頃に高知県室戸岬西方に上陸した室戸台風は上陸時の気圧として911.6ヘクトパスカル、(684水銀柱ミリメートル)という日本の台風観測史上記録的な数値です。 風速計は飛ばされて、風速は暫定値です。 台風は淡路島付近を通過し、午前8時頃に阪神間に再上陸、京都付近を経て若狭湾に出ました。 暴風の為、比較的大きな建築物に被害が相次ぎましたが、木造の小学校校舎では児童・教職員に多数の犠牲者を出しました。 大阪市内の小学校244校と実業補習学校2校のうち、被災を免れたのは鉄筋コンクリート造り及び昭和三(1928)年以降建築の耐震型最新式木造校舎の66校のみで、古い木造校舎の180校480棟全てが全壊・半壊・大破しました。 台風の警報等無かったので、最大の風速に達したのが登校時刻の午前8時前後で、強風が直撃した木造校舎が一瞬にして粉砕崩壊、あるいは押し倒されるように倒壊し、中にいた児童や職員、心配して迎えに来た保護者に多数の犠牲者を出しました。 大阪市内の小学校内における死者は合計267名(職員7名・要員2名・児童251名・保護者7名)で、重軽傷者は合計1571名に上りました。校外における死者18名、重軽傷者610名に対して、大阪城公園には死者を慰霊する塔(教育塔)が建てられ、毎年、全国の教職員の殉職者を、慰霊しています。 JR尼崎駅南口(兵庫県尼崎市)に立つ室戸台風時の水位としてOP+5.10mを示しています。 再上陸時には満潮を過ぎていましたが、まだ潮位は高かったことと最大瞬間風速60m/sという強風により、4メートルを超える高潮が発生、大阪港の築港路上の記録として30分の間に2mを超える海水の流入があり、地盤沈下の影響もあり滞留した内水と押し寄せる海水の影響で、大阪城付近まで浸水したと言われています。 あまりの急な水位の上昇に、避難が間に合わず、大阪湾一帯で溺死した者は1,900名以上と推定されています。。 京阪神地方における被害は「関西風水害」の名で呼ばれています。 枕崎台風、昭和二十(1945)年、と伊勢湾台風、昭和34(1959)年と並んで昭和の三大台風の一つに数えられています。 昭和三十六(1961)年の第二次室戸台風は9時過ぎ室戸岬西方に上陸、中心気圧925 hPa、室戸岬で最大瞬間風速84.5m/s以上。 死者194名、行方不明者8名、負傷者4,972名、 住家全壊15,238棟、半壊46,663棟 床上浸水123,103棟、床下浸水261,017棟など 大阪で33.3m/s(同50.6m/s)、和歌山で35.0m/s(同56.7m/s)、新潟で30.7m/s(同44.5m/s)など、各地で暴風となりましりました。 大阪市では高潮により市の西部から中心部にかけて31平方kmが浸水したが、過去の同様な規模・進路であった室戸台風、ジェーン台風に比べると浸水面積は小さく、人的被害も小さかったです。 兵庫県、和歌山県、四国東部でも高潮による浸水被害がありましたが、台風の通過した近畿地方と吹き返しの強い風の吹いた北陸地方で暴風による家屋の倒壊等の被害が特に大きかったようです。 私の工場の大屋根が飛ばされて、修復に、当時の金で、500万円かかり、後始末大変でした. お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2018.09.02 14:35:21
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